第70話 私と別れるまで2時間前

 辺りはほぼ青紫に染まり、遠くの厚い雲が薄っすら赤い色を纏っていた。


 18時45分。そろそろ、出なくちゃ。


 「ちょっと行ってきます」


 あっさり母に言って、何か聞かれる前に出た。


 生温かい空気に若干怯んだが、これくらいが心と身体の中和を生む。そう昔からの感覚が私に告げた。


 目線の向こうには綿飴、そんな可愛らしい雲ではなく、これから何か不吉な予感を漂わせる怪しい雲たちが動いていた。


 彼らは私を見ているのだろうか。愚か者と巨体をゆっくり動かしながらこちらを見下しているのだろうか。


 それとも、こんなちっぽけな私なんて全く見ないで遥か彼方をのんびり進んで行っているのだろうか。


 どれにせよ今私は手先に血の巡りを感じない程緊張し、夏に相応しくない寒さを感じている。


 こんなに冷えてしまった手を、今まで温めてくれた人がいただろうか。


 弱い私に駆け寄って、大丈夫と声をかけてくれた人がいただろうか。


 この先そんな人がいるだろうか。


 皆んな自分の事で精一杯。それが分かっているから、わたしは自分の手を必死に擦った。


 存在の薄い手。辛うじて感じる指は、まるであの子のように透明になっていってしまうのではないか。


 わたしの命はなんて小さいんだろう。


 「はぁ、はぁ、はぁ」


 大丈夫、大丈夫。


 慣れない言葉を自分に呟いた。でもその言葉は大丈夫じゃない事を脳に聞かせてしまう羽目になった。


 震える、泣きそうになる。でも見たくない。


 例え誰もいない道の真ん中だって、自分が泣く姿を自分が見たくない。自分の泣き声を自分が聞きたくない。


 助けて。


 私を無条件に愛して、守ってくれる人がこの広い世界の中にいるのだろうか。

 

 出逢えるのだろうか。


 間違いなく今はこんな言葉に駆けつけてくれる人は一人もいない。


 少し前、ほんの少し前まで好きだったお父さんでさえも。


 時は19時を指そうとしていた。


 神社の周りを囲う木々の間から鳥居が僅かに見える所まで来た。


 「早すぎるかな…」


 20時。2人にまた会うのはこの時間が大切なのだろうと思った。


 早めに会って雑談、なんて違うんだろうな。


 わたしの身体は何の影響を受けてか、時が経つにつれ震えが止まらなくなった。


 気付けば、震えを抑える為に必死に両腕を抱えて、小さく小さく立っていた。


 田んぼで遠くまで突き抜けている、一人も人が通らない道を眺めて歯を食いしばっていた。


 それでもガクガクと震える全身に虚しくなる。抑えられない恐怖と自分を痛めつけてしまう程力んだ手。


 どの感情も私を笑顔にはしてくれなかった。


 顔の辺りがじんわりと熱くなり、顔に触れる空気は殆ど感じない。


 遠くの道もふちがぼやけ始め、田んぼとの境が分からなくなってくる。


 アスファルトと同じ色の夜が近づき、道と区別するべき目には流れない涙が並々にウヨウヨ揺らいでいた。


 「だれか…タ、ス、ケ、テ…」


 かすれてしまった声が聞こえたのか否か、「くすのき?」


 すぐ後ろで聞き覚えのある声が耳を突き抜けた。



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