第64話 当然の報いを

 第一印象は……そうだな。


 部屋。


 ……かな。


 いや、正確に言えば何も無い訳じゃない。

 オフホワイトに統一された部屋の壁には田園風景が描かれた大きな油絵が飾られているし、部屋の突き当りには小さな祭壇さいだんまでが用意されている。


 そして部屋の中央。

 そこには……。


 もう一度言うよ。

 物が無い訳じゃないんだ。

 何て言えば良いのかな……。

 この部屋には『想い』が……『人の想い』が全く感じられないのさ。

 まるで…空虚くうきょ。そう、空虚くうきょという言葉がとてもしっくり来る場所なんだ。


武史たけしお兄ちゃん、ほら見て、眠っているみたいでしょ」


 実妹の小さな手により、お顔伏かおふせの白い布が静かに持ち上げられる。

 そこから現れたのは、いつもと変わらないアイツの顔。

 何しろ、昨日お見舞いに来たばかりだからな。

 どちらかと言えば、昨日より血色が良い様にさえ感じられる。


 これが……死化粧しにげしょうってヤツか。


 ウチは父親と母親、そして僕の三人家族。

 生まれてこのかた、祖父母や親戚と言うものに会った事が無い。

 父さんの話では親族は遠く他県に住んでいて、今では全く交流が無いそうだ。

 そんな家庭環境もあってか、知人の死と言うものを間近で見た事も実感した事も無い。


 いやいや、そんな事は無いぞ。

 つい何日か前、殺しているじゃないか!


 でも……。

 でも、聞いてくれ。

 言い訳にしかならないけれど。

 あの時は本当に無我夢中むがむちゅうで。

 しかも僕は魔獣の体と意識が同期シンクロしていたから……。

 だから人を喰う事……それ自体、悪い事だって自覚が無かったのさ。

 本当さ、本当なんだ。信じてくれよっ!


 ははは。

 僕は一体誰と話をしてるんだろう?


 クロは……。

 多分、僕の思念こえは聞こえているはず。

 でも、クロは何も言わない。言おうともしない。

 だってこれは全て僕自身。

 そう、僕だけの問題なのだから。


「うぅ……うぅぅぅ……」


 今にもあふれ出しそうになる激情を必死にこらえ、小さな声でむせび泣く少女。


「あっ……あの……」


 そんな彼女に声を掛けようとして、僕は口元まで出かかった言葉をすぐに飲み込んでしまう。


 恐らく。

 良心の呵責かしゃくさいなまれ、身も心も既にボロボロな状態に違いない。

 そんな彼女に掛ける言葉なんて、無知蒙昧むちもうまいな僕には想像する事すら出来やしない。


 ――スゥ……


 その時、背後で扉の開く気配が。


「あぁ犾守いずもり君。来てくれてたのね。ありがとう」


 かなり憔悴しょうすいしきった様子の飯田のお母さん。

 それはそうだろう。

 自慢の……そして、期待の息子がこんなむごい事になるなんて。


「い、いいえ。おばさんこそ大丈夫ですか? 少し休まれた方が……」


「あぁ……うん、そうね。でも病院の霊安室れいあんしつにはあまり長く遺体を安置しておけないそうだから、急いで葬儀屋さんを決めないと……ね」


 無理やり浮かべた作り笑い。

 その悲痛な様子たるや……。


「……くっ」


 僕は自身の胸元を強く握りしめる事で、何とか平静を装おうとする。


あかね。ちょっとお母さんと一緒に来てくれないかしら。葬儀屋さんと決めなきゃいけない事が色々あってね。できればあかねにもちゃんと聞いておいて欲しいの」


「う、うん」


 おばさんからの問いかけに、小さくうなずき返す少女。

 その両目は赤く染まり、未だ枯れる事を知らぬ涙は頬を伝い行くばかり。


「あぁ、犾守いずもり君はここに居てくれても良いのよ。まだ運び出すまで時間が掛かりそうだし。逆に申し訳無いけど、私達のいない間、正義まさよしの話し相手になってあげて欲しいの。……お願いね、お願い」


 おばさんはそれだけを言い残すと、あかねちゃんを連れて、部屋を出て行ってしまったんだ。


 急に静まり返る室内。

 僕はしばらくの間、その場で茫然ぼうぜんと立ち尽くした後。

 おもむろに飯田のむくろへと向き直ったのさ。


「なぁ、飯田ぁ。……飯田ぁ。どうして……、どうしてこんな事に……」


 ……


「そうだよな。僕の……僕の所為せいだよな。僕が、僕があんなヤツらと関わらなければ、そして、一年前、お前と友達になんかならなければ……。全部、全部僕の所為せいだ。僕の所為せいなんだよ……くっ……」


 ……


 分かってる。

 飯田はきっとこんな時でも、僕の事を励まそうとするんだろう。

 そういうヤツなんだよ。飯田ってヤツは。

 意外と頑固で、冗談が好きで、そして人一倍正義感が強くて。

 まぁ、名前が正義まさよしって言うぐらいだからな。

 正義感が強くて当たり前か。


 だけど、一体どうやったらそんな良いヤツになれるんだよ。

 なぁ、教えてくれよ。

 僕なんて、いつも自分の事しか考えて無くて、他人の事なんてどうでも良くて。

 根暗でヲタクで気分屋で、それに運動神経も無くってさぁ……それで、それで。


 なのに、どうして僕が生き残って、お前が先にくんだよっ!

 どう言う事だよっ!

 神様ってヤツぁ、全然お構いなしかよっ!

 絶対に、絶対にお前より、僕の方が先に死ぬべきだったのにぃぃっ!


 この期に及んで、なぜか大粒の涙が止めどなくあふれ出して来る。


「くうっ!……Change!!」


 ――バシュゥゥ!!


 僕の叫び声とともに、部屋の中に充満する白い蒸気。

 やがて、その蒸気の中から現れたのは。


「飯田ぁ、知ってるぞぉ。僕は知ってるんだからなぁ! 何しろお前の記憶を見たからなぁ。へへへ、お前時々、あかねちゃんのファッション雑誌読んでただろ? でさぁ、その中の水着特集、結構食い入る様に見てたよなぁ。知ってるんだぞぉ。それで……それで、その時見てたお気に入りのモデルさんって、読者モデルの如月きさらぎさんだったよなぁ! ホント、お前マジヤバいぞぉ、あんなに見つめてたら、雑誌に穴が開くっちゅーの! あははは。でも喜べ、泣いて喜べよ! ほら見ろ、お前の目の前に誰が居ると思う? そうだよ、お前が雑誌を穴が開くほど眺めてた、読モの如月きさらぎ綾香あやかだぞぉ! すげぇだろ? なぁ、ホントスゲェだろぉ! 何だよぉ、驚いてるのか? そりゃ驚くよな、どっからどう見ても如月きさらぎ綾香あやか本人だもんなぁ!」


 僕は薄い布団の下からアイツの右手を引っ張り出すと、自分の胸へと強く押し付けたんだ。


「飯田っ! 見ろっ! 見ろって! オッパイだぞ、如月きさらぎ綾香あやかのマジモンのオッパイだぞぉ! 凄ぇだろ!? なぁ、メチャメチャスゲェだろぉ! お前が夢に描いてた、あの如月きさらぎ綾香あやかのマジモンのオッパイが、今お前の手の中にあるんだっ! どうだ? どうだ? こんなにスゲェ事なんてねぇだろぉ! なんだよぉ! だんまりかよ。お前、この後に及んで、だんまり決め込むのかよぉ! かぁぁ! これだから童貞野郎は使えねぇぜ! ホント、妹以外じゃ、マジモンのオッパイなんて、見た事ももんんだ事無ぇんだろぉからなっ! そんな事ぐらい分かってるよっ! 僕を誰だと思ってるんだよ、お前の親友、犾守いずもり様だぞおっ!」


 ――グスッ、ズビッ!


 涙と言わず、鼻水と言わず。

 顔面の穴と言う穴から滝の様に悲しみがあふれ出して来やがる。


「分かった、もう何も言うな、あぁ、言わなくて良い。ホント、これが最後、これが最後だからなっ! もうお前だから、親友のお前だから最後に出血大サービスだ。本当は土下座でもしなけりゃ、絶対にヤラせねぇんだけどさぁ。仕方がねぇよなぁ。そんな顔で頼まれちゃあさ、ヤラない訳にゃ行かねぇだろぉ、ホント飯田ぁ、僕が親友で良かったなぁ! なぁ、飯田よぉ!」


 死後硬直により少し動き辛くなったヤツの右腕。

 それを今度は服のすそから直接地肌へ。


「うひょぉ! 何だよ飯田ぁ、手が冷てぇじゃねぇかよぉ! なんだ、なんだぁ。女子のオッパイを初めて生で触って、緊張してるのかぁ! ホントにもぉ、これだから童貞はイヤんなっちゃうよなぁ。もぉガチガチじゃん。もう、ガチガチに緊張してんじゃん。そんな事だから、童貞は女子から嫌われるっつーんだだよぉ。もっとさぁ、もっと優しく、優しぃぃくまないと駄目なのっ! いくら初めてだからって、あんまりぎゅーって握っちゃ駄目だぞぉ! なぁ、飯田。なぁ、飯田ぁ! 聞いてんのか飯田ぁ! 何とか言えよぉ! お前の念願だった如月きさらぎの生オッパイだぞぉ! なぁ! お前、黙ってないで、何とか言ったらどうなんだよぉ!!」


 僕はピクリとも動かぬ飯田の右腕を胸に抱き、ただひたすらに強く、強く抱きしめるだけで……。


 もしかしたら、それで生き返るんじゃないかなって。

 いや。絶対にそんな事ある訳無いって。

 そのぐらいの事、僕にだって分かってる訳で。

 でも、もしかしたら一ミリでもその可能性があればって思えて。

 ホント、そう思えて来て……。


「なあぁ! 飯田ぁ、こんなもんじゃ足りねぇんだよぉ! お前から受けた恩は、こんなモンじゃあ、返しきれねぇんだよっ! そうだよ! 僕はお前から受けた恩をまだ全然返してないんだぞ。お前には何も、なんにも恩返し出来て無いんだぞおっ! 僕は借りっぱなしか!? そしてお前は勝ち逃げかぁ!? そんなんで良いのか? 嫌だっ! 僕はそんなの絶対にイヤなんだっ! 我儘わがままで、自己中で、人一倍セコい僕だけど、人から借りっぱなしって言うのだけは絶対に嫌なんだよおっ! 絶対に、ゼッタイに。絶対にイヤなんだよぉ! うおぉぉぉ!」


 僕の懇願こんがんする様な『声』が『叫び』となり、やがて『雄叫び』に変わり始めた頃。


「……タケシ」


「……え?」


 声のした方へ顔を向けると、そこには人型となったクロの姿が。


「タケシ……もう良い。そのぐらいにしておけ」


「でも……でもぉ……」


「それ以上自分の事を責めるな。お前は今、親友の死をいたんでいるのではなく、自分の不甲斐なさを理由に、自分自身を痛めつけているに過ぎない」


「うっ……うぅぅぅぅ……」


 一時は枯れ果てたかとも思った涙が、再び僕の頬を濡らし始める。

 僕は涙でぐちゃぐちゃになった顔をクロの胸へと強く押し付け、ただひたすらに泣いて、泣いて、泣いて……。

 クロは何も言わず、そんな僕の事を静かに抱きしめてくれたんだ。


 やがて、クロは僕の耳元でそっとささやいてくれたのさ。

 思念では無く、彼女の。

 そう、彼女の本当の声で。


「お前がお前自身を傷つけたとしても、友は決して喜びはしないだろう。戦士たるもの恥辱ちじょくすすぐは涙にあらず。タケシ、お前のかたきとは……一体誰だ?」


「僕の……かたき?」


「あぁ、そうだ。お前のかたき、お前の親友の命を奪った憎き相手とは、一体誰なんだ?」


「それ……は……」


「お前は大いなる『力』を持っている。そしてお前のその憎しみをぶつけるかたきも分かっている。いったいそれの何処に悲しむべき要素があると言うんだ?」


「く、クロが言いたいのは、要するに報復しろって事だろ? だけどクロ……。アイツにも家族が……いくらかたきだからと言ったって、その縁者は必ずいるんだ。今度はその人達にまで、僕の様な悲しみを背負わせる事になるんだぞぉ!」


「ふふっ、笑止っ! 因果応報いんがおうほう、憎しみの連鎖は断ち切り難い。だからこそ復讐はすべきでは無いと言う者も居る。確かに居る。しかし、もしそんな事を言うヤツが居たとすれば、その者に聞いてみるが良い、お前の愛する者が害された時、お前は笑ってそれを許す事が出来るのか? と。愛していれば、そう、本当に愛していたとするならば、絶対にその怒りと憎しみは消えぬ。未来永劫消し去る事など到底出来ぬ話だ! その憎しみや怒りは親から子、更には子から孫へと受け継がれ、雪辱せつじょくが果たされるその日まで、永遠に残り続ける事となるだろう」


「でも……クロ」


「安心しろ。憎しみの連鎖を断ち切る方法が一つだけある」


「え? ……それって」


「簡単な話だ。一族郎党、皆殺しにすれば良い。なに、気にする事は無い。強者繁栄のことわりは自然の摂理せつりだ」


「クロ……」


「良く考えろ、タケシ。いや、考えるのでは無いな。感じるんだ。お前の中の憤怒ふんどを、暴力ぼうりょくを、そして野性やせいを。お前は私の『力』を受け入れ、私と同化したその時から、魔獣としての意識をその身の中に取り込み始めているはず……。さぁ、思い出せ、お前の中に封じ込められている本当の力、本能の力を思い出すが良いっ!」


 クロの発する言葉ひとつ一つが乾ききった僕の心へと、徐々に……しかも確実にみ込んで行くのが分かる。


「タケシ! ヤツを……佐竹を殺せ! ヤツの仲間を殺せ! その親兄弟も、一族郎党、全てを根絶やしにしろ! そして、お前に対しこのむごい仕打ちをする『神』をも恨み憎むのだっ! 『神』にむくいを! 当然のむくいをっ! 今こそ己の運命を、邪悪な『神族』たちの手から取り戻すのだっ!!」


「くうっ……!」


 ――ドクドクドクッ! ドクッ! ドクン……ドクン……トクン……


 ついさっきまで。

 あれほど取り乱していた僕の心。

 それが今はどうだ?

 まるで清水をたたえた山間の湖の如く。

 荒波は消え失せ、心の水面みなもは鏡面のごとくなめらかに落ち着いて来て。


 そうさ。むくいを……。

 ヤツには、相応のむくいが必要だ。

 から大切なを奪った。

 そんなヤツには、当然のごとく『罰』が必要さ。

 そう、それが摂理せつり。自然の摂理せつりと言うものなんだっ!


「……Change」


 ――バシュゥゥ!! 


 再び部屋の中に立ち込める白い蒸気。


 そんな蒸気の中から現れた僕の右手には、いつの間にか携帯電話が握られていて。


 ――プルルルル プルルルル


「あぁ、車崎くるまざきさんですか? すみません。犾守いずもりです。犾守いずもり武史たけしです。お世話になっております。……はい、えぇ。……はい。はい。そうです。それで、今朝ほどお願いしていた例の件ですが……あぁはい。ありがとうございます。……はい。あぁ、いいえ。ICUではなく、既に霊安室れいあんしつの方に入ってまして。えぇ、はい。そうです。霊安室れいあんしつです。……はい。分かりました。はい、ありがとうございます。車崎くるまざきさんにはいつもお世話になってばかりで……はい。承知しました。お手数をお掛けしますが、何卒宜しくお願い致します。はい、はい。それでは失礼致します」


 ――ピッ!


「……クロ」


「ん? どうした、タケシ?」


 気付けばクロは一糸まとわぬ姿のまま僕の左腕にしな垂れかかっており、しかも彼女の琥珀色アンバー双眸そうぼうは、何やら期待に満ち溢れているかの様に妖しくかがやいていて。


「今朝話した件、実行に移すから。それからクロ。人の姿になる時は服を着ろ。そうでなければ、ネコの姿に戻っておいてくれ。まずはおばさんに事情を説明に行くから」


「あぁ、分かった。自分の足で歩くのは物憂ものういからな。それではネコの姿に戻るとしよう。それからなぁ、タケシ……」


「なんだ? クロ。まだ何か言いたい事があるのか?」


「あぁ、いや。別に大した事では無いのだがな。今のお前の顔……良い戦士の顔になっておるぞ。うむ。久しぶりに猛々たけだけしいオスの顔を見た。どうだ? 少し時間をくれれば、私がお前のを静めてやっても良いのだが……?」


 クロは早速僕の左手を自分の股間へいざなうと、今度はその長い舌で僕の首筋を舐め上げて来る。


「いや、今はいい。それよりも時間が無い。すぐに行くぞ」


「あはっ、連れないのぉ……。たぎっておったのはお前ではなく、私の方であったか。仕方あるまい、夜まで待つとしよう。……ふふっ」


 ――バシュゥゥゥゥ


 クロは再びネコの姿へと形を変え、慣れた足取りで壁際に置かれたリュックの中へと潜り込んでしまったのさ。


 ただ……。

 人からネコの姿に戻る直前。

 ほんの一瞬、浮かべた彼女の妖し気な微笑み。

 あれは一体何だったんだろうか?


 だけど……。

 そんな些細ささいな疑問は、僕が部屋の外に出た頃には、完全に記憶の外へと追いやられてしまっていたんだ。

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