ひとにあらず。
梶マユカ
恋しているのは、あなただけとは限らない
私の一日は、あなたに全身を打ちすえられることからはじまります。
あなたから思い切り殴打されて、私は今が朝だと知るのです。八時五十分。あなたの指はどんな時計よりも正確に、私に一日の始まりを教えてくれる。おはようございます。
振り下ろされる手の隙間から、私はあなたを仰ぎ見ます。どれだけこの体を打たれようとも、私が痛みを感じることなどありません。この衝撃は痛みではない。だって私は、そうされるために生まれたのだから。
離れていくあなたの指先についている、白っぽい粉状のそれは私の肌の欠片。こうしてたまに皮膚をえぐられて、私はあなたの爪が少し伸びたこと、あなたの体が健やかに保たれていることを知るのです。それはこの上もない喜びです。あなたが今日も、目の前に無事でいてくれるということですから。
息つく暇もなく、再びあなたの両手はこの体に振り下ろされます。そして、あなたの口元には笑みが浮かんで。
私は幸せです。
今この瞬間のあなたの笑顔を引き出すには、私が欠かせないのだという事実に。そして、あなたの笑顔を誰よりも早くこの体で感じることができる境遇に。
不意に、傍らでアラームが鳴ります。
さほど大きくない音量のそれが、あなたに本日のスケジュールを知らせます。スマートフォンの表面を、私の欠片のついたその指で撫でてアラームを停めると、あなたはその筐体の下に置いてあった紙の束をつかみました。おそらくあれが、今日の会議で使う資料とかいうものなのでしょう。それを右手に、鳴り止んだ小さなその端末を左手に、あなたは席から立ち上がり、会議室へと向かいます。
がたん。椅子が私の腰掛けるデスクの下へ押し込まれたときに、椅子のキャスターがデスクのサイドにぶつかり、その振動が私の体を軽く震わせました。
去っていくあなたが、この場所からはよく見えます。いってらっしゃい。自分で動かせる口も届かせる声も持たない私は、その後ろ姿をただ黙って切なく見つめるだけですが。
私の持つたくさんの指は、どんな言葉でも紡ぎ出すことができます。
けれど、触れてくれる他の誰かの指がなければ、決してその力を発揮することはできません。
そういう存在なのです。
そんな私は今、あなたに恋をしています。
おかしいですか? 私という一台のキーボードが、特定の誰かを、それも人間を好きになるのは。
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