第7話 6 去りゆく夫 1

 そして、数時間ののち──。

 リザは王宮のどこかもわからない部屋に一人でいた。

 再び風呂にけられ、髪も体も洗われた後、香水とも香油ともわからないものを肌にすり込まれ、見たこともないような軽くて美しい夜着を着せられて、寝台に放り込まれた。

「あのぅ……もうそろそろ帰ってはいけないのですか?」

 黙ったままの侍女達にやっとの思いで尋ねても「今夜はこの部屋でお休みください」と馬鹿にしたように言われるだけだ。

 女官達は部屋の明かりを全て消すと、入り口に小さなランプを一つだけ灯して立ち去った。


 ──明日には帰れるのかしら? ニーケは夕食を食べたのかしら? オジーは迎えにきてくれたのかな?

 

 一人になると、部屋の広さと暗さが押し寄せてくる。

 豪華な装飾も柔らかい寝具もリザを慰めることはできなかった。心細さが体を震わせる。残してきた二人にひたすら会いたかった。

「ニーケ……」

 大きな寝台の上で、リザはたった一人の友人の名を呼んだ。柱が四本も立った大きくて立派な寝台なのに、とても眠れそうにない。


 なんという一日だったろう。


 リザは今日起きたことを思い返した。

 知らない人間が大勢やって来て重いドレスや化粧で飾り立てられ、輿こしに乗せられて一年ぶりに王宮へ連れて来られた。

 そこで久しぶりに会った兄王にさげすまれつつ、訳のわからない儀式に駆り出され、見知らぬ男に出会った。


 エルランド・ヴァン・キーフェル。


 彼はとても背が高かった。この儀式を喜んでいるようにはとても思えず、最初は顔を見ないようにしていた。

 ヴェールを上げられても、怖くてまともに顔を見られなかった。こんな近くで大人の男に向き合ったことがなかったからだ。向かいの壁の窓が眩しい。

 永遠と思える一瞬が過ぎて名を呼ばれた時、初めてその顔を見た。かなり上方にあるので顎を思い切り上げなければならなかった。すると彼と目が合った。


 なんてきれいな緑色。

 

 それが最初の印象だった。

 今までそんなに大勢の男性を見たわけではなかったが、彼の顔立ちは美しいというよりも、整っていると言った方がふさわしいかった。額の左側にうっすら傷跡が見えたが、その傷さえ、彼を引き立てる役目を果たしているようだ。

 けれど──。

 庭の奥に生える新しい苔のような金緑色の瞳は、驚きをかもしながらも困惑していた。それはどうしたらいいのか戸惑う人間の顔だ。

 そのくらいはリザにもわかる。小さい頃から人の目を窺うようにして生きてきたのだから。

 

 この結婚はあの人にとって、嬉しいことじゃないのね。相手がこんなカラスの子どもだし。

 だけど、兄上のいう通りなら、私はこれからあの人の領地に行って、そこで暮らさなければいけないのだわ。

 

 主要宮から離れた離宮で暮らすことは別に嫌ではない。しかし、そこになんの未来もないことに、リザも薄々気がついていた。

 そしてこれから、更に知らないところに行く。

 どんなところなのか、何をするのか、リザには想像もつかない。ヴェセルは領主夫人になるのだから、今よりはよくなると言っていた。


 でもあの人……エルランド様は多分、悪い人ではないわ。

 

 自分を見下ろした時の目はとても綺麗だったし、困惑はしていたが悪い光は見えなかった。リザが気分が悪くなった時は明らかに心配してくれていた。

「ここから出て行くのは嫌じゃないし、怖くない」

 リザは言葉にしてみた。言葉が力を得て自分を励ましてくれるような気がする。

「だけどこのままじゃ、ニーケやオジーにも会えずに行っちゃうことにならないかしら?」

 それは困る、とリザは思った。

 知らないところに行くのだから、せめてニーケには一緒に来て欲しい。このまま会えずに出発するなんて、どうしても嫌だった。しかし、あの兄はリザの頼みなど聞いてはくれないだろう。

 そう思うと、いても立ってもいられず、リザは後で叱られてもいいから、一度離宮に戻ろうと決心した。彼女にはこの場所が新床の場だとは思いもしなかったのである。女官達は何も教えなかったのだ。


 明日、兄上が迎えにきた時、頼んでみよう。

 兄上は無理でも、あの人ならもしかしたら聞いてくれるかも……。

 

 十四年の人生の中で一番大きな決心をしたリザは、そっと寝台を降りた。

 天蓋から垂れ下がる、綺麗な布をめくると、入り口近くに小さな灯りが灯されている。

「私のことなんて、誰も知らないからきっと大丈夫、この部屋は二階だから後ろの階段を降りたらなんとかなるわ」

 自分を励ますためにそう呟いた時、驚くべきことが起きた。

 扉が音もなく開いたのだ。

「ニーケ? ニーケなの?」

 自分に会いにきてくれるものなど、この世にただ一人しかいない、ニーケがなんとかして会いにきてくれたのだ。

 そう思ってリザが声をあげた時。

「ニーケとは?」

 暗い廊下から低い声が聞こえた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る