一章 悪鬼の目覚め 1
「夢を見るのは良いことだが、それが悪夢でないことを願っているよ」
その言葉は一瞬にして俺をレム睡眠から解き放ち、覚醒させた。
これが美少女からのモーニングコールなら、俺は歓喜に打ちひしがれてその日一日を幸せに過ごすことができたはずなのだが、そんな妄想がまかり通るほど世界は簡単ではなかった。
「こんな形で〈再会〉するとは思ってもみなかったが……また会えて嬉しいよぉ、少年」
俺に向けられた声は、明らかに美少女のものではなかった。
声の主は、強面な面構えでベージュのトレンチコートを羽織った、初老の紳士だった。
ライオンの鬣のようなヘアスタイルからは、威厳と謎の安心感が感じられた。
だがそれと同時に疑問が湧いて出た。
俺はこの紳士を知らない。完全初対面の他人なのだ。だが、向こうはそうじゃないらしい。
……俺が忘れているだけなのだろうか?
だが、こんな独創的なライオン紳士は一度見たら早々忘れられるものではないはずだ。
パイプ椅子に腰掛けたまま、紳士は物腰柔らかな口調で話を続ける。
「寝起きで申し訳ないんだが、一つばかり感想を聞かせてもらえないかなぁ」
初対面のはずの紳士が俺に聞きたいことがある?
寝起きの人間に限って聞きたいことなど、大した内容ではないのだろうが、それでも俺の不安を煽るには十分な文脈だった。
俺はこれから何を聞かれ、どう答えれば良いのだろうか。大手商社への就活面接でもあるまいし、突拍子もない質問でストレス耐性や対応力を図る、なんて深い意図があるとは思えない……とも言い切れない。
杞憂に終われば良いのだが。
様々な疑念が頭をよぎったがのだが、それらの思考は紳士の次の一言で消し飛んだ。
「世界から消された気分はどうだい?」
…………。
長い沈黙。時間が止まったような感覚に襲われた。
ライオンの言葉を理解しようと脳内で様々な考えを巡らせたが、俺は未だに自身が置かれている状況を呑み込めないままでいた。
病院にいる理由が、ベットに横になっている理由が、点滴に繋がれている理由が、下半身、特に右側が全く動かない理由が、この紳士が誰なのか、そして……俺が誰なのかさえ分からなかった。
「……混乱させてしまったようだねぇ。だが、これは君にとっても私にとっても大切な質問なんだ。時間を掛けて、答えを練ってほしい」
ライオンは非常に真剣な眼差しを向けてくる。
獲物を見据えた狩りをする目とは違う、物事を、事象を、因果律を見据えた達観した目だ。
にわかに信じられないが、一連のライオンの言葉は全て真実を語っているように思えた。
『消された』という、過去完了及び存続、確認の意味が込められた表現は、俺の身に何が起きているのかを把握していなければ使えるはずのない言葉だからだ。
真に考慮すべきは『私にとっても大切な質問』という一点だ。
その真意は分からないが、俺の応答一つで、このライオンの機嫌を左右することになるやもしれん。
喉を鳴らして甘えに来るか、一切の容赦無しに噛み殺しに来るか、二つに一つ。
運命の分岐点というやつだ。
そこに嘘を交えて公正さを捻じ曲げるメリットがあるとは考えにくい。
根拠のない自信と判断を信じて、目の前のライオンを迎え撃つことにした。
「……消されたというのは客観的な意味ですか?」
この返答に対してライオンは目を見開き、驚きを隠せない様子でいた。
「何故そう思うのか、聞いてもいいかね?」
「何故、と言う程大それた理由ではありません。貴方と会話している時点で、〈俺〉は貴方に存在を証明されているからです。消されたとおっしゃられるからにはそれなりの根拠がある筈(はず)ですが、その判断材料は〈俺〉の手元にはありません。ですから、貴方の言葉が真実であると仮定した上で推論を申し上げた次第です」
…………。
ライオンは青ざめた顔で固まってしまった。
言葉に詰まっているのか、はたまた何かを思い詰めているのか、どちらにせよ、動揺していることだけは確かだった。
予想外、という反応は正直想定していなかった。
時間にして一、二十秒ほどの沈黙が永遠のように感じた。
永遠、それは時獄である。
それに飽きはじめていた俺は、自分が置かれた状況を改めて把握するために辺りを見渡した。
眼前に広がるのは極端に白い景色。
右を向けば名無しのベットプレートとデジタル式の時計、そしてテレビと……刀身の長い黒い傘と、紺色のサッカーボールと……なんだこれ?
赤・黄・緑の3枚のカード……思い出した、サッカーの主審が持ってるレッドカードとかイエローカードとか言うやつだ。
点滴に繋がれた右腕を伸ばしてカードを手に取ってみる。
80×110ミリ程のプラスチックのペラペラなカードにしては、かなり重みを帯びていた。
よく見ると、グリーンカードにだけ中心から何かで突かれて出来たような、奇妙な薄いひび割れがあった。
黒傘とサッカーグッズという2つの要素に規則性を見いだせないものの、ここが病院であるということはまず間違いなさそうだ。
そんな確証を得た矢先、凍ったように固まっていたライオンがやっと口を開いた。
「……少し席を外させてもらうよ。その間、テレビでも見ながらくつろいでいてくれ。もうすぐ午後2時になる……お昼の報道番組が始まる時間だろう。君にとってはショックかもしれないが……」
ライオンはフラフラした足取りで病室を出て行った。
同時に、面接を終えた就活生のような解放感が体を駆け抜けた。
それは採用落ちという絶望が一瞬だけ見せる、作り物の微笑みなのかもしれない……けれど……。
絶望の淵に立たされていることを気づかないフリをして、俺はテレビのリモコンを手に取った。
そして、自ら絶望に飛び降りた。
◇
国立首都医大附属病院。
日本におけるあらゆる医療の総本山であるこの場所は、病院という施設としての役割とは別に、国にとっての大切な役割がある。
それは、情報管理だ。
情報といっても、形を持たないネットワークのような類ではない。
人間の生体情報の管理だ。
遺伝子情報や血液型、果てには刑事事件の被害者や容疑者の記憶に直接アクセスしてスキャンした音声・映像データを証拠品として提出したり……なんていう、倫理上の問題で未だ法整備が成されていない施術も行われているらしい。
その必要悪としての信頼感故に各官公庁との資金提供と情報のやり取りが今日も盛んに行われている。
そんな国営上の重要拠点である施設に2人の刑事が送られてきた。
黒のスーツ上に同色のストレッチスラックスの組み合わせ。その左胸には警視庁の警察官バッジが、太陽の光を受けて煌めいている。
赤いネクタイを結んだスリーラインバッジのキザ男はパトカーを降り、死んだ目で先輩に話を振った。
「なんで俺達に白羽の矢が立ったんすかね? 刑事部長は『長谷川学長の要求を処理する必要がある』なんて言ってましたけど、俺らみたいな下っ端刑事をよこすなんてやっぱ頭おかしいですわ。あの人」
黒ネクタイとスリーラインバッジのスキンヘッド先輩が続けざまに答える。
「俺達には荷が重過ぎるわなぁ。刑事課には他に幾らでも精鋭がいるだろうに」
「あの事件が本当に殺人事件なのかも判別できていない上に、そもそも神奈川の事件なんでしょう? 無駄足だとと分っててよこしたんだろうなぁ……あのジジイふざけやがって」
無慈悲な縦社会に対する日頃のストレスが溢れ出てくる。
赤い男は、込み上げる怒りをパトカーのドアを閉める勢いに込めて発散させた。
「黒さん、俺、本気で警察やめようかな……」
「その辺にしておけよ、赤塚。嫌でも公務員だぞ。警察辞めたとして、次の職はどうするんだ? 元警察官なんて肩書きは、民間への転職には大して役に立たないぞ。脳筋ゴリラ、
あるいは元税金泥棒なんて色眼鏡で見られるのがオチだ。お前には刑事の仕事が一番似合ってるよ。俺が保証してやる」
◇
黒瀬さんからのアドバイスと惜しみない評価をとても有難く感じた。
自分のような学もマナーもない喧嘩っ早いだけのチンピラ新米刑事をここまで大事に教育してくれる先輩は、後を探しても他にいないであろう。
歌舞伎町での交番研修時代は悲惨だった。
度重なる若者の喧嘩騒動に暴力団同士の抗争、暴力や殺し合いは日常茶飯事だった。
その対応に慣れてしまったのか、自身もまた暴力による問題解決を厭わなくなっていた。
警察官が暴力というと聞こえは悪いかもしれないが、逮捕術の延長であることは違いない。
だが、被疑者や容疑者を取り押さえるために平気で殴り掛かりに行けてしまう異常性を、ついに克服出来なかった。
ついこの間も同じ刑事課の嫌味な奴に対して殴り掛かろうとしたのを既の所で黒さんに押さえ込んでもらった。
俺は警察官としての命も、人としての心も救われた。
だから俺にできるせめてもの恩返しとして、この人の部下として忠実に働く。この人のために……
ゴンっ!!
「痛ってえぇぇぇ!?」
鈍い激突音が走った。
半年前に心の内に秘めた初心表明を思い返していた赤塚は、病院玄関口の柱に激突するという、恥ずかしい失態をやらかしたのであった。
痛みのあまり、その場に倒れてもがき苦しむ赤塚。額、特におでこの辺りから少量の出血もしているようだ。
それに対し、
「あははははははははは、ふふ、ふ、ふあっははははは!」
大爆笑のスキンヘッド黒瀬。
入口警備員も慌てて救助に近寄るが、その顔からは堪えらなかった笑みが零れていた。
「ど、どうしましょう、急患扱いで専用口に回しましょうか?」
「は、はは。では後の事はお願いできますか。中に急ぎの用事があって来ましたので……」
「了解しました。後ほど院に連絡を回します。念のためお名前と身分証の確認だけお願いします。」
男はスーツの懐から警察手帳を開いて返答した。
「警視庁捜査一課の黒瀬です。階級は巡査部長です。で、そこに伸びてるのが……」
「同じく……赤塚巡査部長です……」
2人の刑事は病院へとなんとか足を進めるのであった。
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