もしかして……。 ③
****
――翌日の朝。愛美は八時になってやっとダイニングまで下りてきた。
「おはようございます。――すみません、多恵さん! 朝ゴハンの支度お手伝いするつもりだったのに、寝坊しちゃって」
農家の朝は早い。愛美も普段は朝早くに起きて、多恵さんや佳織さんと一緒に朝食の準備を手伝っているのだけれど。昨晩はなかなか寝付けなかったので、朝目が覚めるのも遅くなってしまったのだった。
「あらあら。おはよう、お寝坊さん。いいのよ愛美ちゃん、たまには朝のんびり起きてくるのも。誰だって、早く起きられない日くらいあるものね」
「ええ、まぁ……」
愛美はテーブルに純也さんもついていることに気づき、頬を染めた。
彼とキスをしてまだ数時間しか経っていないので、ちょっとばかり気まずい。
「愛美ちゃん、おはよう」
「……おはようございます」
けれど、純也さんはいつもとまったく変わらない調子で挨拶してくれたので、愛美はまだ少し照れながら挨拶を返した。
「ゆうべはあんまり寝られなかった?」
「えっ? ……まぁ。だから、しばらく起きてました」
彼と面と向かって言葉を交わしているだけで、愛美には昨晩の出来事がありありと思い出せる。今もまだ、あの時の延長線上にいるような気持ちになるのだ。
「そっか……。なんか僕、君に悪いことしちゃったな」
「そっ……、そんなことないです! わたしは別に、あれで困ってるワケじゃ……」
申し訳なさそうに頬をポリポリ掻く純也さんに、愛美はもごもごと弁解した。
「あら? 坊っちゃん、昨夜は愛美ちゃんと何かあったんですか?」
そんな二人の様子を眺めていた多恵さんが、会話に割って入った。
「まさか坊っちゃん、愛美ちゃんに手をお出しになったんじゃないでしょうね? お預かりしてる大事なお嬢さんで、しかもまだ未成年なんですから。傷ものにしてもらっちゃ困ります!」
「おいおい! 多恵さん、ずいぶんな言い草だな……。――実はさ、僕と愛美ちゃんは付き合うことになったんだ」
ね? というように、純也さんは愛美を見た。
「……はい、そうなんです。純也さんもわたしのこと好きだったみたいで。手は……出されてない……と思います。キス……したくらいで?」
愛美は純也さんの視線に圧を感じたわけではないけれど、「話していいのかなぁ」と思いながら、しどろもどろに多恵さんに話した。
「あらまあ、そうだったんですか! よかったわねぇ、愛美ちゃん。個人的に連絡を取り合うようになったって言ってたのは、そういうことだったんですねぇ……」
「うん。僕はね、彼女が未成年ってことや、十三歳も年が離れてることもあって、告白するのをためらってたんだけど。彼女が『それでもいい』って言ってくれたから」
純也さんは純也さんで悩んでいたんだと、愛美は昨晩知った。だから、「それでもいい」と言った愛美の言葉がどれだけ彼の救いになったか、彼女には分かる。
「ええ、ええ。キスなんて手を出したうちには入りません! 法に触れるようなことさえしなきゃいいんです。その代わり坊っちゃん、愛美ちゃんを泣かせるようなことがあったら、その時は私が許しませんよ!」
「分かってるよ。っていうか、多恵さんは一体どっちの味方なんだ」
「多恵さん、わたしのお母さんみたい」
多恵さんの熱のこもった演説に純也さんは呆れ、愛美は笑った。
これじゃあまるで、娘に彼氏ができた時の母親みたいだ。さしずめ、純也さんがその彼氏というところか(まあ、実際に彼氏になったのだけれど)。
「それより多恵さん、早く朝食にしてくれよ。僕も朝寝坊して、今すごく腹ペコなんだから」
「わたしも。お手伝いすることがあったら、何でも言って下さい」
「はいはい。――あ、愛美ちゃんは座ってていいわよ。すぐできますからね」
多恵さんがそう言うので、愛美は素直にその言葉通りにした。他の人たちの朝食はもう済んでいるようで、今テーブルについているのは愛美と純也さんの二人だけだ。
「愛美ちゃん、あのさ。……僕に
二人きりになったからなのか、純也さんがばつの悪そうな顔でそう切り出した。実はあのことを、かなり気にしていたらしい。
「そんな……。幻滅なんかしませんよ。そりゃあ……、もっと強引だったら幻滅しちゃってたかもしれないけど」
愛美は思いっきり否定した。あんなにやさしいキスで幻滅していたら、恋なんてしていられない。
「よかった。純也さんがよく小説に出てくるような俺様な御曹司じゃなくて。わたし、ああいう男の人たちって好きじゃないんです。女の子が何でも自分の思い通りになると思い込んでる。ふざけるなって思います」
小説の登場人物に腹を立てても……と、純也さんは苦笑い。
「そうだね。僕は強引に恋愛を進めたいタイプじゃないから。っていうか、できないし。愛美ちゃんに嫌われるのが一番イヤだもんな。せっかく僕のことを本気で好きになってくれたんだから、大事にしたいんだ」
「純也さん……、ありがと」
愛美は心からの笑顔で、彼にお礼を言った。
「――で、今日はどうするんだい? 僕は、一緒にバイクでツーリングしたいなぁって思ってるんだけど」
「あ……、今日は郵便局に行くつもりでいたんだけど」
「郵便局? ……ああ! 小説を応募しに行くんだね」
「はい。あと、おじさまに手紙出すのもね。これだけの厚みになっちゃったモンだから、通常の料金じゃ足りないと思って」
愛美はもう出かける支度をしてあって、リュックには郵便局に持っていく二通の封筒も入っているのだ。そこから小さいほうの封筒を取り出して、純也さんに見せた。
「これは……、確かに分厚いな。明らかに二センチはありそうだ。これじゃ、郵便局に持って行って、料金を調べてもらうしかないな」
「でしょ? もう一週間くらい書き溜めてあったの。でも、ついつい出しに行きそびれちゃって、気がついたらこんな状態に……」
〝あしながおじさん〟はきっと、愛美からの手紙を首を長くして待っているだろう。――そう思うと、愛美は申し訳ない気持ちになる。
(でも……、もしも純也さんがおじさまの正体なら、今手紙を出したって意味がないってことになるんだよね……)
愛美は向かいに座っている純也さんの顔をチラッと窺う。
「あの、そろそろ封筒返してもらっていいですか?」
愛美は純也さんに向かって手を差し出す。
「ああ、ゴメン! ……ん? ちょっと待って。〝久留島栄吉〟っていうのが田中さんの秘書の名前なのかい?」
やっと封筒を返してもらえた愛美は、目を丸くした。
「ええ、そうですけど。純也さんスゴい!」
「えっ! スゴいって何が?」
「初めてこの字見て〝くるしま〟ってすんなり読める人、めったにいないの。だいたいの人は〝くりゅうじま〟とか〝きゅうりゅじま〟って読んじゃうんです。だからスゴいな、って」
「ああ、そういうことか。――ほら、田中さんと僕は知り合いだろ? だから、彼の秘書のことも知ってたんだ」
「…………へえ、そうなんですか。今までそんなこと、一度も言ってくれたことないから」
しれっと弁解する純也さんに、愛美の疑惑はますます膨れ上がっていく。
(多分この人、ウソついてる。わたしが気づいてないと思ってるんだ)
手紙を出すのをやめようかと一瞬考えたけれど、そんなことをしたら純也さんに不審に思われかねないし、まだそうと確信したわけでもないので、やっぱりこの手紙は出すことにした。
「ね、愛美ちゃん。郵便局に行くなら、僕のバイクの後ろに乗っていかないか? そのついでにツーリングに行こうよ」
「はいっ! ありがとう、純也さん!」
それに、彼と一緒にいられる時間は心から楽しみたいので。
(今はまだ、このままでいよう。彼が話してくれるまで……)
彼にも色々と打ち明けられない事情があるんだろう。それなら、もし愛美の疑惑が本当のことだったとしても、可能な限り気づいていないフリをしていようと、愛美は心に決めた。
****
「――さあ、愛美ちゃん。しっかりつかまってるんだよ」
朝食後、自前のオフロードバイクのエンジンをかけた純也さんは、スペアのヘルメットをかぶって後ろに乗った愛美にそう言った。
「はい! わぁ、ドキドキするな……」
好きな人と、バイクや自転車の二人乗りをする。愛美にはずっと憧れのシチュエーションだった。でも機会がないまま十七歳になって、今日初めての二人乗りが実現したのだ。
愛美はそっと両腕を伸ばして、純也さんの引き締まったお腹に回した。
「コレをできるのが、両想いになってからでよかったです。片想いの時だったら、気まずくてできなかったと思うから」
彼の背中にもたれかかるのは、恋人である愛美だけの特権だと思う。
「うん。じゃあ行こう!」
二人の乗ったバイクは勢いよく、そして安全運転で走り出す。
田舎道なので、途中で何度もガタガタ揺れたけれど、それさえも愛美にはテーマパークのアトラクションのようで楽しかった。
「――郵便料金、いくらかかった?」
身軽になって郵便局から出てきた愛美に、純也さんは澄まし顔で訊ねた。
「二通で四百六十円とちょっと……。原稿はレターパックで送れたけど、手紙の料金が十円多くかかっちゃって」
「やっぱりなぁ。あれはいつも通りにポストに投函しても、料金不足になっちゃうよな」
「付き合ってくれてありがと。次はどこに行くの?」
「せっかくバイクで来たんだし、ちょっと遠出しようか。途中で昼食を摂って、それから帰るとしよう」
純也さんは愛美の質問に答えてから、嬉しそうに笑った。
「? どうしたの?」
「そういや愛美ちゃん、僕への敬語はどこに行ったの? さっきから思いっきりため口で喋ってるけど」
「あ……、ゴメンなさい! 付き合ってるからってつい……。敬語に戻した方がいいですよね」
「ううん、いいよ。直さなくていい。これからは対等に話そう」
「うん……!」
二人の間から敬語がなくなったおかげで、また少し距離が縮まった気がした。
――ただ、「純也さんが〝あしながおじさん〟じゃないか」という愛美の疑惑は、まだ晴れないままだけれど……。
****
――それから五日後、純也さんの休暇が終わり、彼は東京へ帰ることになった。
「愛美ちゃん、この夏は一緒に過ごせて楽しかったよ。残念だけど、僕は帰らないと」
純也さんは玄関先まで見送りに出た愛美に、名残惜しそうにそう言った。
「うん……。またデートしてくれるよね?」
「もちろんだよ。また連絡するからね」
「うん! わたしも、また連絡する。お仕事頑張ってね」
彼はこれから、また東京で忙しい日々を送ることになるのだ。恋人である自分からの連絡が、少しでも彼の癒しになってくれたら……と愛美は思う。
「うん、ありがとう。愛美ちゃんも頑張って夢を叶えなよ。僕も応援してる」
(そりゃそうだよね。だって、この人はそのためにわたしを……)
愛美の彼に対する疑念は、ほぼ確信に変わりつつあった。
考えてみたら、彼の言動はところどころ怪しかった。愛美はカンが鋭いので、それで「おかしい」と思わないわけがないのだ。
(まだ、本人に確かめなきゃいけないことはあるんだけど……)
「ありがと。……ねえ、純也さん」
気づいていないフリをしようと決めたものの、ついつい確かめてみたい衝動に駆られた愛美は思わず彼に呼びかけていた。
「ん? どうしたの、愛美ちゃん?」
(……ダメダメ! ここで確かめたら、わたしのせっかくの決意がムダになっちゃう!)
「あ……、ううん! 何でもない」
愛美はオーバーに首を振って、どうにかごまかした。
――こうして純也さんは帰っていき、愛美の夏休みも残りわずかとなった。
もう宿題は全部終わっているし、あとは横浜の寮に帰る準備をするだけだ。
――そんなある昼下がり。愛美のスマホに一本の電話がかかってきた。
「純也さん? ……じゃない! 学校の事務局からだ」
そういえば、奨学金の審査の結果は夏休み中に知らせてくれることになっていた。
「――はい、相川です」
『二年三組の相川愛美さんですね。こちらは茗桜女子大学付属高校の事務局です。申請してもらっていた奨学金の審査結果をお知らせします』
「あ……、はい! お願いします」
電話をかけてきたのは、学校の事務局で奨学金を担当している男性だった。声の感じからして、四十代から五十代と思われる。
『えー、審査を行いました結果、相川さんに奨学金を給付することが決定しました』
「えっ、本当ですか!? ありがとうございます!」
愛美は驚き、ホッとし、無事に審査を通してくれたことに感謝の言葉を述べた。
『はい。つきましては、相川さんが今後の学習においても、優秀な成績を修められることを私どもお祈りしております。しっかり頑張って下さい。では、失礼いたします』
「はい! 頑張ります。ご連絡ありがとうございました」
愛美は電話を切った後、ホッとして呟く。
「よかった……」
この一ヶ月半、心穏やかではいられなかった。純也さんと一緒にいる時でさえ、いつ連絡が来るかとソワソワしていたものである。
もちろん、奨学金を受けられることが決まったからといって、それがゴールではない。この先、ずっと優秀な成績を取り続ける必要がある。――けれど、元々成績優秀な愛美にはそれほど厳しいことではない。
「――あ、おじさまに報告しなきゃ! それとも、純也さんに連絡するのが先かな」
愛美は考えた。もしも純也さんと〝あしながおじさん〟が別人だったら、両方に知らせる必要があるけれど。
(もし同一人物だったら、わざわざ手紙で知らせる必要はなくなるってことだよね……)
愛美も本当はそうしたい。でも、それでは彼の方が不審がるかもしれない。
だって彼は、まさか愛美が自分の秘密に気づいているとは思っていないだろうから。それに、気づいていないフリをすると決めたのに、それでは意味がないし。
「とりあえず、先に純也さんに知らせて、その反応を見てからおじさまに手紙を書こう」
悩んだ末、最終的に愛美が出した結論は、これだった。
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