第102話 土下座だ!土下座しかない!
社畜時代に絶望は何度も味わった。
十個買うはずの物品がこちらのミスで千個届いた時、十人がかりで終わるかわからない案件を一人で明日までにやれと言われた時、社内データが入ったデータストレージが吹っ飛んでバックアップが作動していなかったと知った時など、枚挙にいとまがない。
だがこれはまったく種類が違う。
仕事での絶望は氷柱で心臓を串刺しにされるような感覚だったが、好きな子に嫌われるというのは、世界が足元から壊れていくような暗黒への崩落だ。
一体何が悪かったのか?
無意識の内に水着姿とジロジロと眺めすぎたか?
俺から能動的にそうした訳じゃないが、何度もボディタッチしてしまったから?
それとも、なんとなく俺の事が生理的に無理になった?
「死にたい……」
「ようやく喋ったかと思えば言うことがそれかよ……」
ふと気付けば、俺は自分の机に突っ伏しており、その横に銀次が立っていた。
さっきから時間感覚が曖昧で、直前の事が思い出せない。
「ああ銀次……そろそろ始業式だっけか……?」
「始業式はとっくに終わったよ! 本当に大丈夫かお前!?」
言われて、俺はようやく今に至るまでの事を思い出す。
今朝、紫条院さんに避けられてしまい、俺はショックのあまり一度ぶっ倒れた。
だがかろうじてメンタルの再起動を果たした俺は、生まれたての子鹿みたいに弱々しく起き上がって紫条院さんとどうにか話をしようとしたのだ。
だが――待っていたのはあからさまに俺を避ける紫条院さんという無慈悲すぎる現実だった。
声をかけても、やはり顔を背けて逃げ出してしまいまともに話ができない。
体育館での始業式が終わった後も教室から姿を消しており、俺は絶望のあまり机に頬をくっつけて自罰の宇宙へ現実逃避していたのだ。
しかし……いつまでもこうしている訳にもいかない。
仕事だろうが人間関係だろうが、こじれたものは自分から動かないと解決しないケースが殆どだ。
「筆橋さんと風見原さんが紫条院さんから話を聞きだそうとしてるらしいけど、まだお前と同じで接触できてないっぽいな」
「そっか……よし、心の休憩は終わりだな……」
俺は失意のあまりうな垂れていた心を叱咤し、よろよろと立ち上がった。
社畜時代においてどれだけ心が砕けそうな事があっても、家族関係が疎遠で職場環境が最悪だった俺は泣いても叫んでも誰も助けてくれなかった。
だからこそ、悲しいかな自分でメンタルを立て直して自分で解決するというスタイルはしっかり身についている。
未だにダメージは深刻だが、絶対に解決しなければならない問題こそ早期に着手して一気に改善に持っていくことが重要だ。
「お、いつもの調子が戻ってきたじゃんか」
「死ぬほどのショックはまだ抜けてねえよ。けど、心地良くうな垂れている訳にはいかないしな」
「さっきまで冷凍イカみたいな目をしてたくせに格好付けやがって。……あ、紫条院さんなら中庭のベンチ前にいるぞ。『新浜君が再起動したら伝えてください』って風見原さん情報だ」
「ナイスな情報だ銀次……! よし、それじゃ行ってくる!」
行って、俺は教室を飛び出した。
廊下を疾走する俺を何事かと周囲の生徒から視線が集中していたが、それを全部無視して、ただひらすらに想い人である少女の元へ急いだ。
(いた……!)
始業式が終わって先生がやってくるまでの僅かな休憩時間の中、紫条院さんは教室にいる事を避けて中庭のベンチに座っていた。
その表情は何故かとても忙しい。
暗い顔でうな垂れていたかと思えば抱えた頭を左右に振ったり、両手で顔を覆ったりとどうにも平静な心でない事が窺える。
俺の事を含めてやはり今日の紫条院さんはどうも変だ。
だが、そこを探るにもまずは話ができないと始まらない。
(このまま立ち止まって話しかけたらまた避けられるかもしれない……! だったら強引に行くしかない!)
幸い周囲に人気はない。
まあ、人気があってもやる事は変わらないがな……!
「紫条院さんっっっっっ!」
「え……?」
全力疾走してくる俺を認め、紫条院さんが目を丸くする。
よし、そのまま驚きに固まっていてくれ!
「すみませんでしたああああああああああああああああああ!」
「きゃ、きゃあああ!?」
全力疾走のスピードのまま、俺は滑り込むようにして紫条院さんの前で土下座を決めた。制服のズボンが思いっきり中庭の土で汚れるが、そんな事は些事である。
「な、なな、何をしているんですか新浜君!?」
状況が理解できないという様子で、紫条院さんは混乱していた。
それも無理はない。
そもそもこの方法が強引で乱暴だという自覚はあった。
土下座とは自身のプライドをかなぐり捨ててでも謝意を示すという究極の謝罪法である。だが、だからこそこれを行った相手を無碍に扱う事は少なからず罪悪感が発生する。
心優しい紫条院さんが、土下座までしている相手を無視する事はできない――そういうズルい計算がある事は否めないが、とにかく俺はこれ以上避けられたくなかったのだ。
「俺が何か気に障る事をしてしまったのなら謝る! どんな事でもする! だから……だから、頼むから俺の何が嫌だったのか教えてくれ!」
呆気にとられている紫条院さんに向かって、ようやく俺は言葉を届かせる事に成功する。これでどういう反応があるかはさっぱりだが、絶対に昨日までの関係を取り戻して見せると俺は固い決心を固めていた。
しかし――
「…………え? 私が新浜君を嫌になった……?」
「へ?」
まるで思考の内にない事を聞かされたように、紫条院さんが呆然と言葉を返す。
その噛み合わない様子に、俺もまた思わず伏していた顔を上げて呆けた声を出してしまう。
「いや、だって……今朝から俺が話しかけてもすぐ顔を背けるし、ずっと避けまくっていたから、何か気付かない内に俺がやらかしていて嫌われたんだろうって……」
「え、あ、あ……!? ち、違います! そんな事じゃないんです!」
俺が土下座に至った理由を伝えると紫条院さんは目を見開いてに驚き、焦りが滲むような真剣な表情で叫んだ。
両手を大きくブンブンと振り、全身全霊で俺の懸念を否定しているのがわかった。
「私が新浜君を嫌いになるなんてなんてありえません……!」
声の調節を忘れたようなその必死すぎる大声に、今度はこっちが目を見開いて驚く番だった。
天然である紫条院さんが意味をどこまで考えて言っているかはわからないが、その俺達が築いた縁や絆が確かにあると示す言葉は、俺にとっての福音だった。
暗黒の淵に沈んでいた俺の心に、眩い太陽の光が降り注ぐ。
万力で締め付けられていたような胸の内がスッと軽くなり、平静から程遠かった心臓も胃腸も本来の調子を取り戻していくのがわかった。
「ほ、本当に……? 俺が嫌だったから避けていたんじゃないのか?」
「嫌いになる理由なんて一個もありません! 絶対! ぜーったいありません!」
縋るように尋ねる俺に、紫条院さんは子どものように声を大きくして必死に繰り返してくれる。その一言一言が、俺にとってなによりも甘美な精神の恵みだった。
「ふぅぅ…………よかったぁ……よかったああああ…………」
「え、え? に、新浜君ちょっと泣いてないですか?」
そりゃ、安堵で涙だって出るよ……。
海で風見原からもからかわれたが……今更ながら自分が抱えている想いがとてつもなくヘビーなものだと自覚する。
もしこれから告白してフラれたら、一年くらい生ける屍になってしまうんじゃないのか俺。
「あれ、でも……ならどうして紫条院さんは今日俺から距離を取ってたんだ?」
「……っ!」
俺は土下座から立ち上がってズボンについた土を払いつつ、当然の疑問を尋ねてみたが……何故か紫条院さんは一瞬で石のように硬直した。
「あ、や、そ、その……誤解を抱かせてしまって大変失礼をしましてごめんなさいということなんですが、ひょっとしたら新浜君は平気でも私自身がもう本当にダメで、胸の中のグルグルがどうしようもなくて、ちょっと思い返すだけでも恥ずかしくて頭が熱々のヤカンになってピーって……!」
「???」
紫条院さんは顔を真っ赤にしてかつてないほどに慌てふためき、手話のように忙しなく腕を動かしてその混乱の極まりぶりを伝えてきた。
どうやら感情も頭の中も整理できていないようで、どう見ても思考回路がショート寸前のご様子である。
んん……?
俺が平気でも自分がダメ?
ちょっと思い返すだけでも恥ずかしい……?
その言葉から推察できるのは――
(あ……!? いや、ま、まさか……)
「その……もしかしたらだけど……」
未だに感情を処理しきれずに熱暴走しているような紫条院さんに、俺はおずおずと言葉を投げかける。
「海で酔っ払ってしまった時の事……全部憶えているとか……?」
「――――――っ!!!!」
そう告げると、紫条院さんは絶句してピタリと動きを止める。
そして、ただでさえ赤かったその可愛い顔がさらに朱を帯びていき、少女は両手で自分の羞恥に満ちた顔をそっと覆った。
そのまま腰を下ろしてしゃがみこんでしまい、サッカー選手がゴールを外した時とかにやってる『顔向けできない……』なポーズになる。
「……………………はい………………おぼえています…………」
「そっかぁ……」
身を小さくした紫条院さんの今にも消え入りそうな涙目の声に、俺はいたたまれない気持ちになりつつもそう答えるしかなかった。
【読者の皆様へ】
前回の更新から時間が空いてしまい申し訳ありません。
現在、作者のプライベートの大転換と執筆面での作業(内容はまだ明かせません)のダブルパンチにより激烈なまでに時間がない状況でして、どうしても更新速度が低下します。
大変恐縮ですが、ご承知おきください。
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