掌編集
火野佑亮
世界ネコ
「なんでそんなことを言うのさ」
猫はそうぽつりと言葉をこぼした。
「君はその気になれば今日からでも、うまれ変わったように自由に生きていけるはずなんだ。その可能性をわざわざ殺す必要なんてどこにあるのさ」
「仕方がないんだ。俺にはその資格がなかった。それだけの話だ」
そう言って彼は家をあとにした。吹きつける北風がやたらと目にしみる。
「俺には、この道しかないんだ」
彼は車が行き交う国道を、過ぎ去っていくタイヤを眺めながら歩いた。
そこにはそれぞれの生活があり、予め用意されたリズムに沿って、音楽のように軽やかに流れていく。対して彼は徒歩で、どこへ向かうのかもわからないまま、ただ思いつきにまかせて進んでいくだけだった。
昔よく遊んでいた公園が見えてきた。彼は自販機で缶コーヒーを買い、ベンチに腰を下ろした。月曜日の午前中はひとひとりいない。
しばらくすると、彼の前に猫があらわれた。
「やあ、さっきぶり」
「あいも変わらず、どこにでもあらわれるんだな」
「そりゃあそうさ。僕は世界を構成する要素であると同時に、世界そのものでもあるんだからね。僕から逃げようったって、そう簡単にはいかないさ」
「その言葉は嘘だ。俺にはもう失うものなんて何一つ残っていない。もしその言葉が本当ならば、お前は存在してはいけないんだ」
「でも事実、僕はこうしてここに存在している」
「ならばそれを取り消すまでだ」
「分かった。君は君自身の認識に賭けるわけだね」
そう言って猫はしっぽを振った。気付けば彼の手元にあったコーヒーの缶はナイフへすり替わっていた。
「本当にいいんだな?」
「もちろん。僕は何をされても再びあらわれるだけだからね。さあ、早くそれを手に取りなよ」
彼はナイフを手に取り、猫の首もとへと勢いよく突き刺した。この世のものとは思えぬ叫びが響き渡った。冷たい輝きを放つナイフは踊るように毛皮を切り裂き、隠されていたあたたかく健康的な血をあふれさせる。喉へかけて切り開いた皮を押し開くと、そこから筍のように艶やかな白い内部があらわれた。
猫は既に、猫としての装いを脱ぎ捨てていた。「日常」といういやらしい禁止の呪縛は完膚なきまでに両断され、そこからは半透明の真珠母のような内皮と、動き続ける生々しい内臓が、次第に募る異臭とともに露になるのだった。
(これだ、これなんだ! これこそがまさに、正真正銘の世界だ!)
辺りを臓物と赤黒い血で散らかしながら、彼はとうとう世界の核心へとたどり着いた。一寸たりとも止まることなく猫の全身に活力をめぐらしていたそれは、この飢え渇ききった地上に、本来のあるがままの姿を見せなければならなかったのだ。
彼は真っ赤なそれを取り囲む膜から引っ張りだすと、朧気な光を放つ、冬の太陽へ向かって掲げた。今目の前に広がっている世界は、確かに美しかった。
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