想いは届くよ、どこまでも。

紙野 七

第一章 想う人

1-1

 煙たい埃の匂いが染み付いたアパートの小さな一室。このほんのり甘くて懐かしい、鼻先をくすぐる匂いが好きだ。

 ベッドから降りて足を床につけると、ひんやりと冷え切った木の温度がゆっくりと身体に伝わってくる。そして僕が伸びをするのと一緒に、眠っていた木の床も欠伸混じりに起き上がって、みしみしと軋む音を立てる。

 わずかに曇った窓の外を見ると、この間まで青々と茂っていた葉はすっかり秋色に染まっていた。柔らかい風に舞った落ち葉が、このルネの町に新たな季節の訪れを知らせている。どこからか聞こえてくる鳥たちの囀りも、何となく浮かれているように感じられた。

「おはよう、ユリー」

 まだ開き切らない瞼を擦りながらよたよたとリビングに入っていくと、先に起きていた同居人のセレンがテーブルについて朝食を頬張っていた。僕は欠伸を噛み締めながら、「おはよう」と挨拶をして、彼の向かいに座る。

 食卓にはすでにセレンが用意してくれたトーストと目玉焼き、それに綺麗に盛られたトマトのサラダが並べられていた。しかも僕が座ると同時に、お気に入りのマグカップに淹れた温かいコーヒーを出してくれる。もちろん角砂糖二個とミルクも忘れずに。

「僕は本当によくできた親友を持ったものだね」

 そう言って目の前に置かれた優雅な朝食をしみじみ眺めていると、彼は呆れた顔で首を横に振る。

「君にはそろそろ自立して欲しいと思っているんだけど」

「善処します」

 世話を焼いてもらいっぱなしで申し訳ないとは思いつつも、このぬるま湯から抜け出すのは至難の業だ。特にこれから冬に向けてどんどん寒くなるから、早起きして朝食を作るなんて考えられない。とりあえずまた暖かくなるまでは、彼に甘えることになりそうだ。

 ぼんやりとした頭でそんなことを考えていると、一口目のコーヒーがまだ熱くて舌をやけどした。ひりひりと痛む舌をサラダのトマトで冷やす。おかげで一気に目が覚めた。

「そういえば、昨日アリサに会ったよ。早く今月の家賃を払えってさ」

 アリサというのはこの部屋の大家のお孫さんで、年老いた大家さんの代わりに僕らの世話をしてくれている。まだ十五歳と僕より二つも年下なのに、そうは思えないほどしっかりしていた女の子で、僕らとしてもとても助かっている。しかしその分家賃の取り立ても厳密なので、月末はいつも支払いを急かしてくるのだった。

「すっかり忘れてた。困ったなあ。そろそろお客さんが来てくれないと、ここを追い出されることになりそうだ」

 冗談めかして笑うけれど、家賃滞納なんてしたらたぶん本当に追い出されてしまう。彼女はそれくらい真面目で厳しい子なのだ。

「まあ今週はまだ一人もお客さん来てないからねえ」

 そう。もう週も折り返したというのに、未だ依頼を一件も受けていない。いつもなら常連さんのちょっとした依頼くらいは来るのだが、今週はそれもないまま閑散とした日々を過ごしていた。まったりとした秋の空気を堪能できるのは嬉しいけれど、生活するためには働かなければならない。

「あら、ちょうどよかったわね。お待ちかねのお客さんが来たわよ」

 そんな風にセレンと二人で頭を抱えていると、入り口の方から僕らの会話に割り込むように声が聞こえてきた。驚いて扉の方に目を向けると、アリサが少し不機嫌そうな顔で腕を組んで立っていた。普段は大人びて見える彼女だが、頬を膨らましてこちらを見る姿はどことなく年相応のあどけなさが感じられる。

「ノックくらいしてくれればいいのに」

「何言ってるの、ちゃんとしました。全然気付かないから、まだ寝てるのかと思って入ってきたのよ」

 この家の一階はアリサの両親が経営する喫茶店『リタ』になっていて、そこが僕の店の受付代わりになっている。そのためこうしてお客さんが来ると、彼女がこの部屋まで伝えに来てくれるのだった。加えて、世話焼きな彼女は寝坊助な僕を起こしたり、この部屋の掃除をしてくれたりもするので、あらかじめ鍵を渡してある。

 ちなみにリタというのはアリサのお婆さんの名前で、愛妻家のお爺さんがそれを店の名前に使ったらしい。今はアリサの両親がそれを引き継いで、アリサもそれを手伝っている。そんなアリサ一家はとても仲のいい家族で、見ていると少し羨ましくなるくらいだった。

「というか、まだ朝ご飯を食べてるの? そんな調子じゃ、食べ終わる頃にはお昼になっちゃうわよ。お客さんには下で待ってもらってるから、早く来てよね」

 アリサはまるで早口言葉みたいにすらすらと用件を口にすると、短く切り揃えた茶色いくせ毛を躍らせながら、くるりと踵を返して足早に一階へ下りていった。おそらくお店の手伝いに戻らなくてはいけないから、僕たちと無駄話をしている暇はないのだろう。

「それじゃあ仕事をしようか」

 僕は残っていたトーストを一口で頬張って、ぬるくなったコーヒーを飲み干す。食器は一応流しに運んで水につけておいて、戻ってきてから洗うことにした。

 クローゼットから適当に着替えを見繕う。最初に手に取ったシャツはずいぶんしわくちゃだったが、戻すのも面倒なのでこれで行くことにした。脱ぎ散らかした服を拾ってくれるセレンにお礼を言いながら、シャツのボタンを一つずつ閉じていく。

 着替えを終え、机の上に置いてある仕事用の小さな鞄を持って、ようやく準備ができた。セレンの方も大丈夫そうだ。僕は彼を抱え上げ、忘れ物がないかをもう一度思い返しながら、念のためきちんと鍵を閉めて廊下に出る。

 電灯がなく薄暗い階段を下りていくと、焦げ臭くてほろ苦いコーヒー豆のいい香りが鼻先を優しく撫でる。そしてジャジーなスローバラードと食器の擦れ合う金属音、そして静かにホールを歩く軽い足音が次々聞こえてきて、階段を下り切って視界が明るくなると、そこは時間の流れが止まったような居心地のいい空間が広がっている。

「あら、ユリーくんおはよう。お客さんならあそこの方よ」

 アリサのお母さんであるサリエラが、ちょうど僕が下りてきたのを見てそう教えてくれた。僕は彼女にお礼を言って、急いでその人が待つ席に向かう。

「遅くなって申し訳ありません」

 会釈とともに待たせたことを謝罪して、彼女の前に座る。抱えていたセレンは僕の隣に座ってもらった。まずは自己紹介をしようと、顔を上げて彼女の顔を見る。しかし彼女は状況が呑み込めないといった様子で、不思議そうに僕の顔をぼんやり見つめていた。

「あの、ご依頼の方ですよね……?」

 もしや間違えたかと思い、慌てて店内を見回す。しかしさほど広くないこの店にいる客は、僕とセレン、毎朝来る常連のデルク、向かいに住んでいるキャシーおばさんと、今僕らの目の前にいる彼女だけだった。

「あら、じゃああなたが『云壜屋(ゆうびんや)』さんなの?」

 彼女は驚いた様子で僕の顔をまじまじと覗き込む。大きくて丸い瞳に見つめられると、何だか恥ずかしくなってしまい思わず目を逸らした。そんな僕に喝を入れるみたいに横からセレンの翼が突き刺さったので、咳払いとともに気を取り直して話を進めようと口を開く。

「はい。この町で云壜屋をやっているユリルと申します。こっちは相棒のセレンです」

「どうもどうも」

 とりあえず自己紹介をすると、ようやく僕を依頼相手として認識してくれた。そして緊張が解けたのか、ほんの少し肩の力を抜いて僕ににこりと笑いかける。

「あなたのお友達はペンギンさんなのね。可愛らしいわ」

 そんな風に褒められて、セレンは嬉しそうに頬を緩ませていた。彼は種類としてはオウサマペンギンに分類されるのだが、身長が九十センチと小さい子どもと同じくらいの大きさであるため、初対面では困惑する人も多い。そもそもしゃべる動物を連れて歩いているのも普通ではないわけで、こうしてすんなりと受け入れてもらえるのは珍しいことだった。

 今日のお客さんは優しそうな笑顔が染み付いたお婆さんだった。折れ曲がった背中と細かい皺の刻まれてくしゃくしゃになった手。仄かにお香のような落ち着いた香りがして、何だか遠い記憶を思い出して懐かしい気分になった。

「先ほどはごめんなさいね。事前に話を聞いてイメージしていた印象とだいぶ違ったものだから驚いてしまって……。私はシルヴィアと言います」

 サリエラがテーブルにやってきて、青い花の模様が入った可愛らしいカップが優しく机に置かれる。軽くお礼を言って会釈をすると、がんばって、と口を動かしながら優しく微笑みを返してくれた。

 僕は彼女が口にした「印象が違う」という言葉が少し気になった。そのため、具体的な依頼内容を尋ねる前に、雑談がてらどうやって僕らのことを知ったのか尋ねてみた。

 どうやら彼女は別の店からの紹介で僕のところに来たようだった。たぶん街にある最大手の『レターカンパニー』か、長い歴史を持つ名店『羊皮社』、あるいは最近流行っている『フラウア』辺りだろう。僕のところに来るお客さんはそういう人がほとんどだった。

『でっかいゴミ箱(ダンプスター)』。僕たちは彼ら同業者たちからそんなあだ名で呼ばれている。要するに、他の店では断ってしまうような訳アリなお客さんを受けているのだ。別に僕はどんな相手でも断らずに最大限力を尽くしているだけなのだけれど、いつの間にかそうやって周りからそう揶揄されるようになっていた。

 きっと彼女もあらぬ噂を色々と耳にしていたのだろう。こちらとしては営業妨害もいいところだが、個人でやっている僕たちが抗議に出たとしても結果は目に見えている。それに実際こうしてお客さんが来てくれるわけだから、あながち悪いことばかりでもない。

「どなたにどんな『云壜』を届けたいのか、詳しく教えていただけますか?」

 僕ら云壜屋はその名の通り、云壜を取り扱う仕事である。云壜というのは人の想いを詰めることができる特殊な壜で、その中に依頼人の想いを詰め、届けたい相手まで送り届けるというのが主な仕事だ。

 こうやって説明すると簡単に聞こえてしまうが、実は専門的な知識や技術が必要な難しい仕事である。誰しもなれるものではなく、特別な訓練を受けた後、厳しい試験に合格した者だけがその資格を得ることができる。

 その歴史は古く、今から四百年以上前にはすでに存在していたと言われている。現在では手紙とともに人々の交流を図るための大切な手段の一つとなっていて、云壜屋は大小含めると数えきれないほどの店が世界中に散らばっている。

 云壜は一度想いを入れて蓋をすると、正しい相手しか開けることができないようになる。また、嘘や偽りの気持ちが混じっていると蓋を閉めることができないため、そういった想いを詰めることもできない。

 だからどんな依頼であっても、まずは相手の話に耳を傾けることから始まる。それもただ聞くだけでなく、相手の人となりや境遇を把握し、依頼の内容を本人以上に理解するよう努めることが必要になってくる。その上で、依頼人が心の内に秘めた本当の想いを、送られるべき人へ届けるのが、僕らの仕事である。

 しかしいざ自分の心を曝け出すとなると、迷ったり、躊躇してしまう人が多い。実際、シルヴィアさんもどのように話そうかと迷っているのがわかった。そんな人に対しては、僕は何も言わず、黙って相手が話し始めるのを待つようにしていた。

「老人の酔狂だと思って、あまり固くならず聞いてくださるかしら」

 彼女はコーヒーに口をつけて息をついたあと、そう言って少し照れ臭そうに笑った。

「私はこの歳になって、恋をしたの。自分でも驚いたわ。あんな風にドキドキしたのは、もう何十年かぶりだった。夫はずいぶん前に先に逝ってしまって、それからはずっと一人で暮らしていたから、人恋しくなっていたのかも」

 夫には内緒ね、と言いながら、恥ずかしそうに、けれど嬉しそうに語る彼女は、まるで初めて恋心が芽生えた少女のようだった。大抵の人は自分に嘘をついたり、自分の気持ちを誤魔化したりして生きているものなのに、彼女はこんなにも自分の心に正直でいられるのは素晴らしいことだと思った。

 彼女が云壜を渡したい相手というのは、そんな恋心を抱いた相手だった。ゴルダというお爺さんで、町の老人会が主催する絵画教室で出会ったのだと言う。ゴルダさんも彼女と同じように奥さんに先立たれ、子どももいない彼は、たった一人で何年も静すぎる老後を過ごしていた。

 そんな彼の唯一の趣味が絵を描くことだった。そのため絵画教室には欠かすことなく毎回参加していたが、元来寡黙な彼は他の参加者と交流することなく、そこでもやはり孤独だったそうだ。

 シルヴィアさんはあるとき友人に誘われて、その絵画教室に参加した。その日は森で写生を行うことになっていて、参加者がそれぞれ好きな場所でキャンバスを広げる中、あまり絵を描くことに興味がなかった彼女は当てもなく森の中を散歩していた。

「あのときは驚いたわ。ふと目に入った彼の絵に見惚れてしまったの。森の中を流れる川の絵で、キャンバスの上に描かれた水は生きているようだった。絵が世界をこんな風に美しく切り取ることができるなんて知らなかった」

 そうしてゴルダさんの絵に感動した彼女から声をかけたそうだ。それから少しずつ話すようになって、気付けば二人で色んなところへ出かけていくほど仲良くなった。

「最初は彼の態度がぶっきらぼうに感じたけれど、すぐにそれは彼がただ不器用なだけだとわかったわ。そうしたら何だか彼のことが可愛らしく思えてきて、いつの間にか、私は恋をしてしまっていた」

 しかし、彼女たちにとっては、友人なのか、恋人なのか、そんな線引きは必要なかった。ただ一緒にいられる相手がいるというだけで、十分に満足していた。だから彼女は自分の想いを敢えて口にはしなかったし、本当はずっとそれを伝えるつもりはなかったらしい。おそらくお互いの暗黙の了解でもあったのだろう。

「じゃあどうして云壜屋に……?」

 ここへ来たということは、その人に自分の想いを伝えることにしたということだろう。関係性に満足していたのに、何故急にそんな決断をしたのかがわからなかった。

「ごめんなさい。ここからはあまり楽しくはない話になるわ」

 彼女は少しだけ声のトーンを落とした。心なしか、顔も暗くなったように見える。しかし僕に妙な心配をされたくないのか、それを隠そうとしているようだった。

「あの人は今眠ってしまっているの」

「それって……」

「そう。まあ私たちはこんな歳だから、いつかは覚悟していなければならないこと。でもいざその時がやってくると、どうしても心が乱されてしまうものなのね」

 二週間ほど前、ゴルダさんは家の中で一人倒れているのが発見された。元々持っていた病が悪化し、病院に運ばれた彼は今もそのまま目を覚ますことなく眠り続けている。もうそれほど長くは保たないだろうというのが医者の見解だった。

「最後に、あの人に伝えたいの。出会えたことへの喜びと、私と一緒にいてくれたことへの感謝、そして秘めるはずだったこの恋心を」

 老人のつまらない思い出話に付き合わせてしまってごめんなさいね、と彼女は優しげな笑みを見せる。しかしその瞳には微かに涙が滲んでいて、彼女の想いがどれだけの大きなものなのかが痛いほどわかった。

 彼女の話を聞いて、どうして他の店で断られてここへ来たのかがわかった。云壜はただ渡せばいいというものではない。相手がはっきりと受け取る意志を持ち、それを自らの心が受け入れる必要がある。つまり彼女から想いを受け取って云壜を作ることはできても、相手が意識のない状態であれば、それを送ることは不可能なのだ。

「ご依頼の内容はよくわかりました。僕のような若輩者でよければ、ぜひお引き受けします」

 しかし彼女の想いを聞いたのに、この依頼を断ることなどできなかった。僕は深々と頭を下げ、依頼の受領を告げる。力になれるかはわからないが、何とか彼女の想いを届けたいと思った。

「引き受けてくださるのね……。ありがとう。正直諦めかけていたところだったから、本当に嬉しいわ」

 目の端から溢れる涙を拭いながら、彼女は何度も何度もお礼を言って、僕の手をぎゅっと握った。その手は弱々しく筋張っていて、けれどとても温かい。きっと彼女が彼に送る想いも、こんな風に相手を幸せな気持ちにする温かさがあるのだろうと思った。

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