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「悪いね。わざわざ送ってもらっちゃって」

「いいさ。どうせ家に帰る道中だ」

 モニカの協会本部の辺りまで戻ってきて、ロベルトがそのまま宿の近くまで案内してくれると言うのでその厚意に甘えることにした。一応バルドイから宿の住所と簡単な地図が書かれたメモをもらっていたのだが、正直それだけでは心許なかったので助かった。

「ロベルトがいてくれたら安心だ。ユリーに任せておくととんでもない方へ行っちゃうことがあるから……」

 セレンはそう言ってロベルトにとても感謝していた。自分だって方向音痴の癖に。

 大通りを進んでいくと、ちょうど協会本部の前を通りがかった。思わずお腹にぐっと力が入る。しかしもう窓口が閉まっている時間なので、同業者に出くわさずに済んだ。

 しかし安堵したのも束の間、その先には云壜屋や専門の道具屋が立ち並ぶエリアが続く。ロベルトの所属するレターカンパニーをはじめ、有名店も多く軒を連ねる。この場所がホームタウンとも言えるロベルトは平気な顔をしているけれど、またあの気持ちの悪い囁き声が聞こえないかとつい耳の方に意識が向いてしまう。

 ちょうどレターカンパニーの本社を通りかかると、何やら店の前で揉めているような二人の男の姿が見えた。ロベルトが様子を見ようと近づいていくと、一方の男が僕たちに気付き、声をかけてきた。

「やあ、ロベルト。それと……隣にいるのは『でっかいゴミ箱』くんじゃないか。おいおい、そんな奴と一緒にいたら、エリートの君までゴミ臭くなるぞ」

 彼はロベルトと同じくレターカンパニーで働くラッシュという男だった。底意地の悪い笑みを浮かべながら、挑発的な口調で言う。腫れぼったい一重瞼の奥に見える黒い瞳はまるで笑っていなくて、僕に激しい嫌悪感を抱いているのがわかった。

「店の前で何をしてるんだ? 何かあったのか」

「いや、まあ大したことじゃないさ。もう店じまいだっていうのに、どうしても緊急で依頼を受けてくれって言うんだよ。僕ももう家に帰るんで、それを断っていたところ」

 後ろで崩れるように地面にへたり込んでいる人を指さして、ラッシュはやれやれと首を横に振った。よっぽどの重大な何かがあるのか、その男は困り果てた様子で茫然と空を仰いでいる。

「何とかお願いします。どうしても今日じゃなくちゃダメなんです。他のところへ行ってもみんな閉まっていて、もう当てがないんだ……」

 男は縋るような目でラッシュを見つめる。そんな彼を見て、ラッシュは何かを思いついたような顔をした。

「そうだ。いいところにいるじゃない。君だよ、君。『でっかいゴミ箱』くん。こういう客はまさにうってつけだろう?」

「おい、ラッシュ。そういう言い方は……」

 ロベルトがそんな嘲りに対して言い返そうとするのをそっと手を出して遮る。腹が立つし嫌な気分だったけれど、今ここで口喧嘩をしたって何にもならない。それよりもあそこでうなだれているあの人の話を聞いてあげるのが先だ。

 不満そうで何か言いたげではあったけれど、とりあえずここは収めてくれる気になったようで、ロベルトは黙って少しだけ後ろに下がった。僕は腕を下ろして、ラッシュの方に目を向ける。

「わかったよ。その人の依頼は僕が……」

 そう言いかけたところで、ロベルトが僕の言葉を遮った。背中を見せたまますっと僕の前に立ちふさがると、いつも以上に芝居臭い声で言う。

「仕方ないな。そのいたわしい姿の客人は僕が引き受けるとしよう。さあ、そこの人。レターカンパニーの若きホープたるこのロベルトが話を聞こうじゃないか」

「え、依頼を受けてくれるのかい?」

 ロベルトはその男に近づいて手を差し伸べる。彼はその手を取ると、目を輝かせて何度も礼を言った。

「とは言え一人では無理だから、セレンに手伝ってもらわなければいけないな。頼めるかい」

「おっけー」

 当然ロベルトにもニーナという小さなシマリスのパートナーがいるので、普段はそのニーナと仕事をしている。しかし彼女は休暇を使って森にいる友人とパーティへ出かけていた。そのためイレギュラーではあるけれど、セレンが彼に協力することになった。

 ひょいとセレンを抱え、頭の上に乗っけると、予想より重かったのか少しふらついていた。注意深くバランスを取りながら、よたよたとラッシュの横を通り過ぎる。

「待てよ、ロベルト。君は正気か? 今日はもううちの営業時間はとっくに終わっているし、何より君は休暇中じゃないか。この依頼を受けたら業務規程に違反することになるんだぞ」

「ご心配ありがとう。もし会社をクビになったなら、そのときは気負わず仲良くしてくれると嬉しいよ」

 慌てた様子のラッシュを横目に、僕たちは詳しい話をするために場所を移そうとその場を立ち去る。悔しそうに顔を歪める彼の顔を見ると、スカッとして気持ちがよかった。

「本当にありがとう……」

 僕らはすぐ近くにあった彼の家にお邪魔して話を聞くことになった。そこは奥まった路地にある小さな木造アパートの二階で、部屋は一人で住むのにも手狭なくらいの広さしかなかった。四人入るとかなり圧迫感がある。

 彼はトムと言って、この街でコックの見習いをしているらしい。歳は二十六歳で、頬についたそばかすが目立つ純朴そうな青年だ。

 依頼の内容は恋人に謝罪の意を伝える云壜を伝えて欲しいというものだった。

「この間、僕はナターシャにプロポーズをしたんだ。彼女も喜んで頷いてくれて、思わず飛び跳ねてしまうほど嬉しかった。それで、婚約記念に旅行へ行こうということになって、明日出発の予定だったんだけど……」

 彼は一度言葉を切り、がっくりと肩を落として深い溜め息を吐いた。しおれた花びらのように弱々しい顔をしていて、今にも泣き出してしまいそうだった。

「全部僕が悪いんだ。僕がふがいないから、あんな風に彼女を怒らせてしまった」

 先日仕事で皿洗いをしていたときに、彼はプロポーズのときに買った婚約指輪を排水溝に落としてしまった。必死に奥を覗いて手を突っ込んでみたものの、結局見つけることができず、寂しくなった薬指をさすりながら家に帰ることになった。

 すぐに言い出して謝れば、彼女も許してくれたかもしれないが、彼にはそれができなかった。何度も言い出そうと口を開いては、言葉が出ずに顔を逸らしてしまう。結局その晩はなるべく手を隠したまま過ごして、言えずじまいで朝を迎えた。

 このままでは埒が明かないと思った彼は、次の日仕事を休んで指輪屋に向かった。こっそり同じ指輪を新調してしまおうと考えたのだ。それが最大の悪手だったと気付いたときには、もうすべてが遅かった。

「彼女は全部気付いていたんだ。僕が指輪を失くしたことも、失くしたことを隠すために同じ指輪を買ったことも、気付いて見て見ぬふりをしていた。僕が自分から話すのを待ちながらじっと黙っていた。それなのに、僕はそんな彼女の気も知らず、嘘を吐いてしまった」

 ある日、彼女は突然雑談の隙間に質問を投げかけた。私に何か隠していることはないか、と。

 その質問は彼女にとって、彼を許すための最後の手段だった。許したいという気持ちを尊重して出した必死の恩赦だったのだ。それなのに、彼はその想いに気付かず、無意識に心を踏みにじるようなことをしてしまった。

 ないよ、と平気な顔をして言った途端、彼女は目を逸らして静かに立ち上がった。そう、とだけ小さく呟くと、そのまま部屋を出ていって、戻ってくることはなかった。

 今は二人の共通の友人であるサリーさんの家に泊まっているらしい。彼には顔すら見せようとせず、話ができたのもドア越しに一度きりだった。

「もう僕のことが信じられないと言っていた。ほんの些細なことかもしれないけれど、だからこそ許すことができないと。たぶん僕が彼女のことを信頼していなかったように感じてしまったんだと思う」

 何度も謝りに行って、二度と嘘を吐かないということを約束した。彼女を泊めている友人もひどく心配していて、なだめるようなことを言っているらしいが、彼女は憔悴した様子ながらも決して意志を曲げようとはしないそうだ。

 顔を合わせることもできないまま、あっという間に時間だけが過ぎた。彼女は明日実家に帰るのだと言う。本当なら二人で旅行へ行ってるはずが、ずいぶん皮肉なものだ。だから彼は何とか今日中に彼女と和解し、自分の元に引き留めたいとあれこれ思案して、云壜という手段に思い至ったというわけだった。

「云壜なら直接会えなくても想いを伝えることができる。嘘偽りない言葉で、隠し事もなく彼女と話すことができる。そうすればもう一度やり直すきっかけを得られるんじゃないかと思ったんだ」

 しかしそれを思いついたときにはもう夜になっていて、云壜屋はどこも開いていなかった。そこでちょうど店から出てきたラッシュに泣きついていたところ、僕たちが現れたのだった。

「なるほど。事情はよくわかった。必ずや僕が責任を持って云壜を届けると約束しよう。ただしそのあとのことはきっと君次第だ」

「うん、そうだね。何とか彼女にまた信じてもらえるようにがんばってみるよ」

 出来上がった彼の云壜はまるで純真無垢な少年を思わせる真っ白い炎が優しげに燃えている。彼が誠意を込め、心をすべてさらけ出そうとしているのがわかる。ぜひともこの光が彼らの関係を修復する手助けになればいいと思った。

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