それは、懐かしい春の日の
@ZKarma
永訣は穏やかに
「ですから、セオフィラス・ラハトハヘレヴに会いに来たのです。そこを通してください」
「しかし、旦那様はただいまお体が優れません。日を改めてはいただけませんか」
庭園の向こうから、懐かしい声が聞こえる。
杖を握る皺だらけの手に力を込めて、可能な限り歩調を早める。
「そもそも、貴女は何者なのですか!いかに天霊に連なる貴種の方であろうとも、正体不確かな者を旦那様の前に通す訳には参りません」
響くメイド長の声は、僅かな怯えと、それを上回る決意があった。
嗚呼、良き従者を持ったなと内心で微笑みながら、私は垣根の角を曲がり、その場所へとたどり着いた。
「何をしている」
乱れた呼吸を整え、曲がったままになって久しい背骨を可能な限り伸ばし、皺がれ声で威厳ある語調をなんとか絞り出す。
「だ、旦那様!?出歩かれるのはご遠慮なさって下さい!お体に障ります!」
「良い。彼女の来訪に比べれば、私の体調など些事故」
慌てるメイド長を手振りで抑え、その前に立つ女性、というよりは少女というべき年若い人物の姿を正面から見据える。
黄昏色のハイウェストドレスの上に薄墨のボレロを羽織った今風の装い。
つば広の帽子の下からたなびく白金に赤が混じる髪は、聖霊に連なる貴種の証。
自分と同じ褐色の肌と、赤銅色の瞳。
そして、腰に佩かれた柄の短い剣が醸す剣呑な気配。
「申し遅れました。私はアルシエル。アルシエル・ラハトハヘレヴという者です」
そして、懐かしき、涼やかな音色の声が響く。
見間違える筈もない。彼女は――
「当家の家名、それはつまり…」
「そう、彼女は――私の母だ」
◇
許可を出すまで誰も入れるなと厳命し、バタリと自室のドアを閉めた。
この屋敷の長として保つべき威厳と緊張を解いた瞬間、思わずよろめき、倒れそうになる。
「危ないですよ」
後ろに立っていた母に肩を支えらえる。
華奢な外見からは想像もつかない体幹は、枯れた老人一人を支えた程度では微動だにしなかった。
「まさか母親に介護される時が来るなんてね…」
「私の種族的形質は遺伝するものではありません。当然のことです」
支えられたままベッドまでたどり着くと、私はそのまま倒れこむような心地でベッドに腰かけた。
「衰えましたね」
「今年で92だ。痴呆にならずにこうして話せるだけでも、私を褒めて欲しいところだね」
相好が崩れ、自分の口調が昔に戻るのを感じる。構うものか。彼女の前で、取り繕うべきものなど何も持ち合わせていない。
「親父の葬式以来となると、おおよそ30年振りだったかな?」
「正確には、34年と7か月と18日です」
天の使わす機構に等しい彼女の視座から放たれる特有の表現も、何もかもが懐かしく、皺浮く目尻に僅かに涙が滲んだ。
「もうそんなに経ったのか…長かったのか、短かったのか」
「この屋敷も、随分と華やかになったものですね。エディが経営していた時は、このような絵画を私室に飾る余裕はありませんでした」
エディは親父の愛称だ。あの鉄のような男をそう呼ぶのは母だけだったし、親父も彼女以外の誰にもそう呼ばせることを許さなかった。
「インフラが整備されて物流が盛んになるほど、ウチみたいな仕事は儲かるからね。時代のお陰さ。私の才能というわけじゃない」
激動の時代だった。複数の霊長種を跨いだ歴史上最大規模の戦争で、いくつかの国は併合され、数多の死と数多の栄華が齎された。
父エドワードから継いだこの商会を維持するため、死に物狂いで経済という魔窟に巣食う怪物共と戦い、戦い、その果てに、気づけばこの商会は国家を跨いだ巨大複合企業へと変貌していた。
「それに、経営を長女のアルメリアに譲ってから長い。今の隆盛はほぼあの子の手腕さ」
「――誇れるものを遺せたようですね。貴方の母として、とても嬉しいです」
そう、多くのものを遺したのだ、私は。
つまり……。
「母さんが顔を出したってことは、僕はもう長くないんだね?」
なんでもないような口調で、彼女にとっての本題を先に切り出した。
◇
「ええ。嘗て教えた通りに、貴方の死の介添えの為、私はここに参りました」
――それは、人間種と天霊種の間に生まれた者にのみ起こりうる、特殊な事例らしい。
「天霊の胎より生まれた人の子の魂は、天使としての形質を備えます。介添えなくして死せば、肉体の機能が停止した後も剝き出しの魂が彷徨うことになる」
「難しい理屈は判らないけど、死に目には会えるってことは覚えてたよ、母さん」
僕が15を数えた歳の春に、母はこの屋敷を出ていった。以来数年に一度何日か顔を出すだけで、それも親父が逝ってから今日まで一度もここに訪れることは無かった。
『あなた達の商会の内的闘争に、時の流れが異なる私が付き合う気はありません』
『それに、エディとの営みは私にとっては長い使命の合間の短い寄り道のようなもの。私の都合に、あなた達を巻き込む訳にはいきませんので』
彼女はそう言って、ここを去って行ったのだ。
ただ、僕の死すべき時にはまた訪れるとだけ告げて。
「と言っても、後数分の命って訳でもないんだろう?だったらしばらくはこの屋敷に泊まってよ。ほら、メイド長のシルヴァさんのことを憶えてる?あの人の娘が今のメイド長をやってるんだ。彼女を付けるから、泊ってるあいだは存分にこき使ってやってくれ」
辛気臭い雰囲気を誤魔化す為に、あえて明るい調子でそう告げる。
庭先での騒動で実感したが、もうここの使用人も代替わりして久しい。
彼女のことを憶えているものは、果たして何人残っているだろうか
「テオ」
妻が先立ってから、誰も呼ぶことが無かった自分の愛称。それを聞くだけでこんなにも心が安らぐ。
「何か、して欲しいことはありますか?」
「そこの、テーブルの上の本を読んで欲しいな。流行りの詩集を取り寄せたんだけど。老眼だと細かい文字を読むのが厳しくてさ」
実を言うと、もう本を持ってページを捲ることが出来るかどうかも怪しかった。
彼女から明確な終わりを告げられたからか、しがみ付いていた命の熱が指先から徐々に遠のいていく感触。
「では、僭越ながら」
彼女が、ベッドの横に安楽椅子を寄せ、その上に腰を下ろす。
開け放たれた窓からは、陽春の穏やかな風が吹き込みカーテンを揺らした。
7歳の誕生日の午後を思い出す。あの時も、親父から与えられた詩集の複雑な語彙が分からず、こうして母に頼んだのだったか。あれも、こんな春の日だった。
思い返せば、闘争に満ちた永い人生だった。幾許かの未練は、ゆったりと綴られる母の詠読に流されて消えていく。
その情景のあまりの暖かさに、瞼が少し重くなっていくのを感じる。
いつか失われてしまった、望郷に似た遠い過去への羨望。
春の陽炎じみたそれを、確かに今、目の前に取り戻したことを感じながら、私はゆっくりと瞳を閉じて――
「テオ、良き眠りを」
ありがとう、母さん。
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