第六話 雇用条件など
最低賃金以下で働いていたとは言え、私に懐いている二人の子供たちと急に離れるのだけは辛かったのです。
「サミー、ガビー、この夏は今日で貴方たちとお別れなの。次に会うまでいい子にしていてね」
「ええぇ! キャス、また遊びに来てくれる?」
「もちろんよ、サミー」
「バァバァー!」
「ガビー、寂しくなるわ」
何とも慌ただしい別れでした。
「またね、リリアン。急な話で迷惑を掛けてごめんなさい」
「ほら、これ」
それはお札で、今日までの給金のようでした。こんな去り方をしたら、この夏今日まで働いたもう貰えないだろうと諦めていたというのに、意外でした。無表情の彼女は私に対してかなり腹を立てているのか、嫉妬しているのかどちらかのようです。上手いことフォルリーニ一族に取り入ったわね、とでも言いたいのでしょう。
リリアンの家を出て、隣家に向かっている時にマテオに聞かずにはいられませんでした。
「フォルリーニさん、リリアンに何をどう話したのですか? 私、何だか信じられません」
こんなに簡単に子守りを辞められるとは思ってもいませんでした。
「伯母のナンシーに仮病を使ってもらった。この別荘地で仲良くなった君にナンシーが是非身の回りの世話をしてもらいたいと言っている、と切り出してみた」
「ま、まあ……」
「嘘も方便さ。大体、あの奥さん今仕事は休みなんだろ?」
「そうですけども……」
「最初、子供たちは気心の知れた君に懐いているのに、と抵抗していた。子守りがどうしても必要なら、地元のベビーシッター派遣会社を紹介する、と言ってやった」
「彼女が業者に頼むとは思えませんけれど」
プロのベビーシッターなら私の賃金の二倍はすることでしょう。それにそんな子守り専門の人は家事や雑用はしてくれません。
「だろうな。でも迷惑料を握らせたら、二つ返事で了承した」
「迷惑料!?」
「まあそれでも君の給金をその後に請求したら、しばらくの間渋っていたがね」
無精髭に黒ずくめのマテオに脅されてもなお抵抗を試みていたというリリアンの気の強さを見直しました。
「私、もうこの夏はただ働きになるだろうと諦めていました。フォルリーニさんのお陰です。ありがとうございます」
マテオの家の玄関を入ると、昨日の家政婦らしき女性が出迎えてくれました。
「この屋敷の管理をしてくれているラモナだ。ラモナ、こちらはマドモアゼル カサンドラ・デシャン」
「何か必要なものがおありでしたらお申し付けくださいませ」
「ありがとうございます。お世話になります」
「君の部屋に案内しよう、二階だ」
このお屋敷には一晩泊まるだけなのに、私が通されたのは広い立派な部屋でした。浴室にトイレもついています。
「今日の昼前に行って欲しい場所がある。運転は出来るか?」
「免許はありますが、車を持っていないので普段はまず運転しません。ですから運転にはあまり慣れていません。どちらまで行けばよろしいのでしょうか?」
「麓の街にあるクリニックだ。田舎道だから大丈夫だろう。ラモナの車を借りればいい」
マテオはそう言ってそのクリニックの名刺を渡してくれました。
「私はいたって健康で、お医者さまに掛かる必要はありませんが?」
「ああ、性病の検査だ」
耳を疑いましたが、今確かに性病と聞こえました。私が真っ赤になるより先にマテオは続けます。
「俺は何事も慎重に行う性質なのでね。ピルは飲んでいるか? でなければ処方してもらえ」
「あ、あ……」
私は二の句が継げませんでした。それでも私は大きく深呼吸をして一言彼に聞かなくては気が済みませんでした。
「貴方の方から私に何か怪しげな病気をうつすという可能性はないのですか?」
マテオは私の言葉に噴き出し、ニヤニヤしながら続けます。
「コメ オジ ディルロ! ははは、まあ多分そんなことはないが、ついでに俺も検査してもらうか。それで君が納得するならね。まあ行為に及ぶのは俺がその気になったらだし、避妊具の使用は怠らないが。危険を冒して後日慌てるよりも先に検査していたら安心だろ?」
いくら私が彼に借金を負っているからと言え、あまりにも好き放題に言われています。
「えっと、確かにフォルリーニさんのおっしゃる通りですけれども……」
「俺の予約もついでにねじ込んでおく。君の予約は十一時だから三十分後に一緒に出掛けようか」
「はい……」
マテオのその言い方から、クリニックは民間の施設のようです。この国の医療費は全てただですが、公的施設は病院の救急窓口も家庭医の診療所も、待ち時間が長いのが問題でした。裕福な層は民間のクリニックに高い料金を払って行く傾向がありました。
「性病の検査をこんなクリニックでするといくらするのかしら? 費用はあの人もちよね、私の問題じゃないわ……どうやって検査をするのか知らないけれど、ズボンじゃない方がいいわよね」
私はブツブツと独り言を呟きながら、荷物の中から綿のワンピースを出していました。青色の絞り柄で膝丈のこのドレスは私の荷物の中で唯一のよそ行きです。袖がなく肩が出るので白いカーディガンを羽織ることにしました。私は着替えをすると、約束の時間に一階に下りました。丁度マテオが書斎から出てきました。
「ジーンズじゃなくて、そういう恰好も良く似合うな」
「ありがとうございます」
女性にこんな台詞がすらっと言えるなんて、そこはうちの父や兄も見習ってほしいくらいです。
玄関脇の台にある車の鍵とサングラスを掴んで屋敷から出て行くマテオについて行きました。
昨晩と同じ白い車でした。マテオはいつも私のために助手席のドアを開けてくれます。男性からこんな扱いを受けたことは今までありませんでした。
しつこいようですが、父や兄も少しくらいはマテオをお手本にして欲しいです。彼らはもちろん自分たちが車に先に乗り込み、私や母がもたもたしていると文句を言うだけなのです。
今日は暑いからか、マテオがオープンカーの屋根を開けています。
「帽子を飛ばされないように気を付けろ」
「はい」
それよりも私はスカートの裾がめくれて太腿が見える方が気になります。ですから帽子を脱いで膝の上に置き、脚を隠しました。
連れて行かれたクリニックはやはり民間の機関のようでした。待ち時間もなく、先に私の名前が呼ばれました。てきぱきとした看護師により、検査はあっという間に終わりました。
その後は医師の問診でした。マテオが受付に言ったからなのか経口避妊薬の服用の仕方を説明され、処方箋を渡されました。
その避妊薬を飲み始められるのはマテオとのボードゥロー滞在が終わる頃になるというのに、クリニックの隣の薬局ですぐに購入させられました。と言うよりもマテオが横から口を出して勝手に三か月分も出してもらい、会計も済ませてしまったのです。
「何か他に買っておきたいものはあるか?」
「いいえ、ありません」
「だったらすぐ帰宅しよう。明日からボードゥローだから、外食はいくらでもできる。今日の昼と夜はうちですますぞ。ラモナの手料理もしばらく食べられないからな」
「はい」
「この俺に性病の検査を要求する女は君が初めてだ、全く」
彼はそう言ってニヤニヤしながら私の頬をそっと撫でました。そう言えば昨日、彼の屋敷の庭でも同じことをされました。私はそんな彼の笑顔も、そうして触られるのも嫌いではないとぼんやりと考えていました。
お昼ご飯は屋敷の裏庭にあるテラスでマテオと食べました。ラモナさんの作ってくれた鶏肉サラダのサンドウィッチは絶品です。
「今日の午後も暑くなりそうだ。プールも自由に使ってもいい」
私が物欲しそうな顔で庭のプールに張られた水を眺めていたのが分かったのでしょう、マテオがそう言ってくれました。
私自身が泳ぎたいわけではなく、子供たちが喜ぶだろうなと思っていたのです。家にこんな広いプールがあって、ここから数キロある湖まで行かなくても毎日水遊びをさせてやれるのです。そう考えて、もう私は子守りではなくなったのだと改めて思い出しました。
「そうですね。気持ちいいでしょうね」
マテオは食事の後、たまっている仕事を片付けると言って書斎に籠ってしまいました。手持ち無沙汰の私は勉強と読書に充てました。
***今話の一言***
コメ オジ ディルロ!
君も言うね、それを敢えて言うかな。
マフィアモードのマテオにも
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