虹の雫

宗篤

第1話 虹の雫

 多くの英雄がそれぞれのこころざしを胸に抱いて戦場を駆け抜けた乱世も今は遠い昔。

 聖祖より数えて三代目、世は若き王ウルヴィウスの時代である。

 ウルヴィウスは文帝の待望の嫡子であって、生まれながらに王となることが定められていたということもあり、尊大な自信家で何事につけても派手好きな、まさに絵にかいたような王であった。見た目から性格まで豪奢ごうしゃという言葉が人一倍似合う男である。

 だが有斗、セルウィリア、ウァレリウス、ステファノスといった堅実で確実はあるが、地味で保守的な政治に飽きていた民衆にとっては、まさに新しい時代の風を感じさせる存在であり、王都の民からはおおむね好意的な印象を持たれていた。

 この時代、文帝没後も経済は右肩上がりに成長を続けた結果、経済人が台頭し、それまで士大夫層が担い手だった学問、文化、芸術にまで進出し、新たな文化が芽吹こうとしていた。

 また女人に関して散文的であった、これまで二代の王と異なり、女童から若くして出世街道を上り詰め、アリスディアの再来とうたわれる才女梅花尚侍、皇叔ステファノスの自慢の娘である弘徽殿女御ロクサーナ、あるいは右府の愛娘の藤壺女御や梅壺女御など数多あまたの才媛が後宮にて寵と才覚を競い合う華やかな時代でもあった。

 そのような時代ではあったが、この時、宮中にとって大事な正月の行事も含めて一切の行事祝宴は行われず、後宮は火が消えたように静まり返っていた。

 晩秋より太皇太后セルウィリアがなが御患おんわずらいで伏せっていたからである。

 実権を手放すこと幾久しく、孫の成長を楽しみに後宮で密やかに暮らしているセルウィリアであったが、朝臣をはじめ帝でさえも、この国の本当の主が今も誰であるかは言わずとも知っているのである。


 一人の女官が後宮の一角、渡殿の廊下から冬の曇天どんてんの空を見上げて嘆息した。

 彼女は太皇太后の世話や取次を一手に引き受けているセルウィリアお付きの女官であり、また四人しかいない典侍ないしのすけの一人でもある。

 とはいえ太皇太后付きの女官が典侍の位を持っているのは異質ではある。それはセルウィリアが自分の死後、頼れる身寄りのいなくなる彼女の将来を案じ、王に頼んで特別に典侍の位を与えて貰ったのだ。

 彼女の名前はアリアドネ。亡きダルタロス公アレクシオスの忘れ形見で、セルウィリアにとって血のつながった孫娘になる。

 雲の合間から僅かに覗く陽の光に照らされた、そのかんばせは息を呑むほど美しい。

 王の寵を競いあっている佳人たちの権勢をはばかって大きな声では言わないが、後宮の女官たちは彼女のことを後宮第二の美女だと影では噂していた。

 もちろん後宮第一の美女とは、ここ数十年来変わることなくセルウィリアのことである。蝶よ花よと育てられ我こそは都一の美人であると己惚うぬぼれた、なりたての妃や女官が、セルウィリアと謁見することで鼻っ柱を粉々にへし折られるというのは、もはや後宮において恒例行事と言って良かった。

 そんな彼女ではあるが、セルウィリアの傍に控えて後宮の奥深くで暮らしていることもあって、諸人の目に触れることは少なく、また常に表情にどことなく憂いたかげりがあって生来の美貌を隠しているからか、王の寵姫たちのように都人の話題に上ることもまたなかった。

 アリアドネは地平に視線を落としてもう一度嘆息した。

 ただ昨今の天候の悪さを嘆いていたわけではない。彼女の一番近しい縁者である祖母セルウィリアの病状を憂いたのである。

 ここ数年、セルウィリアの体調ははかばかしくなかったが、特にこの冬は病床を払うことも少なく、老後の楽しみである花の世話ももっぱらアリアドネがしなければならぬほどであった。

 とはいえ年齢を考えれば仕方がないことでもある。彼女には他にも少し思い悩むことがあったのだ。

「典侍様」

 男の声があった。アリアドネは周囲を見渡し、声の主を探した。

 声の主は彼女が思い浮かべたとおりの顔であった。庭を渡殿に沿うようにして、登華殿の方より歩いていた。

「これは武衛校尉殿」

 答えたアリアドネの声が心なしか弾んだように聞こえるのは気のせいではあるまい。

 男は年若の男で、年のころは二十は越えたか越えてないかといったところに見える。とはいえこの世界では外観だけでは何事も判別はつかないのだが。

 さて、武衛の持ち場は王宮外である。ためか羽林や金吾の兵のように鎧までは着てはいないが、腰には刀があり、それが男が武官であることを物語っていた。

「その後、太皇太后様のご様子はいかがでしょうか。祖母や父も太皇太后さまのご病状を日々案じております」

 男の物言いはあくまで丁重であった。武衛校尉といえば正七位か従七位相当の役職である。従四位の典侍とは格が違うというものだ。

 だが武衛校尉といえば単なる一介の武人ではない。

 紅旭の虹本編では羽林武衛黄門の三衛府よりも、戦場に出て戦う王師の方が活躍の場が多く出世街道であったと言えるが、平和な今では武官の花形は三衛府にあり、三等官とはいえ武衛校尉は望んだからと言って誰でもがおいそれとなれる役職ではない。市井しせいの民からしてみれば、眩しく仰ぎ見る羨ましい存在となろう。

 そんな武衛校尉に、この男がこの年でなれたのは彼の父親の存在抜きには語り切れない。彼の名はディオンといい、父はオーギューガ公ステファノスで姉は弘徽殿女御という高貴な産まれの人物である。つまり彼もまたアリアドネと同じく有斗の孫ということになる。

 とはいえディオンはステファノスの三男に過ぎず爵位などとは縁遠い身である。同じ公爵の子とはえ、やはりセルウィリアの掌中の珠であるアリアドネとは歴然とした差があった。

「まぁ・・・それはそれはいつもながら丁寧なご挨拶、いたみいります。セルウィリア様もさぞお喜びでしょう」

「父と祖母から見舞いの品を託かってまいりました。これを太皇太后様に」

 ディオンは美しく丁寧に絹布にくるまれた箱をうやうやしく頭上に掲げた。

「まぁ・・・ありがとうございまする」

 受け渡しの際に、ディオンの手にアリアドネの指先が触れ、ディオンは思わず顔を上げた。目が合い、アリアドネははにかんだ笑みを浮かべた。

 その表情の柔らかさ、貌の美しさにディオンは見惚れ、頬を赤らめた。

 だがそんな二人だけの幸せな時間は長く続かなかった。弘徽殿の方から喧騒たる一団が現れたのだ。

 物々しいその行列を見てアリアドネもディオンも、すぐさまその場にひざまずいた。

「このような所に珍しい顔があるものだ」

 一団の中心人物、現王ウルヴィウスがアリアドネに声をかけた。

「御匣殿典侍がばばさまの傍を離れ、このようなところにいるのは珍しい。ばばさまの世話ばかりして宴席にも顔を見せぬと若い公達が嘆いておるぞ。これを機にばばさまの世話は他の者に任せ、もう少し表に出ても良かろう。そなたは典侍なのだから」

「お戯れを、陛下。後宮には容姿も才覚も私よりも優れた者が幾人もおりましょう。私など顔を出さずとも誰一人気にもいたしますまい」

 アリアドネのへりくだった受け答えにウルヴィウスは感心した表情を向けた。

「見よ、この謙虚さを。余の妃どもにも典侍の謙虚さの欠片でも持ち合わせていれば、余とて今の苦労は無かりしものを」

 ウルヴィウスの言葉に側仕えの者たちは揃って袖で口元を隠して笑った。

 だがウルヴィウスは本気で自分の貴妃たちを持て余して嘆いているわけでは無い。むしろ事実はその逆で、気が強い跳ね返りものばかりの貴妃たちを面白がって興じているのだ。そのことは大内裏に出入りするほどの者ならば知らぬものなどいない。

 ただこの場を盛り上げるために冗談を言ったまでに過ぎない。

「陛下こそ、このようなところまで何故お出ましに?」

「ばばさまのご機嫌伺に。今日は体調が優れていると聞き及んでな」

「はい、今日はお食事もしっかり取られ、座ることも多うございます」

「それは重畳ちょうじょう

 アリアドネの返答に満足げに頷くと、ウルヴィウスは先ほどから欄干の下でうずくまったまま一言も発しないディオンに顔を向けた。

「そこに控えているのは武衛校尉ではないか」

「は」

 ウルヴィウスに直に声を掛けらたことで、ディオンは畏まり、声が上ずった。

 ディオンとアリアドネの間にも身分の差があるが、ウルヴィウスとの間には更に差がある。父ステファノスや公位をやがて継ぐであろう長兄ならば王ともそれなりに話す機会もあろうというものだが、武衛校尉ごときでは顔を見ることも年に数度あるかどうかだ。

「久方ぶりだな。立て立て、そう畏まることは無い。余と典侍、そして武衛校尉。ここにいる三人、父こそ違え同じ偉大なる祖父を持つ身だ。年も近く、幼き頃は机を並べて勉強した中ではないか。気遣いは無用ぞ」

 そう言って、ウルヴィウスはアリアドネとディオンに立つよう促した。

「お戯れを」

 だがアリアドネもディオンもこうべを垂れたまま跪き、動かない。

 ウルヴィウスも口にしたものの、強いて二人を立たせ、同列であるかのように扱ったりはしなかった。言われた二人も王に対する態度を改めたりはしない。言葉の修辞に過ぎないのだ。

 それが身分制度というものだし、やはり現代から来た有斗とアエネアスのような対等の関係は特別だったのである。ウルヴィウスがこうして二人に親し気に声をかけることでさえ、破格なことであるのだ。

 ただこの遣り取りで、少し場が冷えたのも確かだ。

 だからウルヴィウスは大仰に顔を作り、おどけて見せた。

「いやいや互いに大人になったものよ。特にこの御匣殿典侍と来たら、今でこそこうして一人前の女官として澄ました顔をして居るが、昔はお転婆でな。余を庭園の庭に突き落としたことがある」

 どうやら面白おかしく話しを膨らませて場を盛り上げ、親近感を持たせるというのが、この若き王の性質であるらしかった。

 とはいえ話のツマにされたアリアドネからしてみればいい迷惑である。

「陛下・・・そのことはもう・・・それにそれは陛下が嫌だと申すのに顔に蛙を近づけるからでございます」

「この世で王を池に突き飛ばすほどの剛の者はアメイジアではこの者の他はおるまい。弘徽殿女御でも無理であろうよ。かのアエネアスですら、そのような大事、聖祖に行わなかったに相違あるまい」

 ウルヴィウスの諧謔かいぎゃくにお付きの者たちは声を出して笑った。

 本人が耳にしたら怒りだしそうだが、すっかりアエネアスは無礼な人の代名詞として巷間に流布していた。とはいえ、その言葉の中には非業の死を遂げた人に対する多少の惜別の念や、権力に逆らうことに対する民衆の反骨に対する憧れの念が無いわけでは無いこともまた事実である。

「さて冗談はそれくらいにして、ばばさまのところに参ろう。典侍ないしのすけには先導を頼もうか」

「承りました」

 先導をするために裾を払って立ち上がろうとするアリアドネにウルヴィウスは声をかけた。

「よろしく頼む」

 アリアドネはウルヴィウスに向かって会釈を返した。

 そして先ほどディオンから受け取った預かりものを胸の前に抱えると、僅かに目線をディオンに向けて目礼した。

 ディオンも身体を動かさず僅かに目線だけ動かして返答した。


 セルウィリアの御座所は後宮の奥の奥、貞観殿にある。弘徽殿や承香殿と違って格式が高い殿舎とは言えないが、華やかな喧騒を嫌ったセルウィリアは表舞台を退いたのちはここに隠遁している。

 子ウァレリウス、そして孫であるウルヴィウスもセルウィリアには格別気を遣ったこともあって、荒廃し朽ちていた貞観殿を改築するに当たってはわざわざ大きく作り直し、また庭も綺麗に整備されたため明媚で気の休まる場所であった。

 余談ではあるがウルヴィウスが突き落とされた池もこの貞観殿に面している。

 セルウィリアは部屋の日当たりと風通しの良い場所に据えられた寝台の上で上体を起こして、王を出迎えた。

「こうして陛下に足を運んでいただけるとは光栄なこと。このわたくしの病気もどこかに吹き飛んでしまいました」

 セルウィリアは孫の見舞いをことのほか喜んでいるようである。

 だが筋力の衰えは隠せず、セルウィリアの上体は常に揺れ、落ち着かない。アリアドネはセルウィリアの背中に支えとなるようにそっと枕を当てた。

 最近の中では体調が良いとはいえ、明らかに衰えの隠せぬその姿にウルヴィウスも心が痛んだ。幼くして父を亡くしたウルヴィウスにとってセルウィリアは単なる孫を甘やかす優しい祖母というだけではなく、王という孤独な職務を立派に務めあげた尊敬すべき先輩であり、王というもののありようを教えてくれた師であり、時として父母のように守ってくれる存在でもあった。祖母というものを超えた存在なのだ。

「その意気です。この若輩者にはばばさまにお教えを願わねばならぬことも、まだまだ多うございます。長生きしていただき国を支えていただかねば」

「やれやれ、この孫は老骨をまだこき使うというのですか。陛下、くれぐれも老人を敬う心を忘れてはなりませぬよ。わたくしも年です。はやく楽になって聖祖の下に参りたいというに」

 そう言葉に出してみたものの、セルウィリアは孫が気遣いのできる立派な王に成長したことがとても嬉しく、終始顔から笑みを絶やさなかった。

「ばばさまこそ、そのようなこと冗談でもおっしゃいますな。泉下でお待ちしてるであろう聖祖にはもう少し待っていただき、一日でも長く生きていてくだされませ」

「本当に孝行な孫に育ってくれました。わたくしは果報者です」

 セルウィリアは差し出されたウルヴィウスの手に自分の手を重ね、幼い頃あやしたように軽く叩いた。


「あら、それはどなたからの贈り物ですか」

 セルウィリアは部屋の片隅の机の上に絹布に包まれた見知らぬものがいわくありげに鎮座しているのを目ざとく見つけ、アリアドネに問いただした。

「失念しておりました。これはオーギューガ公と御母堂からおばあさまへのお見舞いの品だそうです。御三男の武衛校尉殿から預かって参りました」

「あの女がそんな殊勝な考えを思いつくものですか」

 アリアドネの言葉にセルウィリアは一瞬で表情を曇らせた。それを横目で見てウルヴィウスは吹き出しそうになった。

 自分と孫、そして長年仕える気ごころの知れた女官たちしかこの場にいないとあってか、近頃のセルウィリアには珍しく本心を表に出した、そのことを興がったのである。

「ばばさまは相変わらずベルメット伯に対してだけは辛辣になりますね。それほどお嫌いですか」

「向こうもそう思っていることでしょう。おあいこです」

 有斗を巡って戦いを繰り広げた関係は、それから気が遠くなるほどの季節が過ぎ去った今となっても流されたわけではなく、遺恨は残っているものらしかった。

「ですがこうしてお見舞いの品を送ってきたところを見ると、昔のことは昔のこととして水に流されたほうがよろしいのではないですか?」

「オーギューガ公がそう言うよう、御子息に言いくるめたのでしょう。公が見舞いをしたのに、あの女から挨拶がないとなると問題になります。本当に気の利いた事。あの母親にはもったいない、できた人です」

 ウェスタに対する感情はともかく、ステファノスへ向けるセルウィリアの視線は優しい。それはステファノスが有斗の血を引いているということもあろうが、兄ウァレリウスとの立場の差を常にわきまえていただけでなく、誠心を持って治世を支えてくれたこと、幼い甥に成り代わり政務を執って国を安定させたこと、またウルヴィウスが成長するとあっさりと権を返し、自分は一歩退いて臣下に戻ったといったこと全てに感謝しているからである。

 それらのことはステファノスがウェスタの腹から生まれてきたという不愉快な事実を忘れ去らせるに十分なものであった。

 セルウィリアがステファノスにどれほど感謝していたかというと、これはもちろん口にしたことは無かったが、ウルヴィウスがまだ幼く賢愚のほどが分からなかったころ、もし成長して暗愚であったならこれを廃し、ステファノスを王位につけても構わないと思っていた。結果として自分の血脈が王位から離れても構わないとさえ考えていたのだ。

 有斗が自分に残してくれた物の中で、今は亡き自慢の愛子ウァレリウスを除けば、ラヴィーニアすら超えて一番価値のあるものだったと思っていたほどである。

「せっかくですから三人で中に何が入っているか見ましょうか」

 セルウィリアに促されるまま、アリアドネが美しい刺繍の施された絹布の包みを解くと、中からこれまた見事な彫刻の施された黒塗りの木箱が現れた。

 木箱の蓋を外して中を覗き込んだアリアドネが歓声を上げた。

「まぁ!」

 万事控えめで感情を大きく表に出すことの少ないアリアドネが見せた喜びを見て、セルウィリアも箱の中身に更に興味を抱いた。

「アリアドネ、どういたしました? わたくしにも早く見せて頂戴」

 アリアドネはゆっくりと大事そうに中の物を持ち上げた。箱の中から肉厚だが大人しめの青い花弁を持った花が植わった鉢が現れた。

「おばあさま見てください! この見事な花を! ・・・・・・それにしてもなんという花でしょうか・・・後宮の庭園ではお目にかかったことがありませぬ」

 花に関しては一言居士であるアリアドネも見たことが無いらしく、首を傾げた。

「わたくしも見たことがありませぬが、随分と趣のある花ですね」

「ばばさまも知らぬとなると西国の花ではないということに。はるばる越から送ってきたに違いありませぬ。東国には都人が見たことが無い花も多くあると聞き及んでいます」

「それはまた気の利いたことを。申し訳ないのですが、枯らさぬように貴女が世話をしてくださいね」

「はい、喜んで」

 アリアドネは笑みを浮かべると、とても愛おしそうに鉢を抱えて部屋を出て行った。幼い頃から姉弟のように過ごした従姉の、見たこともない表情にウルヴィウスは目を丸くした。

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