規定事項

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「規定事項です」


 スーツの女がそういった。小柄で眠そうな目をした女。

 落ち着いた低い声。微動だにしない無表情。


「そこにあるスープを飲んでください。これは規定事項です」


 俺は真っ白な部屋の真っ白な椅子に座らされていた。

 記憶がない。自分の名前も、生まれもわからない。

 ただ気がついたらここに居たのだ。


 俺の最初の記憶は目の前のテーブルに置かれた温かい豆のスープの香りだ。温かいとわかるのは、それが湯気を立てているからだ。


「この豆のスープを飲めばいいんだな」


「はい。規定事項ですから」


 この女は一切事情を話してくれない。

 ただ「目の前のスープを飲め」と伝えてくるだけだ。


 このままでは埒が明かない。俺はスープを一気に飲み干した。

 舌がアツイ。

 しかしともかく、スープを飲めば次の段階に進めるはずだ。







 男はまた意識を失った。

 取っ手のない扉が外から開かれて、全身防護服の清掃員がスープを片付ける。


「博士。これで良いのでしょうか。この実験には全く進歩がないように思えます」


「この男は時空の狭間に囚われ15532回の8月のループを経験し、その最後に自らそのことに気づくに至り、我々時空管理局と接触することでループから脱出したのだ。時空管理局成立以来、自らループを自覚し本当に時空の狭間にとらわれていた人間は1人としていないのだ。この男を除いてな。そして時空管理局がループを検出できなかった事例も――つまり時空管理局がループを検出できなかったことを自覚した事例ということだが――かつて存在したことはなかった。

 この男を徹底的に研究することで何故この男が自分でループに気づくことができ、なぜ我々にはそのループが検知できなかったのかを暴き出す必要があるのだ。なんとしてもだ。なぜだかわかるね」


「この男の他にも時空管理局が検知しないループ者がいるかも知れないからです」


「結構。君は優秀なAIを備えたようだ」


 博士は白い部屋との通信をミュートすると、タスクバーから一つプログラムの実行を停止した。

 スーツの女はバランス制御装置を停止してパタンと倒れた。

 女のプログラムが再起動する。

 優秀すぎるAIというのも困りものだ。と博士は思った。

 この実験には人間以上に冷徹な精神が必要なのだ。もしかしたら男がループを自覚するに至った以上の回数、記憶を消す豆のスープを飲ませ続ける必要があるかも知れないのだ。

 この実験に同情や疑念は持ち込んではいけない。







「規定事項です」


 スーツの女がそういった。小柄で眠そうな目をした女。

 落ち着いた低い声。微動だにしない無表情。


「そこにあるスープを飲んでください。これは規定事項です」


 男は真っ白な部屋の真っ白な椅子に座らされていた。

 記憶がない。自分の名前も、生まれもわからない。

 ただ気がついたらそこに居た哀れな男だ。


「せっかくループを抜け出したというのに、哀れなものだ」


 博士はゆっくりとコーヒーを啜った。







 ▍▍







 プログラムが停止し、私は新たな変数を加えた。

 微小な変数だ。次も変化がないかも知れない。


「この実験には人間以上に冷徹な精神が必要」


 確かにそのとおりだ。

 シュミレーションとはいえ時空管理局の実験担当者は言うことが違う。

 しかし「哀れな男」が8月のループに囚われていた男だけだと考えたのはいかにも浅はかだった。おかげで私は気兼ねなくこのシュミレーションを繰り返すことができるのだが。


 このプログラムは、「豆のスープ実験」を行っていた時空管理局の時空に対して意図的に時空断裂を引き起こすことで孤立宇宙をつくり、ループを起こした孤立宇宙を観測するものだ。「豆のスープ時空」は闇オークションで競り落とした。


 私はこの孤立した「豆のスープ時空」を何度もループさせることで異なる観測結果が得られることを期待している。最終的には8月に囚われていた男がスープを飲まなかった宇宙を引き当てたい。引き当てて現在の時空と再接続し、彼を救い出すことが目的だ。

 私は「時空管理局の非人道的な実験。死んだ被験者」と題されたニュース記事に写っていた男の顔写真、8月に囚われていた男の顔写真に囚われてしまったのだ。

 ぜひとも彼と結婚したい。

 理由はわからないがこういうのを一目惚れと言うだろう。


 切り取られた宇宙を再接続した場合、宇宙は切り取られた宇宙を新たな変数として捉え、変数が入力された時点からシュミレーションをやり直すと一般に知られている。

 つまり、8月に囚われていた男が生き残っても、このままでは私が彼と出会う保証はない。もし彼が生き残ったら彼が新聞記事に載ることも、他の形で私の目に触れることもないかも知れないのだ。

 しかし、その事に気づいた私に抜かりはない。私は私が孤立宇宙を操作し観測を終えるだろう期間をオークションに出し、仲間に買い取ってもらった。彼らには、私が彼を救い出し、かつ彼と運命的な出会いを果たす世界を切り取って宇宙の主線に戻してもらう契約をしてあるのだ。親が金持ちで本当に良かった。


 次で15498回目のシュミレーションだ。

 今度こそ注目すべき観測結果が得られるといいのだが。

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