第65話 名は。

 その日、父は帰ってこなかった。


 決して心配などしなかったが、胸はざわついた。


 地震が起きる前の地下深くに何かが起きているような、そんな違和感を覚えた。


 だが、それを払拭する程のスッキリとした心を備えていた。


 澄み切った湖を心に持っているかのように落ち着いていた。


 戦直前の準備まで終わり、あとは敵と刃を交わすのみ。というところまで来てしまった。


 今は分かりもしない父の言動を推測するより、一瞬の変化も見逃さないようにじっとしておくべきだと感じた。


 もう今は何も考えられない。


 この時代に父親と戦うかもしれないと腹を括る高校生がいるなら会ってみたい。


 きっと話が盛り上がるだろう。


 若干の余裕をかましながらも感覚は研ぎ澄まされる。


 というより今は邪念が殆どない。


 何も感じないレベルで時を刻んでいる。


 あぁ。この流れを私は過去に何度も何度も見てきた。


 そしていつも追いかけず、過ぎていく皆を只々眺めていたのだ。


 時の静かな流れがどこか目で感じた。


 それは風のいたずらに過ぎ無いかもしれないが、時は一定かつ不規則で心揺さぶられるものがある。


 それを私は全ての感覚を開いて見続けた。





 ああなりたいと。





 チリーン




 「ふっ。」


 どうやら、入ったみたいだ。


 小さな空間にたった一つの違和感。


 そして、それは二つとなりこちらと目が合った。


 『そろそろ会わなくては』


 「ほぅ。」


 やるな。宣戦布告とは愚かな者よ。


 そうは思わんか。父と母や。


 



 自然に出てきた感情は言葉ではなく心の中で音として湧いた。


 そして私は少し戸惑った。


 私の知らない私にとって、あの存在に父と母という音がしっくりきてしまう事に。


 分からない、分からないが、私には父と母なる存在が幾つもあるらしい。


 皆、名を大切に持たれよ。


 捨てると分からなくなるぞ。


 

 

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