第76話 新浜家の食卓
時刻がもう夕方を通り越した頃、俺たちは4人で夕食を共にしていた。
母さんは仕事があったはずだが『どうしても春華さんと食卓を囲みたくて死ぬほど頑張ったわ……!』とのことで、やり遂げた顔で部屋から出てきたのだ。
「いやもう、ごめんね春華さん! お客さんなのにすっかり手伝わせちゃって!」
「いいえ、そんな! 私の我儘で手伝わせて頂いただけですし……それに、とても楽しかったですから!」
「あなたって……笑顔が素敵で本当にいい子ねぇ。オバさん惚れ惚れするわ……」
紫条院さんの『ぺかーっ』という効果音がついてそうな輝かんばかりの笑顔を見て、母さんが感嘆するように言う。
そうそう、この心の綺麗さがそのまま表れたような紫条院さんの笑顔は、ピュアさが薄れた大人こそ最も眩しく感じるのだ。
「ふふっ、新浜君のお母様にそう言って頂けると嬉しいです」
「お、おかあさま……! いい! その響きすっごくいいわ!」
紫条院さんは普段から母親に対してそう呼んでいるだけなのだが、お姫様みたいに高貴な少女から『お母様』と呼ばれるハイソな快感に我が母は酔いしれていた。
おそらく、美少女から『ご主人様』やら『お兄ちゃん』なんて呼ばれてキュンキュンする感覚と根本は同じなんだろう。
「それにしても……煮魚とか和え物とかでなんかザ・庶民ってメニューだけど春華ちゃん大丈夫? 口に合う?」
香奈子が心配した様子で言うが、まあ気持ちはわかる。
冷蔵庫の中身上仕方なかったが、ばあちゃんの家みたいな献立だもんな。
「ええ、もちろん美味しく頂いてますよ。そもそも家でもこういう普通の和食が多いですし」
「え、そうなの? 社長さんの家って毎日フランス料理食べてるのかと思ってたけど」
おいおい、いくらなんでもその金持ち像は古風すぎだろ。
そりゃまあ、あの紫条院家の広い食卓に相応しいのは明らかにそっちだろうけどさ。
「あはは、フランス料理ももちろん美味しいですけど、毎日食べるとどうしてもご飯と味噌汁が恋しくなるものなんですよ。特にお父様が会食とかでそういうものを食べることが多くて食傷ぎみなので、家に並ぶおかずだって本当に普通のおひたしとか煮物とかが多いですし」
「へー、そうなんだ! やっぱりお米と味噌汁最強じゃん!」
「はい、最強です! 日本人ですから!」
紫条院さんと妹が大きな笑い声を上げ、食卓に暖かい喧噪が満ちる。
とても心が安まり、ただ穏やかな喜びだけがある。
(ああ……いいなこういうの……)
いつもは最大3人な新浜家の食卓に紫条院さんがいる。
ただそれだけでこの家の雰囲気が何倍も明るくなった気がする。
その暖かさを、紫条院さんと一緒に作った料理とともに噛みしめる。
この味噌汁にしても成分は俺が普段作っているものと変わりないはずだが、やっぱり好きな人が作ってくれたものだと思うと何十倍にも美味く感じる。
気持ち悪い妄想だと言われたら返す言葉がないが……つい夢想してしまう。紫条院さんが俺のために毎日こんな味噌汁を作ってくれる日々を。
もしそんな夢が叶ったら、俺は間違いなく世界一の幸せ者になれるだろう。
「ほらほら、春華ちゃんもっと食べて! ほら、あーん♪」
「わわっ!? あ、ありがとうございます!」
すっかりはしゃいでいる様子の妹が箸でつまんだアスパラのベーコン巻きを差し出し、紫条院さんは若干照れながらもそれを口で受け入れる。
香奈子の奴、すっかり紫条院さんに懐いたなぁ……。
「んむ……ふふ……ちょっと変な感じですけど、妹に食べさせてもらってるみたいで楽しいです。その、私もやっていいですか?」
「もちろん! 春華ちゃんみたいに綺麗なお姉ちゃんの『あーん』とか大歓迎だから!」
「そ、そうですか! で、では失礼して……あーん」
紫条院さんは一人っ子のせいかお姉ちゃんと呼ばれることが妙に嬉しいらしく、ちょっと浮かれた様子で香奈子へお返しの『あーん』をする。
それに対して我が妹は「んー美味し! やっぱり綺麗なお姉ちゃんに食べさせてもらうと味が違うよね!」とキャバクラのおっさんのような感想を述べる。
「あ、そう言えばさあ――」
そこで、急に香奈子の声によこしまなものが滲む。
ん、なんだ? こいつどうして口の端を広げて俺を見ているんだ?
「聞いてよ春華ちゃん! 兄貴ってば女の子に『あーん』してもらうのが夢なんだってー!」
「ぶぼっ!? な、何言ってんだお前ええええ!? 俺がいつそんな……!」
「え? 兄貴が中学の時言ってたじゃん。なんかイチャラブ系のアニメ見ながら『女の子にあーんしてもらったら死んでもいい……』って」
え……!? あ、いや、そう言えば……!
確かに中学生のころ(今の俺にとっては15年ほど前のことだが)は思春期ゆえに色んなラブコメ漫画やギャルゲーにハマっていて、『屋上で清楚系彼女とお互い真っ赤になりながらキスしてみたい……』とか『良妻系彼女にお弁当作ってもらって、あーん♪して欲しい……』とか妄想丸出しのことを盛んに呟いていたような……。
「え、あんな簡単なことが新浜君にとってそんなに嬉しいことなんですか!?」
「そうそう、兄貴にとっては泣きそうなくらいの憧れなんだって!」
妹の戯言に紫条院さんはめっちゃ反応した。
そしてそれを見た香奈子はニヤリと邪悪な笑みを浮かべる。
こ、こいつ……! さっきの『あーん』のやりとりはこの伏線か!
自分がやりたかったのもあるだろうが、一度自分と紫条院さんでそれをすることで次なる『あーん』の抵抗を少なくし、話の流れを自然にする下準備……!
そして、そこにこの話はまずい……! 普通の女の子ならともかく紫条院さんにそんなことを聞かせてしまったら……!
「なるほど、女の私にはちょっとわかりませんけど、男の子にとってはそんなに感動するものなんですね! なら、ちょうど食卓を囲んでいることですし、僭越ながら私にその役を請け負わせてください!」
ほらこうなったあああああああ!
むっふーっ! とやる気に満ちた紫条院さんを見て俺は焦りまくった。
紫条院さんは一学期に俺が行ったささやかな行為――一テスト勉強の先生役をしたことや、文化祭で紫条院さんのために企画を立てたことをとても感謝してくれている。
一度紫条院家に俺を招待してお礼のご馳走をしたにも関わらず、彼女はまだ十分じゃないと考えていて、俺に恩を返せる機会を普段から窺っている。
そんな義理堅い天然少女に今みたいな話をしようものなら、意気揚々とその役をやると言い出すのは予想がついていたのだ。
「あ、でも……つい勢いで言ってしまいましたけど、新浜君としては可愛い子にやってもらいたいのでしょうし、私じゃ不満ですよね……」
「「は?」」
誰もが見惚れる美貌を持つ少女のその言いように、母さんと香奈子の口から『何言ってんのこの美少女』みたいな声が漏れる。
そして、俺としてもそんな自信なさ気な言葉にはつい過剰に反応してしまう。
「な、何言ってんだ!? 不満なんてあるわけないだろ! 紫条院さんがやってくれるのなら涙を流して感謝するレベルだっての!」
「え……!? あ、あ、ありがとうございます……」
紫条院さんが顔を羞恥に染め、断言した俺もまた自分の発言に顔が赤くなる。
だが仕方ないだろう。紫条院さんが『自分には魅力がない』みたいなことを口にすれば俺の魂は全否定せざるを得ない。
ちなみにこの時点で香奈子は自分が画策した通りのものが始まる予感に「ふおおぉぉぉ……!」とテンションを爆上げしており、母さんはあんまりにもアレな話の行方に口を押さえてプルプル震えている。どうやら漏れそうな笑いを我慢しているらしい。
「な、なら問題ないんですね! それじゃあ早速……はい、あーん♪」
紫条院さんはその行為自体には恥じらいはないようで、箸で卵焼きをつまむと左手をそっと添えて俺へと差し出した。
この行為が恋愛にまつわるものだという認識がないのか、母親が子どもにそうしているような純粋な笑顔だった。
俺が喜ぶことを、ごくピュアな様子で期待している顔だ。
だがその破壊力たるや半端ない。
男なら誰もが夢想した『あーん』を自分の好きな子が今まさに自分にやってくれている。そのあまりに非現実的なシチュエーションに、ドキドキが過ぎて心臓が飛び出してしまいそうだ。
(し、しかしとにかく恥ずかしい……! これが二人っきりの時なら良かったのに野次馬全開の母親と妹の前でとかどういう罰ゲームだよぉぉぉ!?)
しかし、ここで拒否して紫条院さんを悲しませるのは論外だ。
俺は意を決して大きく口を開け、紫条院さんの箸に歯が触れないように注意しつつ玉子焼を口に含む。
甘い。
さっき台所で試食した時よりも、その玉子焼はとても甘く感じた。
それと同時に――羞恥と嬉しさがミキサーされた熱が俺の奥底から湧き上がってきて、上手く感情の方向性が定まらないまま俺の胸へ溢れた。
「あ、ありがとう……なんかもう気持ちがいっぱいだ……」
「それは良かったです! こんな簡単なことで新浜君が喜んでくれるのなら、何回だってやりますからいつでも言ってくださいね!」
感情が上手く処理できずに真っ赤な顔をした俺をどう見たのか、紫条院さんはとても嬉しそうに言う。おそらく俺へ少しでも『お返し』が出来たことが嬉しいのだろう。
「ぷ……くく……ぶふっ……! よ、良かったわね心一郎……」
「ん~~! いいもの見れた! あ、兄貴はこの香奈子ちゃんのファインプレーに全力で感謝していいからね♪」
母さんはともかく香奈子は俺が焦っている様を楽しみやがってぇぇぇぇ!
しかしそれでも結局、紫条院さんからの『あーん』は自体は超絶嬉しかったので責めづらいのがムカつく……!
そして――
まあそんな感じで夕食の時間は過ぎていった。
その後も俺は紫条院さんと一緒の食卓にいることで何度もドギマギしたが、母さんも香奈子も紫条院さんも全体的にテンションが高く、成り行き的な夕餉にしては相当に盛り上がったと言えるだろう。
そしてそんな時間もやがて終わりを迎え――雨音の中で寝静まる夜の時間は近づいてきていたのだ。
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