第72話71 実りの時 3

 すっかり葉を落とした森を黒馬が疾走する。


 前に来た時は豪華な色にあふれていたのに、全く違うところのようだわ。


「寒くはないか?」

 エルランドが背後から尋ねる。確かに顔に当たる風はすでに冬のもので冷たい。

 しかしリザの身は、先ほど彼が自ら巻き付けてくれた、真新しい白いマントに包まれていた。それはこの間の狩りの獲物の白兎の毛皮で、エルランドが村の仕立て屋で、急ぎ仕立てさせたものだった。

「いいえ、ちっとも」

 顎まですっぽり覆う毛皮は温かいのに軽く、とても美しかった。今まで毛皮など身につけたことのないリザは、その柔らかさに夢中になってしまう。

「生き物の体の一部でできているのに、こんなに嬉しくていいのかしら?

「いい。俺たちは自然の恩恵で生かされている。その恵みを感謝して受け取り、大切にするのが人の営みだ。それに……」

「それに?」

「リザの髪にとてもよく映える」

 エルランドは、目の下で飛び跳ねる伸び始めた黒髪を一筋掬い取った。

 今日のエルランドはリザにバネッサに乗ることを許さなかった。だから二人はアスワドに相乗りしている。毛皮と彼の体温で寒さなど入り込む隙間などない。

「どこまで行くの?」

「この先に小さな池がある。リザはそこまで行ったことがないだろう?」

「……ええ」

 あの時はリザは森の浅いところをエルランドと散歩し、そのあとはアンテに高台に連れて行ってもらっただけなのだ。

 その時見た光景が再びリザの前に蘇った。振り返るとその高台がはるか遠くに見えている。

「なんだ?」

「アンテにあそこまで連れて行ってもらったの。景色がいいからと言って。そこでカラス百合を見たのよ」

「ああ、そうだったな。だが冬場は絶対に上ってはだめだ。露が凍って危険だからな」

「うん……」

「ほらまた、浮かない顔だ。どうもおかしいな。今日こそ聞かせてもらおう。ああ、あそこに大きな樫の木が見えるだろう」

「ええ」

「ちょっと目をつぶっていなさい」

「え? 目を」

「ああ。俺がいいというまでつぶっているんだぞ」

「……」

 リザは訳がわからないまま、言われたとおりに目を閉じた。

 世界は急に頼りなくなる。顔に当たる風と馬の不規則な揺れ、それらは彼女を心もとない気持ちにさせたが、唯一確かなものが背中のぬくもりだった。

 それだけは確かに今のリザを守ってくれる。

「それ!」

 馬は何かを飛び越えたようだった。そのあとは急に速度が落ち、やがてゆっくりと停止した。リザの顔に温かくて大きなものが触れる。エルランドの手がリザの両目を覆っているのだ

「俺が手をどけたら目を開けていいぞ。いちにのさん! それ!」

「……」

 目に飛び込んできたのは一面の青だった。

「え?」


 これは……なに? 青くて大きな鏡?


「池だよ」

 それは小さな池だった。

 その水は恐ろしいほど澄んで、空の色が映りこんでいる。池の底には倒木が重なり、それさえも青に溶けていた。岸辺は透明で深くなるにつれ、徐々に青くなっている。一番深いところでは一部暗い青──紺色に見えるが、それも驚くほど透き通っている。

「……きれい……こんな色あいは見たことがないわ。まるで世界中の青を集めたみたい……」

「ああ、きれいだろう」

 エルランドも呟くと、さっと馬から下りた。リザにも手を貸して下してくれる。

「……ここに私を連れてきたかったの?」

「ああ。俺しか知らない場所だ。偶然見つけたんだが、この季節が一番澄んで美しい。夏場は緑色になるし、真冬になると凍ってしまうから」

「エルランド様だけが知っているところ?」

「ああ、多分。誰かを連れてきたのはリザが初めてだ」

「ウルリーケ様は?」

 リザは思わず尋ねてから、はっと口元を押さえた。


 私……なんて余計なことを。そんなこと聞いたってどうにもならないのに。


 しかし、エルランドは奇妙な顔でリザを覗き込んだ。

「リザ」

「は、はい」

「なんでここに、ウルリーケ嬢が出てくるんだ?」

「え?」

「意味がわからない」

「え……だって、お二人は」

「オフタリ? お二人のことか?」

「ええ……はい 」

「なんで、俺と彼女がお二人なんだ?」

「だって……恋人同士なのでしょう?」

「……」

 今度こそエルランドは黙り込んでしまった。

「……あのな?」

 彼が口を開いたのは、たっぷり三呼吸の後だ。

「俺があほなのか? すまんが文脈がわからない。誰と誰が恋人同士なんだ?」

「え? だから、エルランド様とウルリーケ様が」

 尋ねられてリザはうっかり正直に答えてしまったが、エルランドはあんぐりと顎を落としている。

「……なんでそうなる? どうやったらそう思えるんだ? やっぱり俺があほなのか?」

 ぶつぶつ呟くエルランドを、今度はリザが怪訝けげんな顔で見つめた。

「だって、人目を忍んで抱き合ったり、抱え上げて一緒の部屋に入るって、普通だったらあんまりしないでしょう? そのくらい私だって知ってるわ」

「俺がそんなことしたのはリザとだけだ」

「え? 私と?」

 そういえば確かにしたような気がする。

「だからか!」

 エルランドはすっかり合点がいったように一歩踏み出した。

「だからリザは俺を避けていたんだな」

 青く澄んだ池を背景に、二人を包んで風が流れた。

 冷たくても優しい風が。



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