第14話『遭遇』
才明寺の協力は得られないものの、足を止めている時間がなかった。
俺は授業が終わると、今日の数学の小テストの直しの助けを求めてくる才明寺を躱しながら急いで学校を出た。
放課後には、英語の授業の前にした会話のことをすっかり忘れている様子で、小テストを握り締めてやってきたのだ。
「ちょっと、今日のも全然わかんなかった……」
悲痛な面持ちでやってくる才明寺から、さっき見た怒りは全く残っていなかった。一体なんだったのか。俺は内心困惑しつつも、通学カバンに教科書やノートを詰めていく。
「悪い、才明寺。これからちょっと行かないといけない所があるから俺帰るよ」
「ええ!?」
俺の言葉に才明寺は顔を真っ青にする。
小テストがある日は毎日残っていたから、今日もそうだと思っていたのだろう。大変申し訳ないと思いながらも俺は帰り支度をして通学カバンを肩にかける。
「体調悪いって言ってたから、病院?」
「違う。けど、それ関係」
具体的な言葉にはしない。というか、できない。
でも才明寺は納得したようで肩を落とすものの大きく頷く。
「そっか、じゃあ今日は一人で頑張ってみる」
「いや、お前一人でとか絶対無理。賭けても良いよ。誰か先生なり問題解けたヤツなり頼った方が良いって」
俺はそう言うと「じゃあまた月曜日」と言って教室を出た。
俺の言葉に才明寺は心外だと言いたげだったが、絶対一人じゃ無理、だから早めに現実を悟って誰か捕まえることを祈るばかりだった。
***
今日は数学Ⅰの実数の小テストだった。
高校一年の数学、初期の初期で既に躓いている。躓き倒している。膝はもう血まみれだ。
正直授業を聞いても、教科書を読んでも、全く理解できない。実は日本語と同じ形をした外国語なんじゃないかと思えるほど。
だからテストで問われている事がそもそもわからない。わからなければ答えが書けるはずもない。
でも秀生の教え方はわかりやすい。
先生が授業で使った言葉を噛み砕いて稀にも理解できるように説明してくれる。
そして漸く問題の意味がわかり、答えを考えるという段階へ進めるのだ。
「あーあー、どうしよう……」
稀は小テストを眺めて途方に暮れる。
そんな彼女に声をかけた男子生徒が一人。
「何だ、柵木くんに匙を投げられのか才明寺」
稀を揶揄うように呟かれる言葉に、稀は嫌そうな顔をする。
「
「柵木くんの忍耐は凄いね。才明寺に勉強を教えれるなんて」
「うるっさいわね」
稀は溜息を着きながら自分の席に戻る。貴水はその後に続くように稀の机の前に立つ。
稀と貴水は同じ小学校出身だ。何だったら中学も同じだった。
彼此十年目の付き合いになる。幼馴染と呼ぶには険悪で、同級生と呼ぶには濃密。二人の間に明確な関係の名がない。
とはいえ、稀は貴水が嫌いだった。
何故か。理由はない。忘れてしまった。
多分小学校で出会った時の印象が悪かったんだろうと思うけれど、それがどういうものだったか稀の記憶からは既に消されている。
何が悲しくてあと三年、こいつと同じ制服を着なくてはならないのか。
こいつが入学式で新入生代表挨拶をしている姿を見たときは、何の冗談かと稀は卒倒しそうになった。
「絡んで来ないでよ。さっさと部活行けば?」
「今日は体育館の設備整備でバスケ部は休み。時間あるから小テストみてやろうか?」
そう言ってにこやかに笑う貴水。
鬱陶しそうに睨む稀。
無言で顔を見合わせる二人の間には明確な温度差が存在する。
だけど不意に貴水は何かを思い出したように視線をあげて、口を開いた。
貴水の出した言葉に稀は顔色を変えることとなる。
***
学校を出ると、俺はマンションではなく駅へ向かう。
昨日祐生が辿った道をなぞるために。
何が起こったか知るために。
俺はもう二度と行くことはないと思っていた隣りの市へ行くために。
やってきた電車に乗るだけで背筋が震えた。肌が粟立つような感覚に襲われる。
人が疎らに座っている座席に縮こまるように座って、息を殺して祐生が降りた駅が近づくことに吐きそうになる。
昼飯食べる前に来てよかった。何か食べてたら絶対今吐いてる。
俺はそんなことを思いながら祈るような気持ちで座席から伝わる振動に歯を食いしばった。
数駅、まるで生きたまま霊柩車に乗せられている気分で揺られていた。漸く目的の駅名がアナウンスされ、俺が入れられた棺桶がいよいよ火葬の順番を迎えた。
生きた心地がしないとは正に今のような気持ちをいうのだろう。
この前の入試だって、これまでの試験だって、こんな気持ちにはならなかった。
俺は震える足で電車からホームに降り立つ。
……もう既に帰りたい。
だけど祐生のことを思い出して、俺は自分の太腿を数回叩いて駅を出た。
駅を出ると、途轍もない既視感がまとわりつく。
当たり前か。十年近く前には此処に住んでいたんだから。
駅前の近くの光景は十年前とは変わっていなかったが、駅から離れると徐々に風景が違ってくる。
見知らぬ建物があって、あったはずの建物がなくなっている。
道が綺麗に舗装されている。でも確かこの角を曲がれば……。
角を曲がると、大きなマンションが見えてくる。
覚えてる。
昔住んでいたマンションだ。
そのマンションの前には大きな公園があって、確かあそこに……。
公園は昔のままそこにあった。
だけど土曜日の昼だというのに子供が誰もいない。
今の時代、子供は公園ではなく家でゲームの方が楽しいのだろうか。
俺は不思議に思い遠目から公園を眺めるが、幸か不幸か『あの女』の姿はない。あの不気味な姿を見なくて済んだことに俺は心の底から安堵する。
やっぱりあのシミを『あの女』の仕業だと決めつけたのは早計だったのだろうか。
それなら祐生に付けられたあのシミは一体誰がつけたのか。
俺が考え込んでいると、不意に近くと小さな男の子と母親の親子連れが通りかかる。
男の子は公園を見ると母親の手を引いて「ままあ、ぶらんこ!」と言って公園へ行きたい素振りを見せる。
何だ、ちゃんと外で遊ぶ子供がいるじゃん。ただタイミングが悪かっただけか。
そう思うのも束の間で、母親は慌てて男の子の手を引っ張り「あの公園は駄目」と嗜める。
駄目って何だ。
俺は思わず母親に声をかける。
「あの……そこの公園って何かあるんですか? 弟が今度友達とこの公園で遊ぶって話をしてたんですけど。あぁ、遊具が危ないって話ですか?」
驚く程それっぽいことを並べ立てる。
母親は俺の言葉にぎょっとする。
「あの公園で遊ぶのは止めた方が良いわ。あそこで遊ぶと子供が病気になるって」
「それって子供同士で風邪をうつしあうみたいなそういうことですか?」
「私も詳しく知らないけど、時々そういう子供が出るみたいなの。急に元気がなくなってぐったりしちゃうらしいのよ。噂では祟られてるって話だけど」
「祟られてる、ですか」
俺が母親の言葉をオウム返しすると、彼女は自分が口走った言葉を否定するかのように口元に手を置く。
「変なこと言ってごめんなさいね。ただあの公園、私も良い感じがしないから」
母親はそう言うと男の子の手を引いて去ってしまう。
俺は親子を見送りながら、母親が放った『祟られている』という言葉を思い出す。
あの公園には、今も何かがいるのか。
そう思いながら、俺は改めて公園に視線を向ける。
だけど公園を見た瞬間、今日に吐き気がこみ上げる。
俺は確かに誰もいなかったはずの公園に、黒い服をきた女がいることに気が付く。
長い髪の黒い服を着た女。
見間違えるはずもない。十年くらい前に、確かに俺はアイツを見た。
足が竦む。
身体が震える。
奥歯がガチガチと音を立てる。
逃げたいという気持ちが俺の生存本能を揺さぶる。
今すぐ踵を返してこの場から離れたい。
そこには、俺の人生のトラウマがいた。
もう二度と見えることはないと思っていたのに。
こいつ会うのはもう夢の中だけだと思っていたのに。
後悔と恐怖。ありとあらゆる負の感情が逃げろと俺の背中を押す。
呼吸が浅くなる。
まるで激しい運動でもしているかのようなに汗がダラダラと溢れる。
だけど俺は何とかその場に踏み止まる。
やっぱりコイツが再び祐生に障ったのだ。
それならやっぱり逃げるわけにはいかない。
俺は『お兄ちゃん』なのだから。
俺は大きく深呼吸をすると、意を決して公園へと歩き出す。
子供が一人もいない公園は、俺の記憶のままの公園だった。
砂場があり、ブランコがあり、ジャングルジムがある。
俺がこんな情けない自分になった『原点』の場所。
俺は真っ直ぐに、震える足で恐怖に耐えながらゆっくりと歩く。
『あの女』は突然やってきた高校生を見ると、まるで新しい獲物を見つけたのか口の端をあげて笑う。
その笑みが、怖い以上に腹が立った。
「まだこんなところに嫌がったのか。さっさと消えちまえ」
俺はそう言い放つ。
すると、本来自分を見ないはずの人間が、しっかりと自分を見据えて声をかけてくることにソイツは更に笑みを深くする。
俺は遂にソイツの前まで来ると、十年分の怒りを込めて睨みつけた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます