滅私装甲メッシリンダー

揚羽常時

九重の夢は愛に散る

 学校の放課後。


 嘲笑が僕を取り囲む。

 素行不良のクラスメイトたちが僕を嘲笑う。


 彼らが僕を殴ることに有意義な理由はない。

 あえて言うならば「楽しいから」だろう。


 クラスメイトの一撃で僕の胃が悲鳴を上げ、昼食の全てを吐き戻した。

 体が苦痛に耐えかねて崩れ落ちる。

 うつぶせに倒れた体を鞭打つように踏みつけにされる。


 どうにも彼らの制服に僕の吐瀉物の飛沫がかかってしまい、それが不愉快だったらしい。

 ただただ僕は踏みつけにされる。

 それは、そのまま僕の学内での地位と同義だった。




「九重、何してるの?」


 僕が教室の床を雑巾で拭いているところに、一人の女生徒が話しかけてきた。若干パーマのかかったボブカットの、顔立ち整った花のように可愛い女の子。


 姓名は染井吉野。

 僕の幼馴染でクラスメイトだ。


「うわ、もしかしてゲロ?」

「……うん……」


 僕は頷きながら雑巾で床を拭き続ける。


「何であんたが……って聞くまでもないわね。いじめられるのもいい加減にしてよ。知り合いってだけでこっちの体裁まで悪くなるんだから」

「……ご、ごめんね……」

「私、先に帰るから」


 パタンと扉の音が僕だけの教室によく響いた。







 我が家はちょっと家事が立ち行かない。

 そんなこんなで今日も幼馴染みの吉野ちゃんはお節介をやく。


 夕食は手づくりだった。

 食後、皿洗いをしながら吉野ちゃんが兄に話しかけた。


「薄紅さん、今日の御飯おいしかった?」

「まぁな」


「むー、なんか投げやりな反応。今度はもっと美味しいもの作ってあげるからね」

「頑張れ」


 兄の対応はおざなりだ。

 僕は食器の水気を拭きながら吉野ちゃんに話しかけた。


「……あ、あの吉野ちゃん。御飯……美味しかったよ……」

「そう」


 淡白に返す吉野ちゃん。

 温度差が激しい。


「薄紅さん、明日の夕食は何が食べたい?」

「パスタの活き造りとピザの踊り食い」

「困るなぁ」


「じゃあ九重に聞け」

「うん、じゃあこっちで勝手に決めるね」


 そう言って吉野ちゃんは皿洗いにもどった。

 僕の意見は要らない様で。


 後はいつもの流れだ。

 ソファーに座っている兄の隣に吉野ちゃんが腰をおろし、あれこれと他愛のない話を兄にふる。

 兄が紅茶を飲み終えるや、彼女は二杯目を注ぐ。


 彼女は僕には興味ないのだ。


 そうやってある程度時間が流れた後に兄が帰宅を促した。


「おい染井、そろそろ帰らないとまずいんじゃねえの?」

「あ、もうそんな時間なんだ」


 わざとらしく時間を確認する彼女。


「あ、そうだ。薄紅さん、今度の日曜日は暇?」

「ん? さぁ? どうだったかな?」

「薄紅さんが好きそうな映画が流行ってるんだけど、暇なら一緒に観にいかない?」

「九重と三人でか?」


 聞く兄に答えず、吉野ちゃんは僕を見た。

 その視線は、針の鋭さにも似た敵意の感情。


「……日曜は僕、用事があるから……」


 僕の口から自然と断りの言葉が出る。


「だってさ。九重に予定があるならしょうがないね。私と薄紅さんだけで観にいこうよ」

「あー、すまん。そういや週末はゼミがあったわ」


「……そっか。それじゃしょうがないね。お邪魔しました」

「ああ、いい夢見ろよ」


「あはは。ところで薄紅さん。その眼鏡はかけてないほうが格好いいよ?」

「いいんだよ。これは女除け用だから」

「だったね。じゃあ今度こそお邪魔しました。薄紅さん、また明日ね」

「ああ、じゃあな」


 愛想よく笑って手を振る兄。

 今度こそ吉野ちゃんは帰っていった。


 彼女が消えたことを確認し、兄は玄関を施錠して溜息をつき、


「ったく、毎度毎度うっざいなぁあいつ」


 仮面を取った。


「お前もよくあんな女に惚れてられるな」

「……吉野ちゃんは……可愛いし……優しいしから……」

「あんだけ嫌われてよくそんなことが言えるよ。やっぱお前は最高に可愛いな」


 そういって兄は、僕にキスをした。


「風呂入ったら俺の部屋で待ってろ」

「……うん……兄さん……」


 僕は全身に奔る嫌悪感を押し殺して、そう答えた。







 兄に唇を奪われる。

 唾液の交換。

 ディープキスが終わると、兄は僕を剥いた。


 今、兄は眼鏡を掛けていない。

 僕と二人きりの時にだけ兄は伊達眼鏡をとる。

 凛々しくも艶かしい顔立ちで、僕を見る。


「九重……っ!」


 僕の名前を呼んで、それからがっつくように再度キスをする。

 口内に兄の舌が入ってきて、僕の舌をからめとるようにまとわりつく。

 僕の全身を包む悪寒がさらに度合いを増す。


「っ! ……っ! …………っ!」


 されるがままに蹂躙される僕の、その意識の逃げ場所は過去にしかなかった。

 昔は、ただ二人がいてくれるだけで僕は嬉しかったし、二人もそうだったろう。


 いったい何時からだろう。


 兄も、吉野ちゃんも、そして僕も、他の二人との繋がりに打算を持ち込むようになったのは。

 それが成長だというのなら、純粋な好意というものは人生の終わりまでにいったいどれだけ残るのか。


 兄の舌が僕の唇から鎖骨までをなぞるように舐めた。


「……は……あぅ……!」


 思わず声が出てしまう。


 幼い頃は三人ともに同じ目線で世界を見て、それはこれからも変わらないものだと思っていた。

 でもそんな楽観はいつまでも通じない。


 高校生になった僕は学友に虐められた。

 兄は「近いから」という理由で難関私立大学を主席で合格し、身内の誉れだ。

 僕と同じ高校に入学した吉野ちゃんは化粧を覚え、上位の女子グループに所属している。


 ――なんで僕だけ上手くいかないのか?


 そんな思考とは乖離した僕の体は、日付が変わるまで兄に嬲られた。

 実の兄の慰み者になっているという現実は、僕の弱い心が耐えられる程度の嫌悪感では当然なかった。







 明晰夢という夢がある。

 僕がその日の夜に見た意識の中の映像は、それに限りなく近いものだった。


――よぅ、面白い人生を送っているようで何よりだぁ大将――


 そう言ってソイツはケタケタと笑った。

 声だけが残響の様に鳴る。


――お控えなすってぃ。小生は生国不詳にして流浪のマジックアイテムってなもんでぃ――


 えーと? この声は? なんだろう?


――何をおっしゃるうさぎさん。首下を見なっせ――


 気付けばネックレスがかけられていた。

 桜色の水晶付き。


――元々ローズクォーツの原石だったんだがなぁ――


 ネックレスと会話してるの?


――だなぁ。此方はリンド……とでも呼んでもらおうかぃ――


 リンド……。


――小生リンドは先にも言ったとおりのマジックアイテムだぁ。大将に魔法を授けるファンシーかつファンキーかつファンタジーなアンチクショウってなもんでぃ――


 つまりそれは変身ヒーローとかでお馴染みのタイアップ商品との解釈でいいのだろうか?


――御明算! 変身ヒーローとはよくぞ言ったぃ大将――


 リンドを使ったらヒーローに変身できるの?


――正確には所有者に「四肢に限定した強襲能力」を与えることが主目的であって、装甲を纏うのはそのための一過程にすぎねぃがぁ……まぁヒーローの変身アイテムって解釈でも問題はねぃよぃ――


 すさまじく使い道がわからないアイテムだね。

 変な夢。


――気に入らない人間を殴るもよし。殴り殺すもよし。問題を腕力で解決するもよし。無意味に大規模破壊活動を行なうもよし。文字通り困っている人を助けるヒーローになるもよし。攻撃能力が高いってだけでも個人がやれることはだいぶ広がるぜぃ大将――


 でもその度にいちいち変身するの?


――いやぁ変身は一回限りだぁ。小生の魔法は『使用者の死』が条件だからなぃ――


 リンドの魔法を使ったら死ぬって。

 そんなの、どんなことができても採算が合わない。


――どうだかねぃ。ドラッグしかりギャンブルしかり実利もねぇのに身を滅ぼすもんは巷にあふれかえってらぁなぁ。小生はそれを極端な形で体現しているだけでぃ。だいたい大将、大将でさえ命は惜しいのかぃ?――


 …………。


――大将が小生を手にしてからこれまでを観察させてもらったがねぃ。片思いの娘っ子は実の兄に惚れて大将を邪険にしぃ、当の兄は大将を慰み者にしているときたぁ。ペンローズも真っ青の三角関係だぁ。不幸の星ってのぁあるもんだぁねぃ――


 ……そんな理由で僕を選んだの?


――そりゃ邪推ってなもんだなぁ。小生はただ所有者に魔法を授けるだけのケチな野郎で、それ以上でもそれ以下でもありゃせんぜぃ。いい夢をなぁ大将――


 その言葉を区切りに、僕の意識は深い眠りへ堕ちていった。







 翌日。


 結論から言って昨晩の意識体験は夢ではなく、れっきとした現実だった。

 起床してから「変な夢を見たなぁ」なんて思っていると、「――夢じゃねぃぜぃ。これも現よぅ。それとおはようさん大将――」と何時からか首にかけたネックレスが当然のようにテレパシーで話しかけてきた。


 で、場所は教室の隅っこ。

 時間は昼休み。

 クラスメイトたちに袋叩きにされて、僕は地べたを舐めた。


 彼らの「私たちは空腹ですので昼食を調達してきてくださいませんか。できうるならば支払いはあなた持ちであった方が望ましいのですけど」との頼みを、僕がかたくなに却下したせいである。


 彼らは「あなたは遂行能力が欠けていますよ」、「あなたは思考能力が足りませんよ」、「あなたは人間として格が低いですよ」などのアドバイスをしながら這いつくばる僕を蹴りつづけた。


――しかしよくもまぁ……――


 暴行を受け続ける僕の脳内で、リンドはいっそ感慨深く呟いた。


――大将、前世で何かしたのかぃ?――


 かもね。

 三世因果にのっとるのなら否定はできない。


――周りのクラスメイトも吉野の譲ちゃんも白状じゃあないかぃ。ここまで露骨にイジメが起きているのに助けねぇたぁなぁ――


 浮世の渡り方を知っているだけで悪意はないよ。


――善意もねぇがなぁ――


 ケタケタとリンドの笑い声が頭の中に響く。


――おっと、不謹慎だったかぃ――


 いや、大丈夫だよ……。


――大将は弱者だぁなぁ。ギュッと身を縮めて心を守るしかねえってなもんでぃ。憎悪が憎悪を生み復讐が復讐を生むってぇ能書きはつくづく嘘だぁねぇ。いつの世も結局誰かが誰かのせいで泣き寝入るしかねぇもんだぃ――


 だって弱者はそうするより他にないんだ。


――いやいやいやぁ、それは大将が自分自身に言い聞かせている詭弁だぁなぁ。劣等感に悩むことと誇り高く生きることとは並行できるぜぃ。そうでなけりゃシラノ=ド=ベルジュラックの立つ瀬がねぇってなもんでぃ――


 シラノ……ド……?


――さすがに知らねぇかぃ。西洋のとある戯曲だぁ。そんなことより大将。耳寄りな情報があるぜぃ――


 魔法なら使わない。

 自分の命とイジメの報復とを天秤にかけて、いくらなんでも後者に傾きはしない。


――体験版もあるぜぃ?――


 体験版?


――ほんの少しだけ小生の魔法を体験できるってぇもんだぃ。ちらりと脅かす程度だがぁ、ちったぁ牽制になるんじゃねぇかぃ? 無論お代はいただかねぇぜぃ――


 それは……けど……


 彼らの理不尽を許すほど僕は聖人じゃない。

 いつだって憎んでいる。

 抵抗は、無駄だからしてこなかっただけだ。

 だから僕はリンドにこう言った。


 それくらいなら……まぁ……。


――よっし決まりだぁ大将! 一回こっきりの体験版! 日頃の鬱憤を拳にこめて思いっきり殴れやぁなぁ!――


 ハイテンション気味にそう言ったリンドの言葉に続いて、音声案内が頭の中に流れた。


――攻性装甲不完全装着!――


 僕がその音声案内の意味を理解するが早いか、装甲が僕の右手を覆った。

 鏡面ハイライトの顕著な白い装甲だ。


――体験版ゆえに魔法がかかるのは右手だけだぁなぁ。それで殴ってみろぃ――


 言われずともそうするつもりだった。

 僕は、僕を遠慮なく蹴り続ける脚のうちの一本を選んで、右手で払いのけた。


 その払われた脚は……まるで人形から四肢がとれるようにあっけなく……足から腿までごっそりと千切れた。

 千切れた脚が景気よく教室の中央まで放物線を描いて飛ぶ。


 その脚は昼食中だったとあるクラスメイトの机でワンバウンドし、床に転がって血を撒き散らした。

 一瞬遅れて、脚を失ったクラスメイトがバランスを失って倒れる。


「「「「「……………………」」」」」


 沈黙がおちること数秒。


「「「「「――――――――」」」」」


 教室に痛みと恐怖による絶叫が響きわたった。


 えーと……え?







 結果として僕の学内でのヒエラルキーはより低いものとなった。

 脚を失ったクラスメイトは何とか一命をとりとめたけど、その事件の衝撃たるや本学校史でも最大のものだったろう。


 僕は警察にあれこれと聞かれたけど、客観的に個人が人様の脚を千切るなどという離れ業を容認できようはずもなく、罪に問われることはなかった。

 しかし僕を見る周囲の目は変わらざるをえなかった。


 クラスメイト達は、怪力から呪術までありとあらゆる理由をつけて僕が犯人だと断定した。

 ほぼ事実なので僕は釈明をしなかったけど、釈明したところでどうなるものでもないことも当然わかっていた。


――ったくぁ、もっとガツンとやりゃよかったのによぃ大将――


 リンドはそんなことを言った。


 冗談じゃない。

 軽く脅かす程度の威力って名目はなんだったのか。


――だから一人が殴り殺されれば他がおぞけふるうってなもんだろうがよぃ――


 それは「軽く脅かす」の範疇じゃない。

 けれどイジメの対象でなくなったことは確かだった。


――災い転じて福と為すってなぁもんでぃ――


 結果論だ、あくまで。







 結局、僕の世界に大した変化はなかった。

 イジメが止んだだけで、それ以外のことは何一つ変わらなかった。

 学内から、吉野ちゃんから邪険にされるのは今に始まったことじゃない。


 兄との交わりも変わらず続けていた。

 ある日のこと僕はたまらなくなって、兄の愛撫が終わるや否や家を飛びだした。

 こみあげる吐き気を必死におさえて夜の街をひた走った。


 息が切れるまで走りつづけて、近くの公園に辿りつく。

 意外な先客がいた。

 吉野ちゃんが夜の公園で、一人ベンチに座っていた。


 目が合う。


「九重……」


 吉野ちゃんも意外そうに僕を見た。

 月光と街灯がなんとか公園を闇から救っている。


「何してんのよ、こんなところで……」


 まさか「兄に抱かれて、逃げてきました」なんて言えない。

 だんまりを決めこむ。


「なんかよくわかんないけど座りなさいよ」

「……え……?」

「別に用事があるって感じでもなさそうだし、座ればって言ってんの」


 聞き間違えたわけではなかったようだ。


――さんざん邪険にしといて何のつもりだろねぃ吉野の譲ちゃんはぁ――


 僕はベンチの端っこに座った。

 あまり吉野ちゃんに近づきすぎるとまた嫌われるかもなんて思ってしまったからだ。


「九重はさ……薄紅さんと二人のときに私の話とかする?」

「……え……あ……うん……どうだろうね……」


 僕はとっさに答えが思い浮かばず、お茶を濁した。


「するの? しないの?」

「……たまに……するけど……」

「薄紅さんって私のこと、いつもどういう風に言ってる?」

「……え……あ……うん……どうだろうね……」


 今度の困惑は、二重の躊躇いからだった。


「なんか大学に入ってから薄紅さん、私に構ってくれなくなって」


 ……それはちょうど兄が僕を抱きはじめた頃と一致する。


 学校でいじめられたことを理由に兄の胸元で泣いていたら「可愛い」と唇を奪われて押し倒されて裸に剥かれて……そんな記憶がフラッシュバックした。


「私ちゃんとやれてるよね? 嫌われてないよね? ちゃんと薄紅さんに好かれようって頑張ってるのに……なんか反応が薄くて。もしかして大学で好きな相手ができたとか……。薄紅さんモテるもんね……。もしそうだったらどうしよう……」


 事実を告げるつもりはさらさらないけど、気休めを言う気にもなれなくて、僕は黙った。

 なにより僕を歯牙にもかけていない吉野ちゃんの意識が、やっぱりどうしても辛かった。


 沈黙する僕と吉野ちゃんに構わず、


――ケ、ケケケ、ケタタタタッ!――


 僕の意識の中で大爆笑するリンド。


――あぁおもしれぃ。おもしれぃよぅ大将。大将も吉野の譲ちゃんも、心底おもしれぃ――


 それは見てるぶんには面白いかもね。

 リンドの意地の悪さに辟易する。


「それで、薄紅さんは私のこと何て――」

「――ギゲ……」


 言ってるのか教えて、と言うはずだったのだろう吉野ちゃんの言葉は続かなかった。

 言葉の途中で不審な物音がして、僕も吉野ちゃんもそちらに視線を向ける。


「グゲ……ギガガ……」


――ほぅ!――


 そのとき見たモノの印象を僕はなんて説明すればいいのだろう。

 結論からいって不審な物音の正体は人型だった。

 立派に二足歩行をしていた。


 ただ、明らかに人ではなかった。

 公園の街灯に照らされて闇夜から浮き出たソイツは、まぎれもなく異形だった。


 外皮は無く筋肉繊維が剥きだしで全身が赤く、髪はボサボサに伸び放題で、頭からは角が生えていた。

 目玉がギョロリと飛びでていて、顎は外れているのかと疑いたくなるほど大きく開き、並んだ歯は例外なく全てが牙だった。


 そう……例えるなら、『赤鬼』という言葉がしっくりくる姿だった。

 飛びでた目玉がこちらを捉える。


「何……アレ……?」


 吉野ちゃんが驚愕と恐怖を織り交ぜた声で呟く。

 僕も同意見。


――鬼かぃ。こりゃあ珍しぃ――


 リンドは感心したようにそう呟く。


 知ってるの?


――魔法に関わった者の成れの果てだぁ。東アジアでは、特に人を襲う輩を指して鬼とか夷とか呼んでいるよなぁ――


 もしかしてリンドってそういう奴らを退治するためのものだったりするの?


――いやぁ別件だぁ。そりゃ桃太郎や金太郎の領分だなぁ。西洋生まれの小生には関係ねぃ案件だぜぃ。ただぁ……――


 ただ?


――逃げないと殺されるぜぃ――


 そういうことは早く言って、と愚痴る暇もなかった。

 僕は直感に従って吉野ちゃんの手をとると無理矢理自分のほうへと引き寄せた。

 同時に、鬼の爪がさっきまで吉野ちゃんの座っていた石造りのベンチを一撃で引き裂いた。


 まずい。

 まずいまずいまずい。


 パニックを起こしかけた意識を無理矢理矯正し、僕は吉野ちゃんの手をとって逃げ出した。


 何か手はないの!?


――小生に聞かれてもねぃ。戦う、逃げる、話し合う、降伏する、別の贄を用意する……後は、諦める?――


 どれも無理。


――まぁ格の高いの鬼ならいざ知らず、あの手の鬼はほとんど衝動だけで殺人や食人を行なうから災害と同じだぁなぁ。台風で人が死んだからってぇ雲を裁判にかけることはできず、地震で人が死んだからってぇ大地に殺人罪を適用することできねぃってなもんだぃ――


 最悪だ。


――小生の魔法を使うってのぁどうだぃ?――


 どっちみち死ぬの?


――躊躇っている場合かぃ大将? ほれ、後ろだぁ――


 言われて、僕が振り返ると同時に、僕に手に引かれて走っていた吉野ちゃんの首が鬼の爪によってぶっつりと千切られた。

 走り続ける四肢とは乖離して、吉野ちゃんの頭部だけがコロンコロンと道端に転がったのは奇妙に愉快な映像だった。




 ちゃんちゃん。







 その後のことはよく覚えていない。

 気付けば遺体のない状態で通夜がおこなわれていた。


 僕にもあらぬ疑いがかかったけど、そんなことはとりたてて重要なことじゃなかった。

 僕にとって最も重要だったのは染井吉野という存在が僕にとってとりたてて重要じゃなかったという事実だった。


「九重……っ!」


 兄が僕の名を呼びながら例によって唇を奪う。

 クチャッと唾液を混ぜてディープキス。


 結局、吉野ちゃんが死んでも僕の世界に大した変化はなかった。


 学内ヒエラルキーは底辺のまま。

 兄には慰み者にされて。

 吉野ちゃんが僕にそっけないのもそのまま。


 ただ生きて邪険にするか、死んで応えないか、その違いだけ。

 大した差はない。

 結局僕はこんな感じ。


――だったら大将にとって面白い人生ってのぁ何だぃ?――


 考えたこともない。


――クラスメイトはみんな友達で、薄紅の兄ちゃんは誠実で優しく、吉野の譲ちゃんは大将と相思相愛ってなぁどうだぃ?――


 望むべくもない可能性だ。

 すくなくとも僕の天命の範囲では。


――だから大将は大将の天命のままに背中を丸めて歩き続けるのかぃ?――


 それは責められるべきことなのだろうか?


――いいやぁ? 責めてなんかいないぜぃ?――


 もしも時間が戻るのなら、別の選択をするかもね。


――したらば戻すかぁ――


 ごく自然に、当たり前のようにそう言ったリンドの言葉は、現実になった。







 僕が吉野ちゃんの手を引いて鬼から逃げ、リンドの助言によって後ろを振り返り、鬼の爪が今まさに吉野ちゃんの首に襲いかかろうとしたところで……動画を一時停止したように世界が止まっていた。


 通夜会場から此処まで時空間が飛んでは、さすがに僕の常識と認識は追いつけなかった。


 ……これはいったい?


――吉野の譲ちゃんの首が千切れとぶ一秒前のフレームだぁなぁ――


 当たり前のように言うリンド。

 まさか……時間を巻き戻したの?


――まぁなぁ――


 けど未来のアレは……。


――したらば大将はこの状況からあの未来にならないと言えるのかぃ?――


 それは……。


――問うがねぃ。ここから二人は無事に生き延びて、クラスメイトは仲良くしだし、薄紅の兄ちゃんは兄として誠実になり、吉野の譲ちゃんは大将に惚れて。そんな未来が待っているとでも言うのかぃ?――


 ありえない。


――むしろ二人とも殺されて「これにて終幕にござい」ってのが真っ当だぁ――


 まったくだ。


 ははは、とおそらくは皮肉げに僕は笑った。

 じゃあリンドの意図は。


――それは無論、小生を使ってもらうためだぁなぁ。魔法の体験版も、過去転移も、全て営業の範囲だよぃ――


 なるほど、と僕は納得した。


 ねぇ、僕もシラノ=ド=ベルジュラックになれるかな?


――無理だぁなぁ――


 身も蓋もない答えが返ってきた。


――シラノは自らの劣等を自覚し思い悩みながらぁしかしそれでも想い人と親友の幸せを優先して我が身を尽くしたぁ。それ故に、自ら置かれた境遇でなお誇りある選択をしたが故に、シラノは今もなお語り継がれているのさなぁ。シラノ以外の誰にもシラノ=ド=ベルジュラックになれはしねぇぜぃ――


 …………そっか。


――したらばそれはつまりシラノにさえ松前九重という人間になれはしないということでもあるんだぜぃ? 大将、大将は大将の選択をすればいいんだよぃ。卑屈に生きることも、開き直ることも、他者に責められるべきことじゃぁありゃせんぜぃ。そして大将が誇り高く生きたとしても、それは大将の選択であってシラノ=ド=ベルジュラックになれる道理じゃござんせんってなぁ。それはただ大将が大将にだけ誇るべき誇りだぁ――


 ……そうだ、ね。


――しかれども忘れなすなよぃ。死ねば後悔さえできなくなるんだぜぃ?――


 ここまできてそんなこと言う普通?


――ケタタタタ。まったくだぁねぃ。では覚悟のほどはよろしゅうござんすねぃ?――


 うん。いこっか。


――攻性装甲完全装着!――


 頭の中で、そんな音声案内が流れる。


――いくぜぃ大将! その御名を叫べやぃ! ――


「滅私装甲! メッシリンダー!」







 時が流れ出す。


 僕は吉野ちゃんの首に食い込もうとしていた鬼の爪を間一髪で払い飛ばし、そのついでに後ろ回し蹴りを鬼に見舞う。

 鬼は弾丸の如き速度で公園の植木につっこんだ。

 衝撃音が辺りに響く。


「ここ……の……え……?」


 吉野ちゃんの唖然とした顔が少し面白かったけど、それは言わないでおいた。

 きっと吉野ちゃんの目の前には変身ヒーローが立っているのだろう。

 そして前後即因果からそれが僕だと推測するのはむずかしくない。


 けれど、もう全ては詮無いことだ。

 僕は吉野ちゃんに構わず、再度襲ってきた鬼を迎え撃つ。


「ギギャアッ!」


 愚直に振り下ろされた爪を腕の装甲で受け止め、鬼の腹部に膝蹴りを当てる。

 衝撃でフワリと滞空する鬼にかかと落としを当てる。

 地面に叩きつけられた鬼は喀血して倒れ伏す。


 まるで重力から開放されたかのように体が軽い。

 今なら雲の上まで跳びあがれる自信があった。


――フルチャージ――


 頭の中に音声案内が聞こえて、


「リンダー……キック……ッ!」


 僕はそんなことを口走っていた。

 右膝から下の装甲に魔力が集中する。


 僕は確信を持って空気を蹴った。

 空を駆け上がり、あっという間に空高くまで辿りつく。


 上下逆さまの体勢で陣取り、膝をたわませて限界まで力を溜める。

 リンドが叫んだ。


――やるぜぃ大将! 必殺!――


「ソドムエンド!」


 言うが早いか、僕は空間を蹴って垂直に跳び下がり、膂力と魔力を込めた右足を鬼に突き刺してそのまま地面に激突した。

 激突地点で爆発が膨れ上がり、公園にクレーターが刻まれる。

 当然、鬼は塵芥と砕け散り、風にまぎれてその存在を終わらせた。


 やりたいことをやり終えた後、僕はクレーターの中心で大きく背伸びをした。


「んー……」




 開放感と達成感。


 強襲装甲が、微細な結晶になりながらサラサラと上から順に崩れていく。

 クレーターの外からこちらをのぞく吉野ちゃんが見えた。

 装甲が崩れ去りきってしまう前に僕は吉野ちゃんに微笑んでみせた。








「バイバイ」





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