第142話 俺、会社を辞めた


 お昼すぎのオフィス街。

 落ち着いた雰囲気のコーヒーチェーン店で、俺はカフェラテを飲んでいた。


(辞められたな……本当にあっさりと……)


 手続きは完全には終わっていないが、法的に言えば俺が退職の意思を伝えたのなら会社側はそれを拒否する事はできない。


 つまり……この時点で俺の退職はほぼ成っている。

 これでまだ会社側がごねるのなら、しかるべき手段に訴えればいいだけだ。


(前世では……なんでたったこれだけの事ができなかったんだろうな)


 社会人になってしばらくすれば、自分の会社が異常だなんて事はすぐに気付いた。けれど、現状を変える労力が辛くて恐ろしいという理由で、俺は退職という最もシンプルかつ効果的な解決法を実行に移せなかった。


 自分自身で動くのが辛いのなら、退職代行サービスを頼るなど手はいくらでもあっただろうに――


「さて……」


 自分自身に呆れる時間を切り上げて、俺は固い面持ちでスマホを取り出す。

 どうしても連絡しないといけないところがあるからだ。


「確かこの頃のあいつは在宅ワークがメインだったし、多分いるよな……」

 

 表示させた連絡先の登録名は――『実家』。


 ただその二文字を見るだけで、胃が鉛を呑んだように重くなる。

 全身に冷たい汗が流れて、胸が切り裂かれるような罪悪感に襲われる。


 だがそれでも、この世界に戻ってきからには俺は自分の罪を止めなければならない。そう決意して俺は電話をコールし――すぐに通話に切り替わった。


『………………何の用?』


「……香奈子……」


 スマホの向こうから響く成人した妹の声は、侮蔑に満ちていた。


 だがそれも当然すぎる事だった。


 俺が高校卒業後に就職して以降、母さんは擦り切れていく俺を心配しすぎて体調を崩すようになった。

 そんな母さんを放っておけず、香奈子は就職後も実家に住んでおり……その苦しみをずっと目の当たりにし続けてきたのだ。


(……香奈子は俺にブラック企業を辞めるように何度も説得してきた。そうすれば、俺の人生も壊れずに済むし、母さんの心労も消えて何もかも良くなるからって……本当にその通りだ)


 だが、仕事を辞める勇気がなかった俺は、その話をはぐらかし続けた。

 香奈子からすれば、俺は自分の人生と母親の心身が崩壊していくのを看過している理解し難い最悪な兄貴でしかない。


『平日になんなの? ママなら留守だし、もう切るよ。私は正直、あんたの声を聞くだけで――』


「俺、会社を辞めた」


『え……』


 俺がそう告げると、スマホの向こうで香奈子が息を飲んだ気配がした。


「本当に今更だけど……俺、ようやく気付けたんだ。地獄みたいな職場で自分の人生を捨て値で売り続けて、母さんに心配ばかりかけて……今までの自分が、本当に信じられないくらいに馬鹿だったって」


『……あん、た……』


 どれだけ説得しても闇から抜け出す努力をしなかった兄の突然の変節に、香奈子の声には少なからず驚きが混じっていた。


「今度実家に帰ってちゃんと言うけど……今すぐお前と母さんには報告しておかないと思って電話した。今まで……すまなかった香奈子」


『………………なによ、それ……なんで……』


 報告と謝罪が終わると、香奈子は感情が複雑に乱れた声を漏らした。


『なんでもっとさっさとそうしてくれなかったの!? あれだけ人が説得しても絶対に動かなかったのに、今さら気まぐれみたいに……!』


 積もった怒りに火がついたように、香奈子は俺を糾弾する。

 それは、本当に当たり前の憤怒だった。


『あんたが就職してから今までの七年間、ブラック漬けになったあんたをママがどれだけ心配していたか知ってるでしょ!? なんなの、本当に今ごろになって……!』


 嗚咽と涙声が滲む香奈子の言葉を、俺は黙って受け止める。

 そうする事しか、俺にはできない。


『…………………本当に……辞めたの……?』


「ああ、もう退職願は出したし、会社側の引き留めも突っぱねた」


『そう……』


 先ほどまでの怒声と一転して、香奈子の声には深い疲れがあった。


『そっか、なら……これでやっと、最悪じゃなくなるんだ……』


「……っ」


 その安堵の声こそ、俺への最大の罰だった。

 

 俺は一周目の未来において新浜家を『最悪』へと導いた。

 大人の香奈子はあの結末を避けられるようずっと祈っていた――それを知る事で、罪悪感はより大きく俺の胸を抉る。


『……あんたの事を許した訳じゃない。でも……ようやく動いた事だけはプラスに考えておく。お願いだから、もうこれからはママを心配させないで……』


「ああ、もう家族を悲しませるような事は絶対にしない。……お前と母さんにはどれだけ詫びても足らないけど、どうか今度またちゃんと話をさせてくれ。俺達家族三人でさ」


『…………うん、そうして。そうすれば、きっとママは喜ぶから』


「わかった。それじゃまた連絡する。本当に……悪かった」


 重荷を下ろしたような香奈子の声を聞き、俺は通話を終了させた。


(……自業自得でしかないけど……抉られるな)


 コーヒーの香りが満ちる店内で、俺はスマホをポケットにしまいながら胸中で呟く。


 俺が本来辿るはずだったブラックでの過労死と、新浜家が崩壊するという未来。


 それは不可避でもなんでもなく、俺がちょっと勇気を出せば余裕で解決したものである――今日俺は自分でそれを証明してしまった。


 一周目の自分がどれだけ愚かしい男だったのかをこの上なく思い知らされて、心に何本ものナイフが突き刺さった気分だった。


「……けど、ひとまず終わったな。本命の前に、最低限片付けておかなきゃいけない事は」


 胸にわだかまる罪の意識に苛まされながらも、俺は小さな声で呟いた。


 この一周目世界に戻ってまず片付けなければいけなかったのが、あのクソ極まるブラック企業から脱出して香奈子と母さんの悲しみを止める事だった。


 これで心おきなく、この一周目世界で果たさなければならない本来の目的に取りかかる事ができる。


「さて、じゃあ……いくとしますか」


 俺はスマホを操作し、ガラケーとは次元違いの便利性を噛みしめながら地図アプリを呼び出す。


 そこに入れる検索ワードは……俺がかつて週刊誌やネットニュースで散々見た会社の名前だ。


【読者の皆様へ】

 陰キャだった俺の青春リベンジ書籍版5巻が本日9月29日に発売です!

なんか公式では10月1日という表記があるんですがともかく今日のようです。

 今回は美少女すぎる店員になった春華が表紙ですね!

 生々しい話です恐縮ですがやはり発売一週間の売れ行きが重視されるとのことで、

 よければご購入をお願いします……!

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