第二十八話 兄の上京
七月に入るとマテオは以前から予定していた外国出張に出掛けました。ヨーロッパの数国を廻り、最後にイタリアに寄ってから十日後に帰国するとのことでした。夏休みに入った私を本当は同行させたかったと言っていた例の出張旅行です。
一緒に行けないのは残念ですが、しょうがありません。マテオの留守中、前半は気を紛らわせるために仕事を沢山入れました。それから珍しく兄がロリミエに出てきて、叔父の家に何泊か滞在していたため、マテオの居ない寂しさも半減しました。
「結婚記念日に何かシンシアに贈りたいんだよ。田舎町じゃ何も洒落たものがないから、ロリミエに仕事で行く機会をうかがっていたんだ」
「まあ素敵ね、リック。どんなものを考えているの?」
「やっぱり女性にはアクセサリーの類がいいだろ。明日の午後、買い物に付き合ってくれないか、キャス?」
「だったら私もリックに相談したい買い物があるのよ、丁度良いわ。ダウンタウンに一緒に行きましょう」
翌日、用事の後は叔父夫婦とレストランで待ち合わせて夕食をとることになりました。大人になってから兄と二人で買い物に行くことなど、初めてかもしれません。
まず兄の子供たちへのお土産などを買い、それから私の買い物も済ませました。そして今日の本題である宝飾店を何軒か見て回りました。私や店員さんの助言により、結局兄は義姉のシンシアに指輪を買うことにしたようです。
「どっちのデザインも捨てがたいよなあ、値段もほぼ同じだし。じゃあやっぱりこっちの石が埋め込まれている方にする」
兄が最後に残った二つの指輪からとうとう選び、会計をしようとしていたところでした。私の視界の端に黒い物体が映りました。ふとその黒い影の方を振り向いてみると、マテオに良く似た黒ずくめの男性が通りから店の中を覗いていました。
マテオがもう何日も留守にしていて、寂しさからか彼の幻影まで見えるようになってしまったようです。それにしても装いだけでなく、何だか怒り心頭に発しているその表情もが私の愛しい男性にそっくりです。
「……というかマテオ本人だわ!」
彼と目が合うまでもなく、確信しました。明後日まで帰って来ない筈のマテオは今にも店内に乗り込んで来ようとしています。実の兄だろうが誰だろうが、男の人と楽しそうに買い物をしていた私です。しかも宝飾店で二人で指輪を選んでいたのです。
「リック、壊滅的事態発生だわ。私、先に外に出ているからっ!」
「はぁ? あ、ああ」
この静かな店内で修羅場を繰り広げるのを避けるため、私は足早に出口に向かいます。眉間にしわを寄せたマテオが仰々しくゆっくりとドアを開けてくれました。
「マテオ、予定より早く帰ってきたのね。貴方が居なくて寂しかったわ」
マテオが早めに帰国したのはともかく、どうしてここに居るのか疑問でしたが、とりあえず彼の無駄な誤解を解くことが最優先です。
「それにしてはやたら楽しそうに男と買い物していたじゃないか。俺が早く帰国して都合が悪かったみたいだな、キャス?」
彼は本気で怒っています。知らない人が見たら怖気づいて逃げ出すような怖さなのでしょう。元々の迫力ある容貌に、久しぶりに伸びている無精髭もすごみを増すのに一役買っています。
「マテオ、あのね……」
「キャス、待たせたな」
兄が店から出てきてしまいました。私はすぐさま振り返って彼に頼みました。
「リック、運転免許証出してくれる?」
「な、何だよいきなり」
「この人が殴りかかる前に早く!」
「あ、ああ……」
私は証拠提出作戦に出ることにしました。
「おい、そこで二人、何をコソコソ言っているんだ!」
私は兄が財布から出した免許証を自分の手に奪い取り、マテオに向き直りました。
「お願い落ち着いてマテオ、こちらはリシャール・デシャン、私の実の兄よ。ほらこれ見て、現住所は私の実家のあるサンバジルの町でしょう。リックは私の実家のすぐ近くに住んでいるのよ」
「……」
マテオは兄の免許証と私と兄の顔を順番に無言で見つめています。
「リック、こちらはマテオ・フォルリーニさんよ。少々誤解があって恐ろしい顔をしているけれど、それに時々猜疑心の塊のストーカー状態になるけれど、普段は優しい人なの」
「……大変失礼致しました。カサンドラさんにはいつもお世話になっています」
マテオが自分の非を認めて手を差し出しています。兄は笑いをかみ殺しながらその手を握りました。
「いえ、こちらこそ妹が大変お世話になっているようで、いつも叔母から聞いております」
私の愛する男性二人が握手しているのを見て、私はほっと胸をなでおろしました。
「スザンヌと言えばもう叔父さんと二人でレストランに来ているぞ」
「どうしてマテオが知っているの? それにいつ帰ってきたの?」
「今日の午後に空港に着いた。君を驚かそうと思って先にスザンヌに連絡したら、夕食に俺も招いてもらえたというわけだ」
無事に帰ってきたマテオに抱きつきたい気持ちをぐっと抑えました。何と言っても兄の前です。それでも彼に軽く唇にキスをされました。マテオもあらぬ疑いを抱いたことで気まずいのでしょう。行き過ぎたベタベタぶりを兄に披露することはなく、私は安心しました。
「じゃあ皆でレストランに行きましょうか。マテオ、私とリックをあそこで丁度見かけたの?」
私は兄とマテオの間に入り、二人と腕を組んでレストランに向かって歩き始めます。
「三十分ほど前に君は叔父さんにあの宝飾店にいるとメールしただろう。少し約束の時間に遅れるかもしれないと。で、俺はスーから君の居場所を教えてもらえたから……」
「ハハハ、私とキャスが二人で指輪を選んでいる現場を目撃したという訳ですか。ちなみにあれは私から妻への結婚記念祝いです」
「スーは私が兄と一緒だと言わなかったの?」
「……彼女が何か言いかけていたような気がするが、慌てて電話を切ったから」
「もう、マテオったら」
苦虫を嚙み潰したような顔のマテオに、私と兄はクスクス笑いが止まりませんでした。
「まあ、キャスは素敵な紳士二人にエスコートされちゃって、全く羨ましい限りだわ」
レストランに入って来た私たちを見て叔母がそんなことを言います。今晩の食事は兄の希望によりタイ料理でした。私は野菜と豆腐のグリーンカレーを頼みました。
食事中は饒舌な兄と叔母が主におしゃべりをしていました。兄が三人の子供たちの話ばかりするのでマテオが退屈していないか心配になってきました。普段は他人の前でここまで親バカを発揮しない兄なのに珍しいです。
マテオはただでさえ旅行帰りで疲れているのでしょうが、それでもこの場に顔を出したのは彼の意思なのです。
叔父がお手洗いに立った時、私はマテオにこっそりとお願いしました。
「今晩の食事は叔父が出してくれるって言ったら素直におごられてね。彼の面子を潰さないためにも」
「チェルト ケ シ」
マテオの機嫌もそう悪そうではなく、むしろ良さそうです。兄が逐一マテオを観察しているのは感じていました。
座っているときは必ずと言っていいほどマテオは私の手を握っているか、肩や首回りを触っているか、ポニーテールの髪をいじっているか、とにかく何かしら触れているのです。それでも頬や髪に口付けをしないだけ、今日のマテオは大人しい方でした。
「君はもっと動物性たんぱく質を摂ってもいいんじゃないか」
マテオが私のお皿に牛肉を数切れ置いたところも兄にはしっかりみられていたようです。普段ならフォークに刺した肉を直接口に入れられるところです。やはり兄の前では遠慮があるようでした。
「よりによって管理栄養士様に食事について偉そうな助言をするのもマテオらしいわね」
叔父夫婦にとってはいつものことで、叔母にそうからかわれるのもお馴染みのパターンとなっています。
レストランを出たところで私たちは別れました。明日サンバジルに帰る兄とはまたしばらく会えません。
「スーの言う通り、良い奴みたいで安心したぞ」
別れ際に兄にそう耳元に囁かれました。
***今話の一言***
チェルト ケ シ
もちろんです、分かっています
カサンドラのお兄ちゃん、良い人ですよね。作者のお気に入りキャラの一人です。
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