アスガルド ~見習い武士の魔道のすすめ~
文々茶釜
プロローグ
荒れ狂う嵐の夜の海上で、大粒の雨に打ち付けられていたのが、まるで嘘のような静けさだった。
暗い海の只中に在った船を中心に、まるで現実世界から隔絶されたような感覚だ。一歩外れた先には、海面へと吸い込まれる雨粒が見え、酷く遠いもののように思える。
船の甲板には、雨を吸い重たくなった着物を引きずる年若い少女の姿があった。
背は高く、闇夜に溶け込む黒々とした髪は短く切りそろえられている。覗く横顔は端正だが、精悍な印象が勝り。疲弊の色を浮かべつつも、磨かれたような青の瞳が爛々と光って見えた。
しとどに濡れた皮膚には、幾つもの傷が刻まれている。抑えた左腕の創傷は特に出血が酷く、臙脂の着物を更に濃く染め上げた。
肌を滑る水滴に交じって、差し色のような赤い血が流れ落ちては木目のデッキを汚す。
が、あまりに非現実的な光景を前にしたせいか。痛みすら一瞬忘れたように、少女はぽかんと空を見上げて固まっていた。
少女と対峙していた男が、不意にその手から剣を滑り落とす。
男は頭上から差し込む光に恍惚の笑みを浮かべて、祈りを捧げ始める。今しがた、少女の腕を切り飛ばそうとした男が、敬虔に祝詞を口にする姿は隙だらけだった。
しかし、男同様に空高く視線を釘付けられ。壮大さと得も言われぬ存在感に気圧された少女に、反撃へと転じる余裕などありはしない。
遥か頭上、極光はためく夜空に突如として現れた、輝くような天上都市。
万人が魅了され渇望するナニかがそこに在る事を、本能で察し。同時に、それが人の手に余る禁忌と呼ぶべきものである事を悟る。
見てはいけないもの、望むべきではないもの。
そうと分かっていても、手を伸ばしたのは無意識での行動だった。
「朱音!! 何をボサっとしている、掴まれ!!」
叩きつけるように名を呼ばれ、魅入られかけた意識が急速に覚醒する。
瞬間、バケツをひっくり返したような激しい雨が降り注ぎ、船体が蠢くように激しく揺た。何か巨大な影が、船の下から浮かび上がる。
突き上げられるような、ドンと大きな衝撃と共に、少女の身が易々と海へと放り出された。
押し寄せる荒波、暗転する視界。
最後に見た空には、夜の闇だけが広がり。眩いばかりの都市など、初めから存在しなかったように、露と消えていた……
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