非性的ストリップ劇場に集い、秘密裡な炙りに興じる、寄る辺なき人々

倉井さとり

先ず壱話

「そんなことはない」と田中たなか唐突とうとつに切り出した。まったくの静寂せいじゃくが支配する調和ちょうわの取れた空間を、台無だいなしにすることなどいっさい気に掛けずに。


「俺は、世界の余ったスペースの中心で、自分の余ったスペースを開示かいじすることができるだろう」


 私をふくめ、この場にいる全員が、彼の話を聞いていなかった。しかし田中は構わず続ける。


「俺は、『田中たなか吉田よしだ』。今さら言うまでもないだろうがね。親から貰った名前。それはただそれだけで価値があるんだと、俺は思う。だけれども、それ以上に、俺はスペースを求めた。俺は、この日のために改名してきたんだ。今の俺は、『田中吉田』あらため、『田中・スペース・吉田』。本当はね、『スペーススペース』にしたかったんだ。しかしね、母にそれだけはやめてくれと、泣き付かれてしまってね。それで今の形に落ち着いたんだ。やはりね、古い価値観かちかんというのは、簡単にぬぐれるものじゃない。これは母には秘密だけれど、俺は母の死後に、『スペーススペース』になるつもりでいる」


 田中の姿をはっきりととらえることはできない。大きな身振みぶりであるということが、なんとなく分かる、それだけだ。こう真っ暗では、目の前の人間の顔をみとめるのがやっとだ。


 広い空間に、あいだをけて配置されたほのかな光源こうげん、それを四~五人の人間が車座くるまざかこんでいる。だれかれもが、影のような顔で、三角座さんかくすわりで項垂うなだれて、微動びどうだにしない。


 私はいきき、鼻から息を吸い込んだ。


 なんともいえない秋刀魚サンマかぐわしさが、私の臓腑ぞうふ直接ちょくせつまさぐる。私は、生唾なまつばを、ごくり、と飲み込み、練炭れんたんのうえの秋刀魚サンマをひっくり返そう、とそう思った。すると、その気配けはいを読み取ったのか、この集団の中の最年長者さいねんちょうしゃ――通称つうしょう長老ちょうろうが――ぽつりと、「いてはこと仕損しそんじる」さらに続けて。「それはまるで、せむしのような恰好かっこうかりも持たずに、まくろいよるのなか、我先われさきに、われこそさきにとひた走ることにほかならない。

 むーん。確かにしょくにありつけるやもしれぬ。だがな、いずれらわれるであろうその玉蜀黍とうもろこしの、その一粒ひとつぶ一粒ひとつぶは、神のでもあるのだ。歯と歯のあいだおさめられたる玉蜀黍とうもろこし、それによってもたらされる吃音きつおんは、普段ふだんとどこか違うだろう。それと同じなのだ。

 経験則けいけんそくたより切りではいかん。め切られ風の吹かぬ今、それに息吹いぶきを見い出せ。観察かんさつがものをいうのじゃ。もやの掛からぬ真実のまなこでもって、ものを見るのだ。晴天せいてんのなか、いかりなくとも怒髪天どはつてんけ。猫のひげのように毛根細胞もうこんさいぼうで風を感じるのだ。

 生焼なまやけの背徳はいとくは、ひとりで秘密裏ひみつりおこなえばよろしい。公共こうきょうあぶりに私欲しよくを持ち出してはならぬ。よいか、これは老婆心ろうばしんなのだ。ぬしにそのつもりがないことは重々じゅうじゅう承知しょうちしておる。何事なにごとにおいてという話なのだ。おの私欲しよくは、人様ひとさまの前で出さぬだけではりぬ。殺すのじゃ。私欲しよくを殺せ。

 あの頭のいかれたスペース男に感化かんかされてはならん。私欲しよくにまみれた者は公共こうきょうの敵じゃ。わしが秋刀魚サンマのように、引き締まった肉体であった頃なら、今頃いまごろ彼奴あやつなどたちまちせ、この練炭れんたんでじっくりとあぶり殺してやっておるわ。

 むーん。やつめが、まだ言っておる。何がスペースか。もはや心根こころねくさっておるのじゃ。生きながらくさっておる。サバではないか。サバぐされじゃ。むーん。腐臭ふしゅうで鼻が、ぶたの鼻になるわい。心の鮮度維持せんどいじつとめぬから、あのように気がれてしまうのじゃ。

 やつめはもう人間ではない。人の皮ががれ落ち、けものしておる。まるで、ぎた精米せいまいではないか。潔癖症けっぺきしょう米研こめとぎじゃわい。誰じゃ、あのような者をわれらにれたのは」


 き立つのを隠すような岩礁がんしょう、それを思わせるような、仄明ほのあかりをかかえる真っ黒なすみ。そこからしょうじるのは、晴天せいてんに溶ける煮焼にやきの煙のような、薄煙うすけむり。ほぼスペースで構成こうせいされたあみのうえに横たわる秋刀魚サンマ薄煙うすけむり羽衣はごろものようにまとい、銀のきらめきとはい鈍色にびいろおどらせている。哀愁あいしゅうさえただよわせる見姿みすがた、だけれども、そのひとみは強い。


 秋刀魚サンマは、目蓋まぶたをこれでもかと見開き、白濁はくだくした目でもって私を見据みすえている。あらかじめ色眼鏡いろめがねで見るという予告よこくにじませる、そのきびしさ。何という迫力はくりょくだろう、片目かためだというのに。独眼竜どくがんりゅうでありながら、かような、言い知れぬ眼差まなざしをたたえようとは。


「すいません。私です」と私は素直すなおに告白した。

「むんず。なんじゃと? おぬし正気しょうきか。おぬし正気しょうきは確かか?」

「私は正気しょうきです」

「ならん。みとめてはならん。おのが心を初期化しょきかせよ。さもなくばおぬしは――」

「私は、心をスペースにわたしてなんていない」

「えーい、むんず!」

「ただ、私は……!」


 私のひとみの中に、せいなるものを見て取ったのか、長老ちょうろうは押し黙り、ひとうなずいて見せた。何という慧眼けいがんだろうか。相手の心を読みとる感受性かんじゅせい並外なみはずれている。他者たしゃの心を取りこみ、うちなるなべでじっくりと煮込にこみ、さらなべを洗って片付ける。それは簡単なようでいて、本来ははなわざといっていいようなことなのだ。まるで、うちに取りこんだダークチョコレートの、そのポリフェノール効果に耳をかたむけるような、繊細せんさいかつ大胆だいたん翻訳ほんやく。ましてそれを、瞬時しゅんじにやってのけるなんて、長老ちょうろうかんする、やはりそれだけのことはある。


「か、……彼も、……田中も、ついこのあいだまで、まともだったのです……。……こう、なんというか、こう、好青年中こうせいねんちゅう好青年然こうせいねんぜんとした感じで、……若手のヤング、希望のポープともくされていたぐらいだったんです……。なのに……」


 彼はある時、スペースキーのその細長ほそながさに魅入みいられ、スペースキーを押すことにかれてしまった。そのすえみずからの心のうちにスペースを見い出した。それだけならまだいい、あろうことか彼は、そのスペースを世界にめてしまった。


「……この会かかりつけの医者先生にも見ていただいたんですが……」

「して、『マカロン先生』はなんと?」

「『医療いりょうではもうどうにもならない』。そう言って、さじきわめて乱暴らんぼうに投げ、薬をさかなに、防腐剤ぼうふざいあおるばかりで……」

「やはりあれではな……、完全に自我じが崩壊ほうかいしておる……、いくらビタミンCをむさぼったところでの、なにがどうなるものでもなかろうな」

長老ちょうろうの方で、なにか知恵ちえはありませんか? お祖母ばあちゃんのふるびた知恵袋ちえぶくろのような……」


 ほんの数秒、してのほほんとした顔は浮かべず、長老ちょうろうは押し黙る。その幅寄はばよせされたまゆから、私はさっする。答えは最初から決まっていて、この躊躇ちゅうちょ、なによりも長老ちょうろうの、自費出版的じひしゅっぱんてき身銭みぜにを切った、慈悲じひなのだと。


「……むんず……、もはや手遅れじゃ、やつは完全にスペースにむしばまれておる。すく手立てだてはあるまい。ばらばらと身体をばらばらにばらし、いちからげる。そうでもすればあるいはの、……だが人のちは、ランドマークタワーをげるのとはわけが違うのじゃ。

 人の身体、それにもまして精神は、やっとこさっておるんじゃ。シャチホコのひとつでも外せば、たちまち人間は、物狂ものぐるいで息絶いきたえ、めっされされ、錦鯉ニシキゴイのようにわけも分からず天へとのぼり、面倒めんどう役職やくしょくじょされるであろう」長老ちょうろうはそこでまたも押し黙り、ひとふたみっよっつと続けていきいた。「……それは生きておっても同じかもしれぬな。生死せいしわず、人は苦しみ続けるのじゃ。完全なるすくいなど、しておとずれん。人は苦しみのなかでしか、幸福こうふくを感じないのだ。

 今のが最高の形なのだろうな。だからとて、そうり切れるわけでなし、……ゆえに人はこうして、集まりなぐさめ合い、そして姿見えずとも、相手の無事ぶじ幸福こうふくを願うのだ。誰かの苦労くのう想像そうぞうし、生きねばならん。たとえば、こんなたとえはありきたりだが、ストリップ劇場げきじょうはしらみが掃除婦そうじふ、彼女がいるからこそ、世界はまわる」

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