車輪を繕うオルロージュ
かんなづき
車輪を繕うオルロージュ
老人は朝からこっほこっほと
「いらっしゃい。珈琲は
「あ、
「おや、大丈夫というのはどちらかな?」
「飲みます、の方で」
老人は満足そうに
客は少年だった。
少年は
「学生さんかい?」
老人は
「ええ。まあ」
襟元の校章に手をやりながら少年は
「そうかい。いくらか立派に見えるねぇ。働いていてもおかしくないくらいだ」
純白の珈琲カップにできたてを注ぎ落しながら微笑む老人を、少年はやや
「……聞かないんですか?」
「ん? 何がかな」
「いえ」
少年は人差し指にネクタイを巻きつけながら俯いた。
「平日の、朝ですし。学校がどうとか」
老人は弾むような笑いを放った。咳持ちの喉もこういったことには作動しないのである。
「学生が学校に行かず、朝から珈琲を飲む。それもまたいい風情じゃないか。私は嫌いじゃないよ。それに、なにか理由があるのだろう? ならばいいじゃないか。珈琲でそっと体を温めてみるのも」
客の前には一杯の珈琲が出される。この店では当たり前の光景である。それを
ゆらゆらと立ち
「
「ほお、これはまた。なんだい? 転生でもしてみたいのかね」
「えっ?」
冗談冗談、と老人は笑った。
「前に来たことがあるんだよ、そういう子がね。なんだかそういう文化があるみたいじゃないか。
「あぁ。
秒針はまた一秒、また一秒と、時を売り飛ばす。
老人は少年の目の前に椅子を置いて腰かけ、目と口を
「わからないんです。もう、何も」
珈琲は啜られた。それが何を温めるかは最後にならないと分からない。
少年は青黒く
「何が分からないのだい? いや、逆に何なら分かるのだ?」
老人は覚束ない空中にそんな問いを立てかけた。天井からぶら下がった
「それは……」
啜られた珈琲の苦みが胃の中に静かに落ちていく。分かることと言ったら、実際その程度なのである。
「私もわからんことだらけだよ。君を四つ数えても足りないくらいの時間をこの世界と共にしたけどね、わからないってことに気付くばかりだったさ」
少年はうんと昔の哲学者がそのようなことを言っていたことを思い出した。
「おじいさんは、これのために生きるとか、ありましたか?」
少年らしい、素朴な質問だった。老人はそれに対しては無言を
少年はまた秒針を背中に珈琲を啜った。
「なんでこんなに難しいんでしょう。生きるなんて、望んでないのに」
「難しくはないさ」
「え?」
老人は天井を見上げた。
「君は、死ぬの
「死ぬ、ですか」
「そう、君が望んでいるそれだ」
毎日いくつもこの世から命を奪っていく
「生きる、ではないのですか」
老人は喉の奥に笑みを埋め込んでいた。そうしていくらか肩を震わした後、少年の方へ顔を下ろした。
「
「状態、ですか」
「だいたいね、心臓を動かして呼吸をしていれば生きていることになるだろう? よく考えれば人間はこの二つを
人間は昔から言葉遊びが好きな生き物だった。簡単なことを自ら難しくしてあれこれ悩むのがこれ以上ない
「君たちのような若者はいつだってそうだと思うよ。生きるという言葉を、無数の修飾に
少年は珈琲カップに通していた指を引き抜いた。
秒針はまだ時を
「人間というものは生きなければならないほど、死を
「生きていたところで、どちらにしても僕たちは車輪の下ですよ」
綺麗なネクタイを結んだ少年はそう言った。
「はっはっは。そうかも分からないね」
少年の啜った珈琲はまた一つ彼にため息を吐かせた。
「おじいさんは死のうとしている人を止めたりはしないのですか」
老人は顎の白を指でなぞった。確かにこの店の空気は、相談所の様な表だけを
そのような空気が少しばかりの違和感となって少年の
「止めはせんよ。今の若者は私のような皺寄せの言葉など耳に入れないだろう。それでいいんだ。その心が私は好きなのだよ」
「それは見殺しではないのですか」
「もちろんただ黙って送るわけじゃないさ。そういう若者には、一つだけ話を聞いてもらうのさ」
「話、ですか?」
老人は大きく咳込んだ。その喉はどうやらいつまでも大人しくしているわけではないようである。少年は思わず腰を浮かせた。
「大丈夫ですか」
「あ、あぁ。私の体もぼろが出て来たのだよ。まあその
少年は再び腰を下ろした。それを聞くための珈琲はまだカップに残っていた。
「私が君にしたいのはね、たった一つの質問なんだ。これはね、私の学生時代の友人が私に
「手紙ですか」
「あぁ。君は手紙などは書かないかもしれんね」
「まあ、そうですね」
人々の足を電波が
「私とその友人は学寮生だったのさ。里帰りをする時以外はずうと顔を突き合わせているのだよ。ほとんど家族と言ってもいい」
「同じ寮室だったのですか」
「あぁ、その通りだ。でもある時、友人は突然死んだのだ。ずうと二人で過ごした部屋でね」
少年はその時、老人の目の灰色の、然し耐え目なく
「朝、眠いと言って布団から出てこないものだから、私は先に学舎の方へ向かったのだ。ところが、あんまりにその姿が現れないものだから、もう一度寮室を
老人は自分の目の前にもう一つ白い珈琲カップを用意した。
「学友が首を吊っている姿を朝から見るのはいい気分ではないね。いや、それが学友でなくて、
少年は珈琲に目を落としながら老人の声を
「手紙と言うのは、もしや
「あぁ、その通りだよ。彼の机の引き出しから、誰に当てられたのかもわからない手紙が見つかったのさ」
俺を殺したのは、誰だろうか。
「そう書かれていた。いや、それ以外は何も書かれてなかった。警察が入った時には、まあ真っ先に私が疑われたがね、生憎、私とその友人の間は良好だった」
少年はまた珈琲を啜った。まだかすかに温かいが、すっかり味は変わっていた。
「少年、これがたった一つの質問なのだ。私の友人を殺したのは誰だと思うかね」
「殺したって、自殺ではないのですか? ではその友人自身なのでは」
時計がかちこち働くように、老人はいくらか笑い弾んだ。
「それは、自らを殺すと同時に、自らが殺されることを言うのだよ。私の友人はきっとそんなことを聞きたいのだろう。だから私は彼に会いに行く前にその答えを
老人は自分の手元に用意した珈琲を啜った。それが冷え切った老人の何を温めるのか、少年には想像がつかなかった。
「少年も、どうせ死んでしまうのなら、己が何に殺されるのかを考えてみてはどうだい? そうして私に教えてくれ」
「何に、殺される……?」
「君にとってそれは何だね。車輪かい? それとも秒針かい? そしてそれは私の友人と同じ陰を持ち合わせたものだったのかい?」
少年は黙った。今になって珈琲の苦みが尾を引くのである。
「生きているのは簡単だよ。数える必要なんて
それは確かに約束であった。
「おや、珈琲がなくなってしまったようだね。後は君の番だ。君はこれからどこに行く? レールの上かい? 車輪の下かい?」
「わかりません」
少年は正直にそれだけ呟いた。老人は珈琲を流しながら目尻をたおやかに
「それでいい。今日、眠るところは?」
「家があります」
「じゃあそこに帰ってみればよいだろう。そうしていつかまた来ておくれ。私の秒針がこの喉を刻む前にね」
老人の微笑みを正面に、少年は席を立った。
「珈琲、
カウンターに
「まいど。身体を冷やすんじゃないよ。死体になった後以外はね」
「はい」
少年は綺麗なネクタイをもう一度首元まで締め上げ、隣の席に置いていた鞄を取り上げた。珈琲が温めたのは、彼の透き通った水晶であった。
オルロージュが鈴の音を受け取った。
老人がその少年の吐息を再び見ることはなかった。
車輪を繕うオルロージュ かんなづき @octwright
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