低温火傷
たけ
低温火傷
久しぶりに会った夫はとても冷たかった。
「どうして」
私は呟くように言った。夫はこたえなかった。
「ねえ、どうして? どうしてなの?」
夫の肩を揺さぶる。強く掴んで揺さぶる。夫の顔に変化は無い。私が必死で見詰めているのに、その目を見詰め返すことすらしてくれない。そんなに私と目を合わせたくないの? 頬を涙がつたう。
「どうして何も言ってくれないのよ! ……そりゃあ、確かに浮気のことは悪かったと思っているわ。でも、でも、全部無かったことにしてきたのよ。清算してきたのよ! 私には、もう、あなたしかいないのよ! ねえ! だから、なんとか言ってよ!」
夫は、それでも、口を開いてくれなかった。私も黙る。部屋の中がしんと静まり返る。何て嫌な沈黙なんだろう!
私は遊び好きな女だった。それは認める。けれど、本当に大切にしないといけない愛情については、知っているつもりだった。暖かくて、甘い生活。一緒にいると、とても心地良いひと。一番大事なのは、貴方だった。私はよく知っていた。だから、今回のことも単なるお遊びのつもりだったのに。本当に、気の迷いだったのに。
「許してよ……ねぇ」
夫は答えなかった。泣いた。化粧が崩れるのも構わずに泣いた。嗚咽を漏らした。
*
始まりは、高校の同窓会だった。車で駅まで送ってくれるという彼の言葉の中には、裏の意味は感じられなかった。彼が、いつそういう気持ちになったのかはわからない。けれど、きっと、車の中でいろいろと懐かしい思い出や、近況とかを話しているうちに、そういう気分になったんだろうと思う。私は彼じゃないから、彼がそのときどういう思考をしたのかはわからない。
でも、彼は私を誘った。
私はその日、地下鉄で帰る予定だった。駅のところで「降ろして」と言った。
彼は、家まで送ってもいいんだよと応えた。彼は笑っていた。
私は彼の真意に気づいた。
数年ぶりの再開に、私の気持ちも浮ついていたんだと思う。私は、彼と一緒に、そのままホテルで降りた。
存分に快楽を堪能した。まどろみに飲まれた。
目が覚めたときには、傍らに彼が寝ていた。
昨夜のことを思い出そうとする。よく思い出せない。
思い出されるのは、私が動いて出来た、シーツの皺。鏡張りの壁。白い天井。
軽く頭を振って、タバコに火をつける。
その匂いで、彼は目覚めたのだろう、
「おはよう」
と眠そうな目をしながら、優しく微笑んだ。複雑な気持ち。夫以外の男に、再び抱かれてしまった。背徳感があった。もう二度と浮気はしないと誓ったはずなのに。
でも、一方で、私の心の中には、言い知れない満足感もあった。後悔は無い。善に快楽が勝った、ということなのだろうか。
まるで、どうしても勝ちたいスポーツの試合で、反則をして勝った時のような、そんな感じ。
ホテルを出る間際、彼が訊いてきた。
「今度は、いつ?」
私は片眉を上げる。
「そうね──」
それきりにしておけばよかった。
それきりにしておけば、よかったのに。
『ごめんなさい。昨日は酔ってそのまま、記憶をなくして、友達の家に泊めてもらったわ』
『そう。友達にお礼を言っとかなきゃね。でもさ、もう少し酒を抑えろよ(笑)。じゃあ帰るの待ってるから』
それでメールでのやりとりは終わり。
なんだか拍子抜けした。
あなたはバカだわ。何故気づかないの?
心の中で、理不尽な不平を言う。
夫は昔から鈍感だった。前のときも気づくまでに何ヶ月もかかった。愚かしくも優しい男。いや、優しいというよりは、従順といったほうが正しいかもしれない。
結局、前回のことも夫は許した。二度としないという条件付きで。その契約を今でも守っていると本気で信じているのだろう。そんな糸のような契約で私を縛ることが出来たと信じているの? 本当に、あなたは、なんて、従順でバカなんだろう!
あなたがあの時簡単に許したから。だから私は、こうして──。
自分の行為を夫の所為にする。
私と彼の逢瀬は数ヶ月に及んだ。そして、一週間前から、私は長期旅行と偽って、彼の家に転がり込んでいる。あと二週間は、彼の家に居座るつもりだった。けれど、私が彼の家を去ることになるのに、時間はかからなかった。
コンビニに買出しに出た私は、ばったりと会ってしまったのだ。夫の母に。
こんなところに夫が来るはずがないと思っていた。でもまさか、お義母さんが来るなんて! 私は混乱する頭を抑えることが出来なくて、何も言わずにその場を去ろうとした。けれど、義母が私を呼び止めた。
私は、ぎこちない笑顔を浮かべる。義母はじっと私を見ている。心に、重く苦しいものを感じる。ああ。私は思わず走り出した。後ろを振り返らない。
「──」
お義母さんが、私の背に、何かを叫んでいる。何を言っているのかは、訊けなかった。耳にするのが怖かった。私は、とにかく逃げた。
それから、三日後、私は彼の家にある自分の荷物をまとめた。
家に帰ることを決めた。
いろいろと悩んだけれど、やはり私には、夫が一番大事だということで落ち着いた。お義母さんに会ったことはチャンスだったのだ。天が私に引き返すチャンスをくれたのだ。そう思う。帰ろう。旦那が待っている私たちの家に。まだ、大丈夫。まだ、大丈夫。まだ、大丈夫──。呪文のように繰り返しながら、私は荷物をまとめる。
*
「私、これから、どうやって生きていけばいいの?」
冷たくなった夫にすがりつく。
夫は何ひとつこたえてはくれない。
部屋の中には、私の嗚咽が響いているだけ。
湧き上がる感情を一体どこにぶつければいいんだろうか。
何度も私を誘った彼だろうか。
黙ったまま眠り続ける夫だろうか。
それとも、心筋梗塞ですと、事務的に言い放った医者だろうか。
いや、わかっている。何よりもこの怒りは私自身にぶつけられるべきなんだ。
私がいれば、夫は命を取り留めたかもしれないのだ。その事実が、私の心に重く圧し掛かる。私が、二週間も家を空けなければ、お義母さんに呼び止められたあの日に、うじうじ悩まず、すっぱり家に帰っていれば、夫は倒れたところをすぐに病院に搬送されて、生きることが出来たかもしれないのだ。
私は私に怒りをぶつけたい。でも、やり方がわからない。嗚咽を吐くことしか出来ない。ただ、泣くことしか出来ない。
久しぶりに触れた愛しの夫の肌は、とても冷たかった。
ドライアイスで冷やされて、低温火傷を負ってしまいそうなくらいに。
薄暗いその部屋の中に、私の嗚咽が響いている。
薄暗い霊安室の中に、私の嗚咽が響いている。
低温火傷 たけ @take-greentea
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます