シェア彼女

AKIRA

プロローグ

 人にとっては小さなことでも自分にとってはそうではないことはたくさんある。

 特に夜の闇に紛れた時刻にそのことを考えると、それは大きな黒い風船のように膨らんで自分を包み込み、精力を吸い取り、全てが無意味に見えて全てが嫌になって全てを消したくなる気持ちに陥る。

 わかっている。それはいつものことだ。

 人の感情なんてそんな不可抗力で揺らいで振り回されている。


 井口健太郎のボールは相変わらずミットに収まる瞬間にバンと良い音を響かせるとともに手が痺れるような痛みがあった。

 俺は無言で彼へボールの投げ返すとまた伸びがあり重い球が投げ返されてくる。

「なあ。どうして野球辞めたんだよ」

 さっきより少し強めにボールを投げ返す。

「ラグビーの方がカッコ良さそうだったから」

 返答と同時にボールも返ってくる。

 健太郎とは小学校の少年野球チームで一緒になった時からの幼馴染だ。小学校、中学校と野球をして、彼はピッチャーでエースだった。結局、全国大会とかはいけるレベルにはならなかったが、彼ぐらいの実力ならば、チームが良ければ良いところまで行けるのではないかと思うくらいのレベルだった。

「で、カッコいいラグビーをして彼女でもできたのか?」

 それには少し間が空いて「いや」と答えた。夜で表情こそわからなかったが、返ってきたボールが先ほどよりも球速が上がり、外角へコントロールが外れたことから少し感情が動揺していることが推測できた。

「お前は?」

「俺? 何が?」

「お前も野球辞めたんだろ」

 そんな俺も高校では野球をしていない。それどころか、部活にも入っていない。帰宅部だ。

「俺は学校に野球部がなかったから」

「野球部がある学校に行けばよかったじゃなかいか」

 いつも健太郎の会話は直球だ。その通りだった。俺はわざと野球をしない選択をした。俺も小学校の頃から野球をしているからある程度は技術には自信がある。でも高校では野球をしていても、健太郎のようにレギュラーで活躍できる保証はなかったし、それだとモテないと思ったからだ。

「野球に飽きたんだよ」

 少し強めにボールを返す。自分にとって都合が悪かったり、自分の評価が下がりそうな時は、小さく嘘をつく癖がある。いつでも直球勝負はできない。へなちょこかもしれないけどカーブもスライダーも投げて会話をしている。

 夜のキャッチボールは好きだ。高校生になり学校が違くなったが、週に一、二度他愛もない話をしながら行うと気が紛れてリラックスできる。健太郎は高校生活がどういうものか語らないが、俺にとっては思った以上に憂鬱で抑制されていることが多い。毎日が辛いわけではないが、楽しいわけでもない。

「彼女、ほしいな」

 ふと、健太郎がつぶやく。俺はそれに対して頷きたかったが、そこでそういう態度を示すとモテないことがバレると思い、無言を貫いた。

「好きなやつとかいないの?」

 その言葉に、あるクラスメイトの姿が思い浮かんで動揺したのがわかった。

「い、いねえよ」

 明らかに声が上ずった。嘘だと気づかれたと思ったが、彼からはそうかという返答しか返ってこなかった。

「お前はいるの」

「いない」

 やり返したように同じ質問を投げかける。それに対して、彼は臆する様子はなかった。本当にいないのだろうと思った。健太郎のようにいつも考えていることをはっきり言う人間は付き合っていて楽だと思った。それに比べ俺は少し面倒な人間なのかもしれない。

一時間くらい会話を交わしながらのキャッチボールは、夜も深まりそろそろ帰ろうかと二人で言っていた時だった。

 公園のベンチにセミロングヘアの女性が座っていた。暗くてわからなかったが、俺の学校の制服を着ていることがわかり、一瞬誰か気になり目を凝らす。すると、彼女が右手にバタフライナイフのようなものを自身の首に向けている様な姿が見えてくる。

「おい、井口。あれ」

「あ、、、」

「だよな? ヤバいよな?」

 ゆっくりと俺たちは彼女に近づく。

「あ、あの。。。あ!」

 俺は思わず声を大きくした。

「内藤、、、さん」

「知り合いなのか?」

「あ、うん」

 その声に内藤莉英が向けていたナイフを下してこちらを向く。

「えっと、その、同じクラスメイトの中川、、、です」

 なぜか敬語になってしまう。三人はジッと見つめ合いながら沈黙する。

「何していたの」

「見ればわかるでしょ?」

 不意に井口の問いかけに彼女はすぐさま答える。

「いや、わからない」

「そう」

 そしてまた自分の首にナイフを向ける。

「あの、ちょっと。。。」

 俺は完全に動揺していた。それが異常な光景を目の当たりにしていたのもあるが、それ以外にもこんなところで彼女と出会ったことにも動揺していた。

「何? 自殺しようとしているの?」

「おい。井口!!」

 井口を睨みつける。別に、心理学を勉強しているわけではなかったが、こういう場合、慎重に言葉を選ばないといけないのではないのか。

「勿体ないね。そんなに可愛いのに。死ぬなんて」

 井口が突拍子もない子を言う。俺はもう何をすればいいかわからず立ちつくしかなかった。さらに彼は続ける。

「自分で死ぬってことはさ、その自分の身体、どうなってもいいということだよね?」

 彼女は答えない。刃先が首の皮に触れている。

「死ぬくらいなら俺と、いや、俺たちの彼女になってくれないか?」

 はあ? 井口が一瞬何を言っているかわからなかった。しかし、この言葉がなければ、内藤莉英を教室の席で遠くからただボンヤリと片思いをする男に終わっていたことは間違えなかった。

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