第二話 飛んで火に入る夏の虫


 私、大学生のカサンドラ・デシャンは夏休みの間、友人リリアンの子供たちの子守りとして働いています。私は同郷のよしみで、二児の母であるリリアンの手伝いをしているのです。


 故郷の田舎町でも目立って美人だったリリアンでした。高校を出て都会の街ロリミエに出た彼女はすぐに若くして結婚し、二人の子供、三歳のサミーと一歳のガビーが居ます。


 小学校の学童保育で働いているリリアンは夏休みの間は仕事が休みで、子守の私も連れて田舎の山奥にある別荘に来ていました。旦那さまは一人ロリミエの家に残っており、週末の間だけ家族の居る別荘に来るのです。


 その日は買い物に行くというリリアンを見送った後、子供たちと留守番をしていました。近所に同じく滞在している家族の子供、ジャッドとジェイミーも遊びに来ていました。


 お昼前に子供たちを庭で遊ばせていたところ、ジェイミーが思いっきり蹴ったボールが隣家の庭に飛んで行き、落ちたところでガッシャーンと派手な音を立てたのです。


 私は血の気が引いていきました。あちこち動き回る子供を四人も同時に見るなんてまず無理、と今さら言い訳をしても遅すぎました。


 隣はリリアンの別荘の四倍ほどの大きさがある豪邸です。庭の広さも比べ物になりません。


「お隣は何でもあのレ・フォルリーニの所有なのよ。最近は若くてハンサムな男性が滞在している様子で、いつ見かけても違う高級車に乗っていらっしゃるのよね。是非ご近所付き合いいたしたいものだわぁ」


 事あるごとに、そんなことを言っているリリアンです。こんな貧乏学生の私にも隣家がいかに裕福なのか分かります。


 リリアンの旦那さまはもちろん裕福な方ですが、隣のお宅はお金持ちでも規模が全然違うのです。それは別荘の外見や庭の手入れの仕方からも分かります。


 イタリア系のフォルリーニ一族は私たちが住んでいるロリミエの街でも有数の富豪だという事だけは私も知っています。一族で経営している企業は何社にも渡るとか、実はイタリア系のマフィアでさえも一族には頭が上がらないとか、度々名前を聞くのです。


 流石にボールを蹴ったジェイミーも真っ青になって生垣の下から隣家の庭を覗いています。


「となりの小さなおんしつみたいなのにボールがちょくげきしてこわしちゃったみたいだ、キャス! どうしよう……」


「ジェイミー、これからお隣に行ってとにかく謝らないといけないわね……」


「キャス、おしっこー!」


「ジェイミー、ジャッド、私はサミーをお手洗いに連れて行くから、その後皆でお隣に謝りに行きましょう。ここで待っていてね、分かった?」


 私は小さなガビーを抱きあげて、サミーの手を繋いで家の中に入りました。ところが、サミーが用を足した後に庭に戻ってみるとジェイミーの姿が見えないのです。


「ジェイミー? ジャッド、ジェイミーはどこ?」


「きのしたをくぐってボールをさがしにいっちゃった……」


「何ですって?」


 いくら山奥の別荘地であっても、他所様の敷地に入るだなんて……責任問題にも発展しかねません。


 私は子供たちと急いで隣の豪邸に急ぎました。敷地は見事な生垣で囲われています。私は立派な門構えの前で怖気づいている場合ではなく、呼び鈴を鳴らしました。


「エイ! アスペッタ、ラガッツォ!」


「いたっ、何すんのさ!」


 庭の奥の方からジェイミーの声が聞こえてきました。


「ジェイミー!」


「はい。どちら様ですか?」


 インターホンから年配の女性の声が聞こえてきて、祈るような気持ちで声を振り絞りました。


「隣の家の者ですが、あの、そちらの庭にボールが入ったので……」


「はい、今参ります」


 それと同時に私たちがいる門の鉄格子前に、背の高い男性がジェイミーを連れて現れました。三十前後の若い男の人です。庭の器物を破損されただけあって、私たちが歓迎されているとは全く思えません。


 彼は私の姿を見ると目を大きく見開き、鉄格子の門越しに話し掛けてきました。


「君が保護者か? この子の母親にしては若く見えるな。とにかく、不法侵入という言葉は分からなくても、勝手に他人の家に入るなと躾けてもいい歳だろう?」


 この男性の言う事はもっともです。


「申し訳ございません。私が少し目を離した隙に、ボールを追いかけて……私は隣家の子守りで、この子の親ではありません。ジェイミーは近所の子供です」


「責任逃れをするために君が嘘を言っていないとどうやって証明するつもりだ?」


「しょ、証明ですか……隣家の主人とジェイミーの親が帰ってくるまでは無理です」


「ジェイミーとやらの住所と電話番号は?」


「名前と一つ先の通りの角に住んでいるということ以外には何も知りません」


 子供たちはこの人に怯えてか、一人も口を開きませんでした。


「とりあえず子守りの君にうちがこうむった被害を見てもらおうか」


 威圧的な態度の彼に恐れをなしたのか、ガビーが遂にひっくひっくと泣き出してしまいました。


「ガビー、静かにしていてね。心配いらないわ、泣かなくてもいいのよ」


 彼はここでやっと門を開け、私たちを招き入れてくれました。インターホンに答えた家政婦さんらしき女性が彼の後ろに控えていました。主人の目配せにより、彼女は何も言わず私たちの後ろで門の錠を再び掛けています。


 ジェイミーは未だに男性に腕を掴まれています。私たちは男性について豪邸の庭を進み、ボールがしでかした被害を見せられました。


 ちょっとした小屋ほどの大きさの温室でした。私たちの別荘側の壁の一部が壊れていました。気温の高い今の時期は使っていないのは幸いですが、この割れたガラス二、三枚だけでも取り替えるのにはかなりの費用が必要だということが一目で分かります。


 ジェイミーは腕を解放されたからか、私の後ろに素早く隠れました。


「俺はこの被害を誰に請求すればいいのだ?」


 リリアンはフォルリーニ家の人間から修理費用の請求書が送られると体面を気にしてすぐに払うでしょう。けれどその後代金は全て私の賃金から差し引かれるに決まっています。


 ジェイミーの両親には私も何度か会ったことがありました。噂好きなリリアンからの情報からも、彼らがリリアンと同類であることが容易に想像できました。自分たちの不在時に子供が破壊したものを弁償する義務があると考えるような人々ではないという意味です。


 私は窮地に立たされていました。こんな立派な温室の修理費用で私のひと夏の収入はゼロになるか、もしくは赤字決定でした。痛い出費でした。


 新学期からは研修生として少し収入が得られるものの、学費と生活費の足しになるように、休みの間に少しでも稼いでおきたかったのです。


 黙り込んでしまった私に、しびれを切らしたこの男性が口を開きました。


「黙っていたら何も解決しない。この子の親の連絡先が分からないなら、君か隣家に請求する以外ないだろうな!」


「そ、そうお思いなのでしたら……」


「 ギャァーーン!」


 声を荒げた彼のその口調に今までぐずっていただけのガビーがとうとう火のついたように泣き出してしまいました。


「おおよしよし、ガビー大丈夫よ……」


 私は彼女をベビーカーから抱き上げました。何もかもが大丈夫ではありませんでしたが、声に出して自分自身にも言い聞かせていました。


 これが一介の大学生である私が富豪一族のマテオ・フォルリーニと出会うに至った経緯です。




***今話の一言***

エイ! アスペッタ、ラガッツォ!

おい、待て小僧!と言ったところでしょうか。


第一話から全然状況は好転しておらず、可哀想なカサンドラは未だにピンチに陥ったままです。このコワイお兄さんが男主人公のマテオだと分かったところで次回に続く……

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