第七話 隣の別荘にて




 読書にも飽きてきたところ、台所を覗いてみると家政婦のラモナさんが忙しそうに料理をしていました。


「今日の夕食はマテオさまのお好きな子羊肉の煮込みで、付け合わせは夏野菜のグリルと自家製パスタです」


「まあ美味しそうですね。お邪魔でなければお手伝いさせて下さいませんか?」


 どうせ私は何もすることがないのです。


「マドモアゼル・デシャン、お客さまを働かせるなんてとんでもございません」


「私は、その……何だか暇を持て余してしまったものですから……それに私のことはどうぞカサンドラと呼んで下さい」


 私もラモナさんと同じ、マテオの使用人でお客さまではありません。


「そうおっしゃられると、私も断れませんわね。では野菜をお好みの大きさに切っていただけますか?」


「はい! ありがとうございます」


 ラモナさんは結局折れて私の手伝いを受け入れてくれました。彼女は私のことをマテオの新しい愛人だと思っているに違いありません。


 野菜を切った後はパスタ作りでした。ラモナさんに教わりながら、彼女が混ぜて寝かせていたパスタ生地をねて延ばしてと悪戦苦闘しながらも楽しんでいました。流石に延ばした生地を切るのは彼女に任せます。


「これだけは私も万能の機械に頼るのです」


 ラモナさんはカウンターに置いてあるミキサーを指さします。生地を混ぜて、さらに延ばして切ることが一台でできるそうです。


「まあ、本格的なのですね」


 生地が機械に吸い込まれて細長い麵となって出てくるのはずっと見ていても飽きません。


「ラモナ、調理の助手は役目をきちんと果たしているか?」


 マテオが台所にやってきました。何と、黒のバスローブを羽織っただけの姿に裸足です。彼がそんな恰好をしているということは仕事に一区切りがついたのでしょう。


「はい、それはもう助かっております。お客さまをこき使ってしまって申し訳ございません」


 台所ではラモナさんを手伝っていると言うよりも、彼女の手際の良さを感心しながら眺めていることの方が多かったような気がします。


「どうせカサンドラの方から手伝いをかってでたのだろう? いい匂いだな」


「子羊でございます」


「センブラ デリチオーゾ」


 鍋の中を覗き込んだマテオは弱火で煮られているお肉の香りを満足そうに嗅いでいます。


「プールでひと泳ぎしてくる。夕食をたらふく食べる前に体を動かしておかないとな。カサンドラ、君も着替えて来い」


「え、でも……」


「ラモナ、手伝い役はもう立派に務め終わったよな?」


「もちろんでございます」


「じゃあ今度は俺が彼女を借りる」


 そして私もマテオの水浴びに付き合わされることになり、部屋で着替えました。色気も何もない臙脂えんじ色のタンキーニです。抱っこした赤ん坊に掴まれても引っ張られても脱げず、トイレで用を足すのも素早くできて、子守りには最適な水着なのです。


 露出は少ないにしても、マテオの前で水着姿になるのは少々抵抗がありました。


「自意識過剰よ、カサンドラ。あの人のことだから、布面積がもっと少ないビキニ美女に言い寄られ慣れているに違いないわ。私の体なんて目もくれないだろうから大丈夫」


 私はそう自分に言い聞かせながら階段を下りました。未だに私が何故ここに連れて来られたのか、疑問でした。


 プールのある裏庭に出るとマテオは既に泳いでいました。鍛えられた体をしているマテオです。毎日のように何かしら運動をしているのでしょう。彼がクロールで泳ぐ姿は美しくダイナミックです。プールの向こう側に辿り着いたマテオは私に気付き、こちらへ向かってきました。


「この梯子から入ったらいい。向かって左側は深くなっているから」


 この暑さではプールのいざないにあらがえるはずがありません。私も水の中にそろそろと入りました。梯子の最後の段に足を掛ける前に私の腰をマテオが支えてプールの中に立たせてくれました。


 手助けなしでも大丈夫です、と私が言う間もありませんでした。タンキーニの裾がめくれ、マテオの温かい手が直に私の脇腹に触れていました。私は思わずさっと体を離さずにはいられません。


「ああ、冷たくて気持ちいいですね」


 マテオの泳ぎに到底及ばない下手な私もプールを何往復かしました。特にこの夏は子供を水浴びさせるためだけに水着を着ていたようなもので、久しぶりに泳ぎました。


 それに水に入ったことですっきりとした気分になりました。ただ、水中でのマテオとの距離が異様に近すぎることがあり、私は大いに戸惑いました。彼が側に来て私の腰に手を添えたり、首筋に彼の息がかかったりする度に私は体を固くしていました。私の立場ではマテオを押しのけるわけにもいきません。


 ラモナさんが腕によりをかけてくれた夕食は頬が落ちそうなくらい美味でした。打ったばかりの生パスタなんて初めて食べました。流石フォルリーニ一族に仕えている家政婦さんです。


「自分で打ったパスタはまた格別だろう?」


 普段は炭水化物を少な目に摂るようにしている私ですが、実は麺類が大好きです。今晩は特別にお替わりまで頂きました。


「ええ。私は少しだけお手伝いさせてもらっただけで、ほとんどラモナさんが作っていたのですけれども」


「ラモナは益々イタリア料理の腕を上げているからな。生粋のイタリア人もうならせるくらいだ」


「まあ、お褒めにあずかって光栄でございます。やる気が湧くと言うものです」


 夕食後マテオは電話を掛けないといけない所がある、と書斎に行ってしまいました。


 私はしばらく居間のソファに座ってテレビを見ていました。ニュース番組が終わった後は特に見たい番組もなく、適当にドキュメンタリーのチャンネルに合わせました。狼や熊の生態に関するものでした。


 そこでお酒のグラスを持ったマテオが居間に入って来ました。彼が余りにも私のすぐ隣に座るのでその距離感が気になってしょうがありません。私の戸惑いを察したのか、マテオに顔を覗き込まれました。


「カサンドラ、そんなに身構えなくてもいいじゃないか。いきなり取って食いはしない」


 そんな直接的な表現に私は益々腰が引けてしまいます。


「は、はいっ、申し訳ありません」


 クリニックに行く前、確かマテオは自分がその気になるまでは手を出さないと言っていました。それに何事にも慎重だと豪語していた彼は性病検査の結果が出るまでは何もしないかもしれません。


 それでもいずれかは私たちは一線を越えてしまうのでしょう。それが今夜なのか明日なのか、私は気が気ではありません。


 テレビは教育的にとても興味ある内容を放送していたというのに、結局野生動物の生態などほとんど頭に入らないまま、ドキュメンタリー番組は終わりました。


 マテオはそろそろ寝ると言い、立ち上がりました。私も彼に続いて階段を上ります。


 マテオがもしその気になったとしたら、私が彼の部屋に呼ばれるのか、それとも彼が私の部屋に来るのか、どちらなのか考えていました。ラモナさんの部屋はどこか知りませんが、彼女は私たちが同じ部屋で寝ると思い込んでいることでしょう。


「明日の朝はボードゥローに移動するだけだからゆっくりでいい」


 立ち止まって振り向いたマテオの顔が私のすぐ前にあります。


「はい」


「お休み、カサンドラ」


 彼は私の頬に片手で触れ、そっと唇にキスをすると向かいの自室に入って行きました。


「お休みなさい」


 マテオのそれが一瞬だけ触れた自分の唇を指で辿っている私だけがしばらく廊下に突っ立っていました。


「唇にキスされちゃった……軽く触れ合っただけだったけれど、キスはキスよね……」


 その後、私はブツブツと独りちながら寝間着に着替えていました。


「さっきあの人はお休みと言ったわ、ということはもう今夜は何も起こらない? 一日延びただけで、また明日の夜までビクビクしながら過ごさないといけないのかしら。あーあ……」


 それでも、ふかふかのベッドに横になると私はすぐに眠りに落ちていきました。いきなり他所のお宅に借金のかたに連れて来られた身だというのに、日頃の疲れが溜まっていたようでした。私の神経もかなり図太いようです。




***今話の一言***

センブラ デリチオーゾ

美味しそうだ


ラモナさんによる『きoうの料理』の時間でした。子羊肉にはこれでもかというくらいにんにくを使うのがポイントだそうです。

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