第105話 他言無用の強制

 片岡が、俺の視界から突然、消えた。


 次の瞬間。


「うぐっ!」


 俺の肺が盛大に悲鳴を上げ始めたんだ。


 両腕に抱える藍麗ランリーちゃんは、まるで鉛で出来た人形ドールのように重く感じられ。

 足取りは深い泥濘でいねいの中を歩むがごとく、遅々として進まなくなって行く。


「ついに、俺にも来たかっ!」


 血反吐ちへどを吐き、体中の穴と言う穴から血を噴き出しながら崩れ落ちて行く。

 そんなおぞましい光景が、頭の中でリフレインする。 


 こっ、ここまでか……。


 やがて俺は自分の意思に反し、完全にその歩みを止めてしまう事に。


「はぁ、はぁ……っはぁ……はぁ……」


 息が……苦しい……呼吸が……乱れる……だけど……。


 自分ではどうしようもない焦燥しょうそうと、生への執着しゅうちゃく錯綜さくそうする中、すべも分からず、ただひたすらに深呼吸を繰り返すたび、あの忌まわしい息苦しさが徐々に薄れて行くのが分かった。


「はぁ、はぁ……ふぅ……ふぅぅ……」


 どうやら俺には、もう少しだけ時間が残されていたらしい。

 その証拠に、俺の体はいまだその形を保ったままだ。

 神の気まぐれか、それとも悪魔の誘いか……。


加茂坂かもさか様……」


 藍麗ランリーちゃんのか細い声に乗せて、少女の気遣いが俺へと伝わって来る。

 俺は回廊の脇へ藍麗ランリーちゃんを下ろすと、今来た道をゆっくりと振り返った。


 片岡が逝ったって事は、俺ももうすぐだな。


 しかし……なんだかなぁ。

 こんな年寄りジジイよりも、若いヤツが先に逝くなんてよぉ。


 目の前で同僚と呼べる相手に死なれたのは、これで二回目だ。

 もう二度とごめんだ……って思ってたんだが。

 神様ってヤツぁ、本当に阿漕あこぎなマネをしやがるぜぇ。


 今でこそ教団幹部として働いちゃあいるが。

 基本的に、俺は無神論者だ。

 神も仏も信じちゃいねぇ。


 だが、こう言う時だけは、神様の存在ってぇヤツを信じたい……と、思わずにはいられねぇやなぁ。だってよぉ……。


「かあぁぁぁぁっ……ペッ!」


 俺は磨き上げられた回廊の支柱へと、おもいきりつばを吐きかけてみせる。


 実際、神様に居てもらわなきゃあよぉ。

 俺が悪態あくたいをつく相手が、いなくなっちまうからなぁ。


「マジで死んじまえっ。神様のクソ野郎がっ!」 


 そんな俺の禍々まがまがしいつぶやきに、背後から藍麗ランリーちゃんの身動みじろぐ様子が伝わってくる。


 あぁ、敬虔けいけんな信徒の前で言う言葉じゃあ無かったな。


 と、反省してはみるけれど。

 その反省を活かす時間は、残念ながらもう残されてはいない。


 そんな俺は重い足取りで、片岡が崩れ落ちた場所へと舞い戻って行く事にしたんだ。


 なぜそんな事をしようと思ったのか? って?

 実は俺にも良くはわかってねぇんだよな。

 ただ、俺の中にいる誰かが、とにかく片岡のいた場所へと戻るべきだ! って主張してやまなかったって話さ。

 ソイツが良心ってヤツなのか、それとも後悔ってヤツなのかは知らねぇがな。


 でもなぁ……片岡ぁ。

 ホント、悪かったな。

 こんな事に巻き込んじまってよぉ。


 今まで俺ぁ数々の現場で死体を見て来た。

 刺殺体や水死体。

 いったいどれだけの仏さんをおがんで来たのかもわからねぇほどだ。

 でも良く考えてみりゃあ、たった一人を除いて、その他全員が他人様たにんさまだったんだよなぁ。

 しょせん俺にとっては、他人事ひとごとでしか無かったって訳だ。


 だが、お前は違う。そうじゃない。

 そうじゃ……ない。


 そう思えば、思うだけ。

 俺の足取りは重く、億劫おっくうになって行く。


 一歩、また一歩。


 片岡が倒れた場所へと近付いて行く。

 やがて、回廊の脇に横たわる片岡の姿が見えて来た。


 片岡ぁ。

 確かお前ぇ、自分でも寂しがり屋だって言ってたよな?

 せめて同僚として、一緒に逝ってやるからな。

 道中の話し相手ぐらいにはなるだろうさ。

 こんなアラフォーのおっさんと連れ立ってあの世へ行くってぇのは、お前にとっちゃ不本意かもしれねぇが。

 まぁ、勘弁してくれや。


 片岡のすぐ横では紅麗ホンリーちゃんが、溢れんばかりの涙をたたえたまま茫然ぼうぜんと立ち尽くしている。


 まだ幼女から少女になりかけの紅麗ホンリーちゃんにとっては、かなりキツイ経験になった事だろう。

 せめてトラウマにならないよう、何か言葉を掛けてやるのが大人の役目ってヤツか。

 そう思い定めた俺は、そっと紅麗ホンリーちゃんの肩へと手を置いた。

 

「なぁ、紅麗ホンリーちゃんよぉ……」


「……」


 しかし彼女は、俺の事など気にも留めず、なにやらブツブツとつぶやき続けているようだ。

 そんな彼女の小さな声に、そっと耳を傾けてみれば。


「ホント、片岡さんは使えませんわっ! なぜこんな所で倒れましたのっ! わたくしひざをすりむいてしまいましのよっ! ホント、不肖ふしょうの弟子とはこの事ですわっ! もぉ! 片岡さんッ! 早く起きなさいっ! 片岡さんッ!」


 何気に罵詈雑言ばりぞうごんを浴びせかけつつ、うつ伏せとなっている片岡の脇腹を何度もなんども、執拗しつように蹴り続ける紅麗ホンリーちゃん。


 いまさらそんな事をしたって、片岡が目覚める訳もないのに。


 逆に、幼子おさなごの死者に対する我儘わがまま放題が、理不尽であればあるほど、俺の胸の奥に去来する悲しさや寂しさが否が応でも膨らんで行く訳で……。


 とは言え、死者に対する礼儀って言うものもあるからな。


 俺は紅麗ホンリーちゃんの肩へと置いた手に、もう少しだけ力を込めてみる。


紅麗ホンリーちゃん、もうそのぐらいで……。」


「片岡さん! 起きなさいっ! 片岡さんッ!!」


「だから紅麗ホンリーちゃん。もう勘弁してやってくれよ。片岡だって紅麗ホンリーちゃんを何とか守ろうと、ここまで頑張って走って来た訳なんだからさ……」


「その様な事、関係ございませんっ! いくら加茂坂かもさか様のお言葉でも、こればかりはっ! こればかりは許せませんわっ! 片岡さんっ! いつまで寝たふりをしていますのっ! 本当にもぉ! 早くっ! 早く起きなさいっ!」


 何度も何度も。

 涙をこらえながら罵倒ばとうし続ける紅麗ホンリーちゃん。

 そんな彼女を見ていると、どうしようもなく俺まで目頭が熱くなって来た。


 かぁぁ……やべぇ。

 今にも泣きそうだ。

 四十過ぎのおっさんが、ここで泣く訳には行かねぇぞ。

 なにしろ、紅麗ホンリーちゃんだって、ここまで泣かねぇように強がってんだからな。

 そんな健気な幼女のすぐ横で、良い歳したおっさんが泣ける訳ねぇだろ?


 などと言う無謀な誓いも束の間の事。

 俺の涙腺は秒で崩壊してしまう結果となる。


 頬を伝う熱い涙。

 この懐かしくも新鮮な感覚は、一体何年ぶりだろうか?


 くっそぉ。格好悪ぃなぁ。

 仕方がねぇ。

 片岡には悪ぃが、残された俺の時間は紅麗ホンリーちゃんの為に使わせてもらうとするか。とりあえず、片岡には逝った先で謝れば済む話だ。


 そうと心に決めた俺は、依然片岡の横っ腹を蹴り続けている紅麗ホンリーちゃんと歩調を合わせる事にしたのさ。


 とは言え。

 流石に俺が紅麗ホンリーちゃんみたいに、片岡の横っ腹を足蹴あしげにする訳には行かんからな。

 まぁ、横乳よこちちをプニプニするぐらいなら、片岡仏さんもさほど怒りゃしねぇだろう。


 そうと決まれば話は早い。

 早速俺は紅麗ホンリーちゃんに合わせる形で、片岡に対して罵詈雑言を浴びせかけつつ、更には両手を挙げて倒れ込んでいる片岡のわきの下あたりから、少しだけはみ出している横乳よこちちをプニプニと押してみる事に。


 ――プニプニ……プニプニ


 正直な話、体液がしぼり取られた体ってぇのが、一体どうなっているのか? って言う、学術的興味があったのも事実だ。

 とは言え、それが仮に分かったとしても、もうすぐ俺もおっ死んじまう訳だから、どうしようも無ぇっちゃ、どうしようも無ぇんだけどな。


 ――プニプニ……プニプニ


「うぅん?」


 ――プニプニ……プニプニ


「うぅぅぅん?」


 学術的考察に思いをせつつ、何度もプニプニを繰り返してみるのだが、俺が想像していたのと、なんか違うような気がしないでもないような……。


 ――プニプニ……プゥニ、プニ?


「うぅぅむ。コイツ、体液を吸い取られた『搾りカス』のくせに、結構、弾力が残ってるもんだなぁ。元々がぽっちゃりなヤツだとこうなるのかぁ?」


 と、思わず俺が口走った所で。


「誰がぽっちゃりやねん!」


「……!?」


「って言うか、誰が搾りカスやねんてっ!」


 などと、どうでも良いツッコミを口にしながら、当の片岡本人がモゾモゾと起き上がって来たではないか。


「か、片岡っ、お前ッ!」


 ゆっくりと俺の事を見上げる片岡の顔は、いつもと同じ全くの無表情だ。

 しかし、よくよく見てみれば、口角が三ミリほど上がっているのが見てとれる。

 これは、完全に笑っている証拠ではないか。

 場合によっては、爆笑レベルと言っても過言では無いだろう。


 なんだよコイツっ! 無事だったのかっ!?

 って言うか、なんか釈然しゃくぜんとしねぇなぁ。

 なんか無性に腹立つわぁコイツっ!


「驚きました? 加茂坂かもさかさん」


「あぁ、確かに驚いたな。特に……お前の大阪弁の下手さ加減にな」


「ソコ!? 驚きポイントはソコっスかっ!」


「って言うか、お前、関西生まれだっけ?」


「いいえ。生まれも育ちも茨木です」


「じゃあなんで大阪弁でツッコむんだよっ!」

 

「いやぁ。美容院に置いてあった週刊誌に、方言女子は男ウケするって書いてあったものですから」


 それって、一体どこの美容院だよ!

 っていうか、その美容院の雑誌、ちょっと記事の内容が偏ってねぇか?


「錦糸町にある美容院ですよ?」


「え!? お前っ、俺の心が読めんの?」 


 まるで俺の心を見透かした様な回答に、思わず身構えてしまう。


「当然じゃありませんか。加茂坂かもさかさんの顔に、俺もその美容院に行きたいな? って書いてありましたよ。私がご案内致しますので、どうです? 来週の日曜ぐらいで予約入れましょうか?」


「いや……良いわ」


 うぅぅむ。

 微妙に食い違ってる所を見ると、別に俺の心が読まれた訳じゃ無さそうだな。

 まぁ、この件は放っておくか。

 それより、片岡が無事ってどう言う事だ!?


「それについては、私からご説明いたしましょう」


 頃合いをはかったように、会話に割って入って来たのは、紅麗ホンリーちゃんだ。


「おぉ! 紅麗ホンリーちゃん、キミも俺の心が読めるのか!?」


 どっちかって言うと、紅麗ホンリーちゃんはホンマモンのエルフだからな。

 本当に人の心が読めたとしても全く不思議じゃない。


「もちろんでございます。今まさに加茂坂かもさか様が疑問に思われた通り、どうして私がひざ小僧をすりむいたのか? その経緯についてご説明させていただきますわ」


「うん。いや……それも良いわ」


 あぁぁ……。

 残念だけど、紅麗ホンリーちゃんもちょっとズレてるな。

 もう大丈夫、もうお腹いっぱいだから。


 などと、紅麗ホンリー、片岡の師弟二人が、救いようも無いド天然である事をじっくりと堪能たんのうしていた矢先。

 先程、回廊の脇に下ろして来た藍麗ランリーちゃんがようやく合流して来た。


「皆さま、ご無事な様子でなにより」


 そう言いながら、おっとりと微笑む藍麗ランリーちゃん。


「いいえ、お姉様。私、片岡さんの所為で、膝小僧をすりむいてしまいましたのよ。本当にもぉ! 私、あまりの痛さに、泣いてしまいそうでしたものっ!」


 なんだよぉ。

 紅麗ホンリーちゃんたら、死んじまった片岡の為に泣いてた訳じゃなくって、マジですりむいた膝小僧が痛かっただけだったのか。かぁぁ。もらい泣きしなくて良かったぁ。


 紅麗ホンリーちゃんは着ていたトゥニカの裾を少しめくりながら、傷口を藍麗ランリーちゃんに見せ始めている。


「あらあら。紅麗ホンリーは本当に泣き虫ですね」


 藍麗ランリーちゃんは双子の姉妹と言うより、まるで保護者のような態度で紅麗ホンリーちゃんの前で腰を屈めると、そっと彼女の膝小僧の上をなでてみせた。

 すると、彼女の指の隙間すきまからは微かな光が漏れ出たかと思うと、ついさっきまであった膝小僧の擦り傷が、綺麗さっぱり無くなっているではないか。


「はい、いかがです? 紅麗ホンリー


「お姉様、ありがとうございます。痛みは完全になくなりました」


 気付けば、ほっこりとした笑顔を浮かべあう姉と妹。

 そんな二人に、俺は思わず声を荒げて問いかける。


「ちょちょちょっ、ちょっと待ってくれ。このエリアは魔法が使えないんじゃ無かったのか? って事は、もしかして藍麗ランリーちゃんは蓮爾 れんじ様並みの魔力量があるって事なのか?!」


 そんな俺の慌てた顔を、不思議そうに眺める姉妹二人。

 やがて、姉の藍麗ランリーちゃんが四十過ぎの俺に対してまで慈愛じあいに満ちた笑顔を浮かべながら、静かに話し始めてくれたんだ。


「いいえ、もちろんそんな事はございません。私たち姉妹の主である蓮爾 れんじ様は大変優れた御方です。私たち二人は蓮爾 れんじ様の足元にも及ばないでしょう」


「それじゃあ一体これは?」


「はい。蓮爾 れんじ様には及ぶべくもありませんが、私たち二人にはそれぞれ特別な力がございます。本来であればお話しすべき事ではないのですが、先程より私たち姉妹を己が身をもって助けようとして下さった加茂坂かもさか様でございますし、更にこの後、蓮爾 れんじ様をお助けするためには、私たちの力の事をご理解いただいた方が良いかと存じます。どうでしょう。紅麗ホンリーも、それで良いですね?」


 そう問いかけられた紅麗ホンリーちゃんは、藍麗ランリーちゃんに向かって静かに頷き返す。

 そんな妹の様子を満足そうに見ていた姉が一変、表情を硬くして俺の方へと向き直った。


「ただし、この事については、他言無用にてお願い致します。もし私たち姉妹の噂が他所より漏れ聞こえて来た場合、もしくは我が主が加茂坂かもさか様を敵であると判断された場合には、たとえ司教様と言えど、冥府への扉プロピュライアを通っていただく事になりますので。ゆめゆめ、お忘れなきように」


 ――ゴクリ……


 俺と片岡は固唾かたずを飲み込みつつも、互いに目配せしながら、大きく頷いて見せる事しか出来なかったんだ。

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