第3話 奇跡的な生還
生死の境を彷徨うほどの大事故から奇跡的な生還をはたしたものの、入院生活は三ヶ月の余に及んだ。1週間だと言う人もいれば、いや10日間だったと言う人もいるが、中々意識が戻らずに、一時は諦めたということだった。その折の、父の看病ぶりはすさまじいものだったらしい。毎晩浴びるように飲んでいた酒をピタリと止めて、毎晩のように出かけていた会合やら接待事もピタリと止めて、わたしのそばに付きっきりだと聞かされた。
母にしてもお茶絶ちをしてくれて、仏壇の前でご先祖さまに祈り続けたと聞かされた。まだ幼い兄の世話をせねばならぬこともあり、わたしの元には殆ど来られなかったらしい。心のない人たちに、「旦那さまに任せっきりで、家で羽を伸ばしているそうよ」と散々陰口を叩かれたということだ。
たとえ事実でないことでも、何度もそして多人数の口の端に上ると真実となりかねない。わたしの退院後に、母は父の勘気に触れて相当激しく詰られた。同居していた中学生の叔父が取りなしてくれたお陰で、父の怒りも治まった。しかしこのことは、母の心の奥底に父に対する不信の念を抱かせたかもしれない。
「二十も年の離れた後妻だろ、跡取りの子どもを産ませるだけの女だよ」
「けど、町一番の美女じゃないか。ミスコンテストの優勝者だよ」
「そこはそれ、あの人の見栄さ」
喧しい噂が、母に届かないわけもない。父と先妻は涙ながらに別れさせられたと聞かされていた。子どもの産めぬ石女と蔑視された挙げ句に離縁され、実家に戻ることもできず、その行方は杳として知れぬものだった。戦前の当時においては跡取りを産めぬ嫁は、女性として人としての扱いを受けられぬ風潮が蔓延していた。働き者だった先妻で、父からの全幅の信頼とおそらくは愛情をも受けていたと思う。欄間にかけられていた写真の中に、比較的真新しい若い女性のものがあった。何気なく「あれは誰?」と兄が聞いていたが、「知らなくて良い!」と語気鋭く言われていたのをおぼろげに記憶している。
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