第十五話 必需品の調達
その日、普段より遅く起きたマテオは仕事の予定は特に入っていないから一日付き合えと言いました。もちろん私は彼に従うのみです。
まず彼は私を連れてホテル近くのレストランに徒歩で向かいました。そこで二人で遅めの朝食をとりました。
その後、マテオは私の手をとってレストランのはす向かいに見えていた携帯電話の店に向かいました。お店の人に一言二言何か聞いた後、マテオは私の方を振り向き、数台並べられてある電話を指差しました。
「キャス、この中だったらどれがいい?」
「マテオ、携帯電話を新調するの? 私にはどれも同じに見えるのに。ここにあるのは全部、貴方が今持っているのより小さくないかしら?」
「俺のじゃない、君の携帯に決まっているだろ」
お店の人の前だというのにいきなり私は腰を抱かれ、そう耳元に囁かれました。私は思わず真っ赤になってしまいます。
「マ、マテオったら、ちょっと……というか、今私のって言ったの? どうして?」
「どうしてもこうも、昨晩のように君が迷子になった時に役立つ」
「迷子ですって、失礼ね。迷った訳ではありません! ちょっと遅くなって道を間違えただけよ」
「とにかく、君に携帯を持たせることは決定事項だからな。もっと早くに買ってやっていれば良かったくらいだ」
「で、でも……そんな必要は本当にないので……」
マテオは私の言葉には耳を貸さず、お店の人と相談してさっさとプリペイド携帯の契約を結び、電話番号も決めてしまいました。
当時はまだ誰もが携帯電話を使っている時代ではありませんでした。仕事でどうしても必要な人が携帯しているくらいのものでした。それに、いわゆるスマホはまだまだ普及していません。
マテオにあてがわれた私の携帯も小さな折り畳み式の基本的操作ができるだけのものです。使い方を教えてもらった後、マテオが彼の携帯電話番号を登録してくれました。
「試しに俺にメールを打ってみろ」
「はい」
言われた通り、こんにちはと書いて送信すると数秒もしないうちに彼の携帯から鈴が鳴るような音がしました。
「ほら、ちゃんと届いた。じゃあ俺からも何か返事を打とう」
「あ、すごいわ。もう来ました。やあキャス、って書いてあります」
「エ コンヴィニエンテ ノ?」
私の任務はあと一週間もしないうちに終わるのに、携帯電話まで持たされるとは思ってもいませんでした。電話は最終日にマテオに返せばいいのですが、やはり無駄遣いに慣れていない私には無用の長物に違いありません。
それから車でダウンタウンの外れにあるアウトドアスポーツ専門店に行きました。
「実は明後日からポールの別荘に招かれている。君には軽くハイキングできる装備が必要だ」
「別荘、ですか?」
まずはブーツからだと言うとマテオはすたすたと靴売り場に向かいます。ここでも店員さんとマテオが色々とこのブランドがあの型がと談義を繰り広げていました。私は黙って言われるとおりに試着をするだけでした。
彼によるとデュゲイさんの別荘は山奥の湖畔にあって、一年中色々なスポーツができるそうです。
感じの悪いアンジェラとまた一緒に過ごさないといけないかと思うと気が重い私でした。マテオと二人きりで行けたらさぞ楽しいだろうな、とそんな考えが頭の中を一瞬よぎりました。けれどこれは遊びではなく仕事なのだと、不謹慎な思考は心の奥底に封印しました。
デュゲイさんの別荘へはボードゥローから車で四十分くらいで着きました。私が別荘と聞いて想像していたのはログハウスでしたが、この別荘は街にある住宅とほぼ変わらない洒落た近代風コンクリートの二階建てでした。
今日からここに二泊する予定だとマテオから聞いていました。着いた日の午後には男性二人で近くの湖へ釣りに出掛けたので私は一人で山の中を散歩することにしました。
私も釣りに誘われたのですが、アンジェラが行かないのに私一人が彼らと小舟の上で一緒ということに抵抗があったので辞退したのです。折角の機会なので私は大自然の中で楽しむことにします。
少し頭痛がするというアンジェラは別荘に残ると言うので、一人で辺りを散策しました。気温はボードゥローの街とそう変わらないのに、湖を囲む静かな森の中は涼しくて快適でした。本道から湖畔の別荘へは舗装されていない車道が通っていて、そこも歩いてみました。
他の立派な別荘を見るのも楽しいものでした。リリアンとマテオの別荘があるところは大自然の中と言うよりも、小高い丘にある郊外の閑静な住宅街といった感じでした。大きな街も近く、休みの間に訪れる人よりも定住民の割合が多いのでしょう。
ここは本当に自然に囲まれて静かないわゆる本当の別荘地です。こんなところに別荘を建てられるなら、木材を使った自然の温もりや香りを感じられるそんな造りが私の理想です。
「冬に来ても楽しいに違いないわね。けれど、こんな素敵な場所に別荘を持てるなんて夢のまた夢よね、カサンドラ・デシャン」
そう一人で呟きながら私はデュゲイさんのお宅に戻りました。
私より少し遅れて夕方、まだ明るいうちに男性二人が今日の
「今晩はこの魚を外で焼いて食べよう」
「レモンを大量に持って来た甲斐がありましたよ、ポール」
二人は張り切って魚を串に刺して準備をしています。私は簡単なサラダを作ることにしました。辺りが暗くなり、食事が出来る頃にはアンジェラも部屋から降りてきました。
他人のお宅で、しかも先日会ったばかりの人達との食事はとても気を遣います。私はリラックスするには程遠い状態でしたが、マテオはそれなりに楽しんでいるようでした。
その事件は翌日の昼過ぎに起こりました。午前中、私とマテオは二人でハイキングに出掛け、二時間ちょっとで帰って来ました。
その日も暑くなりそうでした。軽い食事をした後に私たち二人は別荘のすぐ下の湖で泳ぐことにしました。アンジェラとデュゲイさんは別荘にずっと居たようでした。
湖の水温はあまり高くなく、私は少しの間水中に居ただけで肌寒くなり、先に部屋に戻ることにしたのです。マテオはもう少し泳ぎたいと言って湖に残りました。
その後、シャワーを浴びて着替えた私は一人居間でお茶を飲んでいました。そうするとデュゲイさんがやって来て、暖炉を開けて灰をかき集め始めたのです。
「今晩は少し冷えるだろうから、念のため暖炉の準備をしておこうかと思ってね」
「そんなに寒くなるのですか?」
「ああ、裏の小屋から薪を持ってきてくれるかな、カサンドラ」
「ええ、勿論です」
私が外に出て小屋に向かっているとデュゲイさんも一緒について来ました。
「小屋の鍵を開けていなかったと思ってね」
そして物置に一緒に入ったところ、私はデュゲイさんに後ろから抱きつかれました。
「えっ?」
一瞬自分に何が起こったのか分かりませんでした。それでも彼の手が私の体をまさぐり始めたので、これはただ手が私の体に当たっただけではないということです。
「何をなさるのですか!」
「いいじゃないか、あの二人だって今頃は二階でお楽しみのはずだから」
あの二人とは誰を指しているのか明白でした。
「そ、そんな……」
私はその可能性を完全に否定できません。私は血の気がさっと引いていくのが感じられました。
「だから私は何も知らないふりをしているだけで、そういうことだよね。フォルリーニだって契約も他人の妻も両方ただでさらっていけるとは思ってもいないだろう」
私に対するマテオの言葉や態度が信じられなくなった瞬間でした。それも無理はありません。
「マテオ……」
彼が私をここまで連れて来たのはデュゲイさんに差し出す為だったのでしょうか。頭を鈍器で殴られたような衝撃を受けていました。
***今話の一言***
エ コンヴィニエンテ ノ?
便利だろう?
この回で二人が携帯で送り合っているのは、いわゆるSMS(ショートメールサービス)、テクスト、ミニメサージュと呼ばれるものです。この物語ではメールもしくは携帯メールと表現することにしています。
ということはどうでも良くて! カサンドラの大ピンチです。前回登場した時は濃い奥さんの陰で目立たなかったあのオッサンがやらかしてくれました。マテオ、早く彼女を助けに来るんだ!
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