第二十五話 ペントハウスの隣人
― 西暦2011年 年初
― 大都市ロリミエ
秋が過ぎ冬が始まり、新しい年が始まりました。私たちの交際は順調でした。マテオは相変わらず嫉妬深くて束縛するようなところは変わりませんが、リサやアン=ソレイユと一緒だと言うとあまりうるさくなくなりました。
その理由を知ったのはバーでの一件があったその数週間後のことでした。
その日の夜、私はアン=ソレイユのアパートでダニエルの世話をしていました。今夜の彼女は仕事が遅番だったのです。普段は夜の時間帯には働いていない彼女ですが、先週ダニエルが風邪を引いたときに同僚と勤務時間を交代してもらったそうでした。
アン=ソレイユは予定より随分早い夜九時前に帰宅し、玄関のドアを開けるなり私に告げました。
「キャス、いつもありがとう。うちの前で貴女のお迎えが待ってくれているわよ」
「迎え?」
嫌な予感がしました。私を迎えに来る人は限られています。と言うよりも、一人しかいません。
「ほら、見てごらんなさいよ」
窓際に駆け寄りました。暗闇の中でも見間違えるはずがありません。この地区ではまず場違いなマテオの青い高級スポーツカーでした。
今晩はアン=ソレイユの所に寄ってからマテオのマンションへ行くと事前に報告していただけでした。何時になるとも言っていませんし、彼はここの住所も知らない筈です。
「まあ、なぜ? 私ずっとマテオを待たせていたのかしら」
イライラしているマテオが目に浮かびました。
「実はキャスが子守を引き受けてくれた時に私がフォルリーニさんに電話したのよ」
マテオはあのバーでいつの間にか私の親友たちと電話番号を交換していたそうです。
「彼が貴女たちに私の行動を一々報告するように頼んだのね?」
「ええ。その日私は十時前には帰宅できるから、その後貴女はすぐにここから帰れるって知らせたの。そうしたらフォルリーニさんは私をまず迎えに来るっておっしゃって、運転手さんの都合がつかなかったから何とご本人が……ごめんね」
「ごめんって何が?」
「キャスがより早く帰宅できるとは言え、愛しの彼に私の送迎までさせてしまったわ」
「どうせマテオがそうするって言い張ったのでしょう? それに貴女もずっと早く帰れたしね。ダニーのお寝んねには間に合わなかったけれど」
「それから、キャス専用席に座ってしまってごめんなさい」
「専用席ではないし……」
「多忙なフォルリーニさん自らが本当に迎えに来て下さるとは思わなかったのよ。しかも、寒いのにあのカッコいい車から彼はわざわざ降りて私のために助手席のドアを開けてくれてね。彼氏自慢が鼻につく同僚にばっちり目撃されてしまって、彼女きっと腰を抜かしたに違いないわ。ああ痛快ぃー」
「えっと……それは良かったわね」
「以前フォルリーニさんがちょっと目を離した隙に貴女、助平オヤジに襲われそうになったのですってね。あまり詳しくは教えてくれなかったのだけど」
後日リサにも聞いたらそう言います。
「ええ、でも結局は未遂で終わったのよ」
「それでも、二度と同じことは起こさせない、防げるものは未然に防ぐ、なんて言っているフォルリーニさんはマフィアモード全開だったわよ。とにかく、気を付けるに越したことはないわ、キャス」
心配性のマテオのせいでフォルリーニ家の運転手レナトさんが黒のセダンで私を送り迎えをしてくれることもよくあります。レナトさんは家政婦ラモナさんの旦那さまなのです。
ということでリサとアン=ソレイユの二人にはいつも私に対するマテオの過保護ぶりを
マテオの交友関係は割と広い方だと思いますが、私などはそこに割り込む余地はなさそうでした。まず彼の周りの人々とは金銭感覚の違いで付き合いについて行けないに決まっていました。
マテオは仕事で、私は学業で忙しく、そもそも自分だけの時間さえも中々取れないのです。休日にマテオは時々ゴルフや自転車の仲間と出かけていますが、それも私と交際を始めてからは控え目になっているようでした。
ペントハウスの隣人で学生時代からの友人だというステファンさんには私も紹介してもらいました。と言うのもある土曜日にマテオの家に行くと、帰宅している筈の彼が居なかったのです。その代わりに携帯メールが一通入っていました。
『隣のステファンの所で飲んでいるから君も来い。エレベーターの反対側だ』
『本当に私も行って良いの? 手土産も何もないけれど……』
『もちろん手ぶらでいい。俺が酒とつまみの差し入れを持ってきているから。それに男二人だけじゃなくて、ステファンの恋人クレールも居る』
私は恐る恐る、隣の呼び鈴を鳴らしました。当然のことですが、隣人もマテオと同じくらいのお金持ちなのです。
「いらっしゃい。カサンドラさんですね。お会いできて光栄です。クレール・デュボワです」
「こちらこそ、急に押しかけてしまいました。お邪魔します」
扉を開けてくれたクレールは薄い色の金髪に印象的な緑色の瞳を持った、すらっと背の高い人目を惹く美人ででした。それでも気取ったところはなく、その名の通り透明感のある感じの良い人です。軽くまとめた長い髪にシンプルなニットの部屋着姿は落ち着いた大人の女性の雰囲気を出しています。
「フォルリーニさんからお二人の馴れ初めをお聞ききしていたところだったのよ」
私たちの出会いは人に言えるバージョンに脚色されていることを願います。
私がクレールに案内されて居間に入るとソファに座っていた男性二人が立ち上がりました。マテオと同じくらいの背の高さのステファンさんはクレールと並ぶと長身の美男美女でとてもお似合いです。
マテオが私の体を引き寄せて、私の唇にキスをします。
「チャオ、アモーレ ミオ」
そして彼はステファンさんを紹介してくれました。
「クレール、今の見た? あのマテオが……恋人にデレデレしている。これはいいものを見せてもらったなぁ」
「うふふ」
マテオのベタベタぶりは私にとってはいつものことで、段々慣れつつありましたが、ステファンさんは大層驚いていました。私にグラスを持ってきてくれたクレールも意味ありげに微笑んでいます。その時台所の方から電子音が聞こえました。
「頂いたピザを温めるわね」
「私もお手伝いします」
私も彼女について台所へ行きました。
「栄養学部の学生さんなんですってね。ロリミエそれともクレイトン大学?」
「ロリミエです」
「私も一年前にロリミエの薬学部を出て、今は病院勤務なの」
私も薬学部に進むことも少し考えましたが、偏差値がギリギリだったのと、栄養学の方により興味があったので今の学部を第一志望に選んだのです。
「まあ、私は今病院研修でノートルダムに週二回行っています。クレールさんはどちらの病院ですか ?」
「どうかクレールって呼んでね。歳もそう違わないでしょう。勤務先はロリミエ総合病院よ」
「でしたら私のこともキャスと呼んで下さい」
「敬語も禁止よ、分かった?」
私も卒業したら病院勤務も考えているので主に仕事の話をしてもらいました。クレールは苦学生だったと言うので意外でした。ペントハウスに住むステファンさんの恋人なので彼女も元々裕福な人だと思っていたのです。
「私が子供の頃、母がステファンのご実家で働いていたから、それが彼との出会いなのよ」
「ステファンさんとはその頃からのお付き合いなの?」
「いいえ。十代の頃は、特に……それに彼が英国に留学して、母も仕事を辞めたから。それ以来もう何年も会っていなかったの。実は昨年末に再会したばかりで」
しっとりと落ち着いた雰囲気のお二人は交際して長いように感じていたのです。
「まあ、そんな付き合いだしたばかりには見えないわ。お二人が知り合って長いからなのでしょうね」
「私とステファンも、色々あったから……」
クレールとは話が弾んで、電話番号も交換してもらいました。彼女はそれ以降、生涯に渡って付き合える大事な友人となりました。人と人との縁は不思議なもので、その後マテオと私がある重要な局面を迎えた時に助けてくれたのはクレールだったのです。
***今話の一言***
チャオ、アモーレ ミオ
やあ、僕の愛しい人
マテオくんが過保護で嫉妬深いところはもう治りそうにありません。さて、ここでまた新キャラの登場です。主人公二人にどう関わってくるのでしょうか。
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