第二十話 初めて鳴った携帯




 マテオに渡された携帯電話は結局ボードゥロー滞在中には一度も使いませんでした。その携帯電話が初めて鳴ったのは翌日の夜でした。電話番号を知っているのはマテオ以外には居ません。私は丁度お風呂から出たところでした。


「俺だ、キャス」


「こんばんは、マテオ」


「遅くなってすまない。今いいか?」


「ええ。明日の準備をしていたところよ」


「俺はたった今帰宅したばかりだ」


 私たちは十分ほど話しました。マテオには昨日会ったばかりなのに、一日の終わりに彼の声が聞けるというのは何とも幸せな気分になれるものなのだと実感しました。


 マテオはこの週末に私を家に招くと言ってくれました。彼はロリミエの中心街のマンションに住んでいるそうです。とても便利な場所で、私の通う大学やアルバイト先のカフェからもバスか地下鉄ですぐです。


 私は土曜日にカフェで午後三時まで仕事なので、その後にマテオのところに行くことになりました。


「君の仕事が終わる頃に迎えに行く」


「そんな、貴方の住所を教えてもらえたら一人で行けます」


「毎回送迎するのは無理かもしれないが、初めて来てもらうのだから」


「そう、じゃあ遠慮なくお言葉に甘えます」


「日曜日も予定がなければ一緒に過ごそう。泊まる準備をしておけよ」


「えっ? それでも……」


 私は今まで学業一筋で飲み会やパーティーがあってもまず午前様になる前に帰宅していました。ろくに外泊もしたことがなく、叔父と叔母にマテオのマンションに泊まるなんてどう切り出したらいいのか分かりませんでした。


「心配するな。君の叔母さんには先程電話して報告済みだ」


「な、何ですって? ホウコクって……」


 思わず声が裏返ってしまいました。


「君の外泊許可は既に頂いている。それどころか、スザンヌには日曜日の夜も君をうちに泊めてやってくれと頼まれたくらいだ」


 確かにマテオの住んでいる所からだと大学へはすぐに行けて便利です。特に朝一番の講義が入っている時など、早起きしなくてもいいのです。けれど問題はそこではありません。


「けれど、マテオ……」


「何だ、日曜日は朝から用事があるのか? スザンヌはそんなことは言ってなかったぞ」


「予定は何もありません……」


「だったら決まりだ。うちには何泊してもいいから、着替えを沢山持って来い」


 叔父と叔母には私からも外泊のことを伝えないといけないとは分かっていました。けれど恥ずかしくて中々言い出せませんでした。


 そうしたら翌朝、何と叔母の方から言ってきたのです。


「キャスは今週末マテオさんのところにお泊りなのよね。私もマルタンと外食して映画でも見に行こうかしら?」


「それはそうなのだけど……スー、本当にいいの?」


「貴女が深夜に地下鉄とバスを乗り継いで我が家に帰宅するよりも、マテオさんの所に居た方がずっと安全だわ」


 マテオは既に叔母の信頼を完全に得ているようです。


「あの、叔父さんも賛成してくれているの?」


「もちろんよ。大体ね、キャス、貴女はもう立派な成人女性でしょう。恋人が居て当然よ。貴女の慎重な性格からして羽目を外しすぎるなんてことも考えられないし」


 叔母が太鼓判を押した男性ならば、叔父も駄目とは言わないことは分かっていました。


「スー、最近携帯電話を使い始めたの。念のために番号を教えておくわね。でも実は自分自身の電話番号なのに知らないわ。どうやったら分かるのかしら」


「マテオさんから教えてもらっているから大丈夫。彼の番号と住所も一緒にね」


 叔母は電話の横にあるメモをひらひらとさせながら、意味ありげな笑みを浮かべていました。


 私の勤めているカフェは大学前の大通りにあって、常に混雑しています。その土曜日も例外ではなく、昼前から目の回るような忙しさでした。


 それでも三時には上がらせてもらい、携帯電話を見るとマテオからメールが来ていました。カフェの近くで車の中で待っているとのことでした。私は着替えが入った小さなスーツケースを引いて店を出て、マテオの車を探しました。


 このスーツケースは先日マテオが持ってきてくれたもので、今日彼に返すつもりでした。さて、青か白のスポーツカーを探してキョロキョロしていた私を呼ぶ声の方向を見ると、今日のマテオは黒い車に乗っていました。


 すぐに彼が見つからなかったのも無理はありません。私が近付くと車のトランクが静かに自動で開いたので私はスーツケースを車に積もうとしていました。そこで車から降りてきたマテオに腕を取られ、彼の方を向かされるといきなり口付けられました。


「やあキャス」


 私やっぱり人前で堂々といちゃいちゃするのはかなり抵抗がありました。ですからマテオの胸を少し押し返すような形になってしまいました。


「あの、マテオ、迎えに来てくれてありがとう」


「そこまで恥ずかしがるか? まあそのうち嫌でも慣れるだろ。それに俺達晴れて恋人同士になれたのだから、世間に知らしめないとな」


 彼はポニーテールに結っている私の髪を触りながらニヤニヤ顔でそんなことを言います。そしてさっさとスーツケースを車に積むと助手席のドアを私のために開けてくれました。


「お客として君が働いている姿を見に行こうかと思ったが、外からでも混雑しているのが分かったからやめておいた」


「良かった。マテオに見られていると私、緊張してしまって注文を間違えるに決まっているわ」


「カフェの客になるのはまた今度の機会にする。今日はもう君の仕事を増やしたくなかったしな。今から君は俺だけにサービスしてくれればいいのだから」


 そこで私は運転中のマテオに膝の上の手を握られました。ただ握られただけではなく、優しく愛撫するように撫でられています。私は浅ましくも、彼と過ごす甘美な夜への期待で喉がからからに渇き、身体は淫らな悦びに震えていました。


 しかし、このままマテオのペースに乗せられるのはまずいと思い、何か健全な話題はないかと考えます。


「マテオ、貴方は自転車にも乗るの? かっこいいわね」


 この車の後部座席は倒されて、そこに自転車が一台積まれていたのです。ただの移動用の自転車ではなく、タイヤがとても細いものでした。


「ああ、先日仕事でイタリアに寄った時に買った新車だ。午前中は郊外でこれの試し乗りをしていた」


「だから今日は自転車が運べるように大きいこの車を運転しているのね」


 マテオが車を何台持っているのか聞くのはやめました。


「プリンチペッサはSUVよりも人目を惹くスポーツカーの方がお気に入りかな?」


 マテオの手は今は私の太腿を撫でています。


「いえ、そんな意味ではなくて……」


「こいつに君を乗せたのは初めてだが、オートマチックだと右手が空いているから運転中でも君の手を握っていられるのは嬉しい発見だ」


 マテオが本当に嬉しそうなので、ただ手を握る以上のこともしているじゃない、誰にでも同じことを言ってるのじゃない、などと指摘するのははばかられました。


 彼に触られていると私は会話に集中できるわけがありません。そうこうしているうちにマテオのマンションに着き、車を地下駐車場に入れるため彼の手が私の膝から離れたのでほっとしました。


「自転車を降ろすのは後にする。さぁ、行こう」


 スーツケースを車から降ろした後、マテオは私の腰を抱いてまたキスしてくるのです。


「もう、マテオったら」


「周りには誰も居ないじゃないか」


「こんな場所は二十四時間警備員さんが監視カメラとにらめっこしているのでしょう?」


「確かにな。早く部屋に上がるとするか」


 マテオは空いた手で私の手をとり、エレベーターに向かいました。エレベーターに乗るのにもカードキーが必要で、彼が押した階のボタンは何とペントハウスでした。


 最上階でドアが開くと、正面にはテーブルに花瓶や石の置物まであって、まるで高級ホテルのようです。




***今話の一言***

プリンチペッサ

お姫様


マテオはスー叔母さんを懐柔する作戦に出て、それが大成功しているようです。

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