第49話48 辺境騎士と妻 5
(あのみっともない黒い髪を見ろよ! ナンシー)
(どうしてこんなところに来ているの? ドレスだって流行遅れだし、体に合ってないわ)
(ヴェセル兄上が気まぐれに離宮から呼んだんだってさ)
(そう。なら、私の侍女に言いつけてこき使ってやるわ)
それは兄から呼び出された、小さな夜会での兄姉たちの囁きだった。
どこを見ても何をしても嘲りの矢が刺さり、リザは気がつくと思い帳の影で気を失っていた。
「リザ、酒は飲めるか?」
その声でリザは我に帰った。
幻想を見ていたのだ。幻の嘲笑は現実の喧騒へととって変わる。
差し出された杯には赤い酒が入っていた。良い匂いがする。
この夕食の席には客人はいたが、特に宴会と言うわけでもないので、主も兵士も召使たちも普段どおり賑やかに食事をとっていた。これがこの城のいつもの食事風景なのだろう。
「あの……私、お酒は飲んだことがないの。一口だけなら……」
「それならむしろ一口だけにしておくべきだな。ほら」
エルランドは新しい杯に、自分の杯から少し分けてやる。それは果実の香りの他に、つんとくる独特の味があった。
「どうだ?」
「……よくわからない」
「それでいい。なんでも少しずつ慣れるのがいい。飲んだくれのリザは見たくないから」
エルランドは笑った。
「でももう、お腹がいっぱいになったわ。上に上がってもいい? パーセラさんの様子を見に行きたいの。もし失礼にならなければ」
リザの言葉にエルランドもウィルターも頷いた。
「私からもお願いします。きっと夕食に出られないのを気にしていると思うので」
「腹がいっぱいになれば自由に退室してもいい習慣だ。ニーケにも伝えよう。セロー」
「はい」
兵士の席の一番前に座っていたセローは気軽に立ち上がり、ニーケの席まで飛んで行った。耳元でささやかれ、ニーケがこちらにやってくる。後ろでアンテが面白くなさそうにその背中を見つめていた。
「入ってもいいですか?」
リザは自分の部屋の階の廊下を進んだところにある、客人夫婦の部屋を尋ねた。
「どうぞ」
女性の声がしたので、リザはそっと扉を開けた。
「こんばんは」
そこはリザの部屋と同じような作りの部屋だったが、窓が二つあり、寝台も二つ並べられている。夫婦の部屋だからだが、リザには新鮮に映った。
普通の夫婦なら、こんな風お部屋になるのかしら? それとも、領主ともなると違うのかな?
普通の夫婦とはどういうものか、リザにはまだわからない。
「あの……?」
「あ、ごめんなさい。初めまして。私リザといいます。お加減が悪いと伺って、お見舞いに来ました」
「まぁ、ありがとうございます」
パーセラは寝台に横になっていたが、特に顔色は悪くないようだった。
「お医者様が見えたって聴きましたけど」
「はい、エルランド様のご厚意で先ほど診ていただきました……でも、病気ではなかったのです」
「よかった。心配しました」
「あの……あなた様はこのお城の女官の方?」
パーセラはリザの様子を注意深く見ながらも遠慮がちに尋ねた。
自分よりかなり若いが、専用の侍女をつけている。身なりは質素で良く手入れされている風でもないのに、所作に品があるこの娘が不思議だったのだ。
「え? 私? いえあの……私は一応、エルランド様の……その、妻……です」
「ええっ!」
パーセラは本気で驚いたようだった。
「奥方様でございましたか! これは失礼を!」
慌てて起き上がろうとするパーセラをリザは止める。
「横になっていてください。ご主人も、エルランド様もそうおっしゃっていましたわ」
リザの言葉に、パーセラは大人しく横になった。
「も、申し訳ありません……でも、奥方様になら申し上げられますわ。私は実は病気ではなく……」
「……?」
「赤ちゃんができましたの」
「赤ちゃん?」
「ええ。主人と結婚いたしましてもう五年になるのですが、なかなかできなくて諦めかけておりました。だから今回の旅にもついてきたのですが、思いがけず……」
「……そうでしたの。赤ちゃんが……あの、お腹に?」
「え? ええ」
「すごい……」
「……すごい?」
「いえ、すみません。ご飯は召し上がられましたか?」
「はい。お粥をいただきました。ずっと冷たいものを食べていたので、アンテさんが自分で持ってきてくださったのです。温かいミルクの粥がとても美味しかったですわ」
「温かい……?」
リザはそっと呟いた。
もう気が付いてはいたが、自分たちにはわざと冷えた食事が運ばれてきていたのだ。
「奥方様、奥方様はおいくつ?」
「十九歳です。でもよければリザと呼んでください。こちらに来て間がないので、
「まぁ……新婚さんなのですね」
「そう言うわけではないのですが、ずっと離れて暮らしていましたので。まだこちらの風習にも慣れていなくて……」
「……リザ様は珍しい髪の色なのですね。触れてみてもいいですか?」
「ええ。どうぞ、短くて不格好でしょう?」
パーセラは手を伸ばしてリザの髪に触れた。優しい茶色の目は妙に真剣にリザの肌や体つきを観察している。
「……何か?」
「私の扱う商品は化粧品など、婦人が使う物なのです。夫も主に婦人用の服地の商人で、実家は貴族様でも贔屓にされ……私も随分勉強して参りました」
「すごいですね。商人さんは色々勉強が必要なのですね」
「リザ様はどんな石鹸や香油をお使いに?」
「あ、今は使っていません。以前はたまに使っていましたが、今は持ってないんです」
「……リザ様のお世話は、そちらの方がされておられるのですか?」
「はい、王都から一緒にこちらにきたニーケと申します。あとは部屋付きのターニャという者が」
「アンテさんは? この城の女召使達のまとめ役ですよね」
「ええ。でも、いつもお城の切り盛りで忙しそうなので、あまり面倒をかけてはいないと思っています」
「……」
「パーセラ様?」
パーセラは首を傾けて何か考え込んでいる。
「え? これは失礼いたしました。リザ様、よければ明日またお話ししにきていただけますか?」
「ええ、もちろん。このお城には図書室や素敵なお風呂がありますよ。一緒に行ってみましょう」
その一時間後。
部屋に戻ってきた夫に、パーセラはリザについて話した。
「奥方様はどうもこの城で大切にされておられないようだわ。しかもご本人はあまり気が付いていらっしゃらないようなの」
「え? 王女様なのに? 確かに、あまり上等な身なりではなかったが」
ウィルターは夕食の時の様子を思い返した。桃色の木綿の服を着ていたが、平民の着る少し上等な衣服で、パーセラが今着ている者の方が上等なくらいだ。
「まぁ、王女様だったの⁉︎」
パーセラは驚いて叫んだ。
「私も知らなかったんだが、どうも本当のようだ。末の姫君だが、王家には重視されていなかったようだ。で、君のその推測には何か根拠があるのかい?」
「綺麗な黒髪なのに毛先はぱさぱさで、肌も少しかさついていたのよ。あれは普段から手入れしてもらっている感じではないわ。しかも石鹸や香油も使ってないと無邪気におっしゃって」
「しかし、ご領主のエルランド様は、リザ様のことを大切に思っていらっしゃる様子だったがなぁ。肉を小さく切り分けたり、酒を注いだり、嬉しそうに世話をしておられた」
「男の人には髪や肌のことなんてわからないのよ。きっと女の体つきのことしか興味がないのでしょうよ。ましてやあの方は武人だわ、女の日常の手入れのことなんて知らないに決まっているわ」
「……そうかも。それに不思議なことに温かい食事を珍しがっておられた」
「やっぱり! 私もなんだか変に思ったの」
「リザ様は離宮でお育ちになったそうだが、きっとあまり大切にされてこなかったのではないだろうか?」
「それでも、夫ならもっと気を使うべきよ。いくら留守がちでも! 私、明日もっと色々話してみるわ、なんだかとても不思議な魅力のある方なんですもの。とても
「しかしパーセラ、大丈夫かい? 君は今普通の体ではないんだよ」
「もちろん無理はしないわ。だから、あなたも御領主様に、このことを伝えてちょうだい。あくまでもそれとなくよ。これはご夫婦の問題でもあるのだから」
「わかった」
商人夫婦は強い意志を持ってうなずき合った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます