車輪を繕うオルロージュ

かんなづき

車輪を繕うオルロージュ

 あごも頭も白くした背の低い老人ろうじんは、コンクリートの目につかない裏路地ろじうらで小さな珈琲コーヒー店をやっていた。その壁に高くかかった時計は老人の頭を真似てゆきを積もらせながら、この世で唯一風化ふうかすることのない時間をただひたすらにっていた。


 老人は朝からこっほこっほとせき込みながら豆をいた。ほとんど客のない朝に響くのは、そののどのかげと秒針びょうしんが刻む心音のみであった。


 今朝けさの珈琲の香りが温かい黒楢オーク材の組まれた店をおおいつくすほどとなって、ちゃらりんと入り口のすずが音を鳴らした。珍しく朝から店の扉を引いた客に、老人は眉をすっと上げた。


「いらっしゃい。珈琲はめるかい?」


「あ、大丈夫だいじょうぶです」


「おや、大丈夫というのはどちらかな?」


 輪郭りんかくゆるやかな客は少し面倒のくさそうにかばんを椅子に置いた。


「飲みます、の方で」


 老人は満足そうに口角こうかくり上げて棚の扉をかちっと引いた。



 客は少年だった。


 少年は綺麗きれいに洗われた白いシャツの上に立派なこん色のネクタイを通していた。しかしその身なりとはあい反するように彼の水晶体は一切の光を反射させていなかった。


「学生さんかい?」


 老人は枝垂しだれた鼻を少年に向けた。


「ええ。まあ」


 襟元の校章に手をやりながら少年は曖昧あいまいに頷いて見せた。老人は目尻に皺を寄せると優しい声で目に余るほどゆっくり頷いた。すっかりびれた老人の椎間板ついかんばんはいくら油をしてもそれ以上さとく頷くことをがえんじないようだった。


「そうかい。いくらか立派に見えるねぇ。働いていてもおかしくないくらいだ」


 純白の珈琲カップにできたてを注ぎ落しながら微笑む老人を、少年はややいぶかしむように見つめた。


「……聞かないんですか?」


「ん? 何がかな」


「いえ」


 少年は人差し指にネクタイを巻きつけながら俯いた。


「平日の、朝ですし。学校がどうとか」


 老人は弾むような笑いを放った。咳持ちの喉もこういったことには作動しないのである。


「学生が学校に行かず、朝から珈琲を飲む。それもまたいい風情じゃないか。私は嫌いじゃないよ。それに、なにか理由があるのだろう? ならばいいじゃないか。珈琲でそっと体を温めてみるのも」


 客の前には一杯の珈琲が出される。この店では当たり前の光景である。それをすする人間は、扉の一歩外に懊悩おうのうたる人生を持つ者ばかりであった。そしてこの少年も、例外ではないのである。


 ゆらゆらと立ちのぼる湯気を見つめながら少年は口を開いた。


のうと、思ったんですよ」


「ほお、これはまた。なんだい? 転生でもしてみたいのかね」


「えっ?」


 冗談冗談、と老人は笑った。


「前に来たことがあるんだよ、そういう子がね。なんだかそういう文化があるみたいじゃないか。楽述らのべと言ったかな」


「あぁ。生憎あいにく、僕は狂言きょうげんが好みではないのですよ」


 秒針はまた一秒、また一秒と、時を売り飛ばす。


 老人は少年の目の前に椅子を置いて腰かけ、目と口をふさいだ。そうすれば、後は珈琲が教えてくれるのであった。


「わからないんです。もう、何も」


 珈琲は啜られた。それが何を温めるかは最後にならないと分からない。


 少年は青黒く煩瑣はんさ嘆息たんそくを放った。老人にはそれが、世界に作られたあざ疼痛とうつうを和らげようとした辻褄つじつま合わせの吐息に思えた。


「何が分からないのだい? いや、逆に何なら分かるのだ?」


 老人は覚束ない空中にそんな問いを立てかけた。天井からぶら下がった橙色とうしょくのランプが微かに揺れていた。


「それは……」


 啜られた珈琲の苦みが胃の中に静かに落ちていく。分かることと言ったら、実際その程度なのである。


「私もわからんことだらけだよ。君を四つ数えても足りないくらいの時間をこの世界と共にしたけどね、わからないってことに気付くばかりだったさ」


 少年はうんと昔の哲学者がそのようなことを言っていたことを思い出した。


「おじいさんは、これのために生きるとか、ありましたか?」


 少年らしい、素朴な質問だった。老人はそれに対しては無言をつらぬいた。答えがないのではなく、返事をすることがないと言うのが答えだったのだ。


 少年はまた秒針を背中に珈琲を啜った。


「なんでこんなに難しいんでしょう。生きるなんて、望んでないのに」


「難しくはないさ」


「え?」


 老人は天井を見上げた。


「君は、死ぬの対義たいぎは何だと思うかい?」


「死ぬ、ですか」


「そう、君が望んでいるそれだ」


 毎日いくつもこの世から命を奪っていく死神しにがみたちは、何か交換条件を飲んでいるのだろうか。少年は珈琲に答える。


「生きる、ではないのですか」


 老人は喉の奥に笑みを埋め込んでいた。そうしていくらか肩を震わした後、少年の方へ顔を下ろした。


まれる、だ。生きるというのはね、ただの状態じょうたいにすぎないのだよ」


「状態、ですか」


「だいたいね、心臓を動かして呼吸をしていれば生きていることになるだろう? よく考えれば人間はこの二つを無意識むいしきのうちにおこなってしまう」


 

 人間は昔から言葉遊びが好きな生き物だった。簡単なことを自ら難しくしてあれこれ悩むのがこれ以上ない愉悦ゆえつなのである。



「君たちのような若者はいつだってそうだと思うよ。生きるという言葉を、無数の修飾にまみれた動詞だと思って疑わない。どうなんだろうね、本当のところは」


 少年は珈琲カップに通していた指を引き抜いた。


 秒針はまだ時をおろしている。


「人間というものは生きなければならないほど、死を渇望かつぼうしてしまうものなんだろうね。八十年も人間をやっているとそういう人たちにもたくさん出会ったりしたけどね、正解こたえは全く見つからなかった。何人もの人々が、車輪しゃりんしたで、生涯しょうがいを終えたんだろうね」


「生きていたところで、どちらにしても僕たちは車輪の下ですよ」


 綺麗なネクタイを結んだ少年はそう言った。


「はっはっは。そうかも分からないね」


 少年の啜った珈琲はまた一つ彼にため息を吐かせた。


「おじいさんは死のうとしている人を止めたりはしないのですか」


 老人は顎の白を指でなぞった。確かにこの店の空気は、相談所の様な表だけをうれいた無機質ではなかった。珈琲の味だけが、啜り手をそっとうけがうのみであった。


 そのような空気が少しばかりの違和感となって少年の肺胞はいほうを膨らませたのだろう。


「止めはせんよ。今の若者は私のような皺寄せの言葉など耳に入れないだろう。それでいいんだ。その心が私は好きなのだよ」


「それは見殺しではないのですか」


「もちろんただ黙って送るわけじゃないさ。そういう若者には、一つだけ話を聞いてもらうのさ」


「話、ですか?」


 老人は大きく咳込んだ。その喉はどうやらいつまでも大人しくしているわけではないようである。少年は思わず腰を浮かせた。


「大丈夫ですか」


「あ、あぁ。私の体もぼろが出て来たのだよ。まあその病身びょうしんの適当なひとちとでも思って聞いてくれ」


 少年は再び腰を下ろした。それを聞くための珈琲はまだカップに残っていた。



「私が君にしたいのはね、たった一つの質問なんだ。これはね、私の学生時代の友人が私に寄越よこした手紙にあったものなんだ」


「手紙ですか」


「あぁ。君は手紙などは書かないかもしれんね」


「まあ、そうですね」


 人々の足を電波が介添かいぞえるようになってから、自分の言葉を筆に乗せることなどほとんどなくなってしまった。少年は手紙を書くほどの大切な人を持ち合わせていなかった。


「私とその友人は学寮生だったのさ。里帰りをする時以外はずうと顔を突き合わせているのだよ。ほとんど家族と言ってもいい」


「同じ寮室だったのですか」


「あぁ、その通りだ。でもある時、友人は突然死んだのだ。ずうと二人で過ごした部屋でね」


 少年はその時、老人の目の灰色の、然し耐え目なく流動りゅうどうしているのを見た。


「朝、眠いと言って布団から出てこないものだから、私は先に学舎の方へ向かったのだ。ところが、あんまりにその姿が現れないものだから、もう一度寮室をのぞきに行ったのだよ」


 老人は自分の目の前にもう一つ白い珈琲カップを用意した。


「学友が首を吊っている姿を朝から見るのはいい気分ではないね。いや、それが学友でなくて、こしらえられたにわとりなどの死骸むくろだとしても私は一生覚えることになっただろう」


 少年は珈琲に目を落としながら老人の声を鼓膜こまくしていた。


「手紙と言うのは、もしや遺書いしょですか」


「あぁ、その通りだよ。彼の机の引き出しから、誰に当てられたのかもわからない手紙が見つかったのさ」



 俺を殺したのは、誰だろうか。



「そう書かれていた。いや、それ以外は何も書かれてなかった。警察が入った時には、まあ真っ先に私が疑われたがね、生憎、私とその友人の間は良好だった」


 少年はまた珈琲を啜った。まだかすかに温かいが、すっかり味は変わっていた。


「少年、これがたった一つの質問なのだ。私の友人を殺したのは誰だと思うかね」


「殺したって、自殺ではないのですか? ではその友人自身なのでは」


 時計がかちこち働くように、老人はいくらか笑い弾んだ。尾鰭おひれの方は、もう咳との見分けがつかないほどであった。


「それは、自らを殺すと同時に、自らが殺されることを言うのだよ。私の友人はきっとそんなことを聞きたいのだろう。だから私は彼に会いに行く前にその答えを調ととのえてやりたいのさ」


 老人は自分の手元に用意した珈琲を啜った。それが冷え切った老人の何を温めるのか、少年には想像がつかなかった。


「少年も、どうせ死んでしまうのなら、己が何に殺されるのかを考えてみてはどうだい? そうして私に教えてくれ」


「何に、殺される……?」


「君にとってそれは何だね。車輪かい? それとも秒針かい? そしてそれは私の友人と同じ陰を持ち合わせたものだったのかい?」


 少年は黙った。今になって珈琲の苦みが尾を引くのである。



「生きているのは簡単だよ。数える必要なんて何処いずこにもない。ただ考えておくれ。何もしなくてもいいから、いつかきっと、私の所に答えを持って来ておくれ。私はここで珈琲をれるだけしかないからね」



 それは確かに約束であった。


「おや、珈琲がなくなってしまったようだね。後は君の番だ。君はこれからどこに行く? レールの上かい? 車輪の下かい?」


「わかりません」


 少年は正直にそれだけ呟いた。老人は珈琲を流しながら目尻をたおやかに棚引たなびかせていた。


「それでいい。今日、眠るところは?」


「家があります」


「じゃあそこに帰ってみればよいだろう。そうしていつかまた来ておくれ。私の秒針がこの喉を刻む前にね」


 老人の微笑みを正面に、少年は席を立った。


「珈琲、美味おいしかったです」


 カウンターに硬貨こうかが三枚置かれた。


「まいど。身体を冷やすんじゃないよ。死体になった後以外はね」


「はい」


 少年は綺麗なネクタイをもう一度首元まで締め上げ、隣の席に置いていた鞄を取り上げた。珈琲が温めたのは、彼の透き通った水晶であった。


 オルロージュが鈴の音を受け取った。


 

 老人がその少年の吐息を再び見ることはなかった。

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