バイバイ、ネガティブ。 ②

「――愛美、具合はどう?」


 入院してから十一日後、愛美の病室にさやかがお見舞いにやってきた。

 看護師さんにベッドを起こしてもらっていた愛美は、窓の外を眺めていた。今日は朝から雨だ。


「うん、まあボチボチかな。食欲も出てきたけど」


「そっか、よかった。――コレ、今日の授業でとったノートのコピーね」


「さやかちゃん、ありがと」


 愛美はお礼を言いながら、さやかがテーブルの上に置いたルーズリーフの束を取り上げた。


 ――愛美は四日前には体温も三十七度台まで下がり、点滴も外してもらって、おかゆだけれど普通食を食べられるようになった。


 でも……、一つ気がかりなことがあって、それ以上病状がよくなってはいなかった。 


「さやかちゃん、……郵便受けには今日も何も?」


「うん、来てないよ。あれからもう四日経つよね。そろそろおじさまも、何かアクション起こしてもいい頃だと思うんだけど」


「そっか……」 


表情を曇らせて答えるさやかに、愛美はガックリと肩を落とす。


 ――愛美は医師の診察の結果、インフルエンザと診断された。入院してから数日は高熱が続き、おでこに冷却シートを貼られて点滴を打たれていた。

 四日前にやっと熱も下がってきて、起き上がっても大丈夫になったので、〝あしながおじさん〟に自分が今インフルエンザで入院中だということを手紙で書き送ったのである。前回、あんなひどい手紙を出してしまったことへの謝罪も兼ねて。

「あんなことを書いたのは、病気で神経が参っていたからだ」と。

 その手紙をさやかに出してきてもらい、もう四日。さやかの言う通り、そろそろ返事か愛美の容態ようだいを訊ねる手紙でも来ないとおかしいのに……。


「……わたし、おじさまにとうとう愛想尽かされちゃったかな」


「ん?」


 愛美がポツリと呟く。彼女はある可能性を否定できなかった。

 〝あしながおじさん〟はあの最悪の手紙に腹を立て、自分のことを見限ったんじゃないか、と。

 こんな失礼なことを書くような子には、もう援助する価値もないと。

 愛美自身、その自覚がある。今となっては、どうしてあの時にあんなバカなことを書いてしまったんだろうと後悔している。

 甘え下手にもほどがある。他にいくらでも書きようはあったはずなのに……。


「さやかちゃん、わたし……。おじさまに見捨てられたら、もうここにはいられなくなるの。他に行くところもないの。取り返しのつかないことしちゃったかもしれない」


「大丈夫だって、愛美! おじさまはこんなことで、愛美のこと見捨てたりしないよ! そんな器の小さい人じゃないはずでしょ? それは愛美が一番よく知ってるはずじゃん?」


「うん……」


 まだ〈わかば園〉にいた頃、中学卒業後の進路に悩んでいた愛美に手を差し伸べてくれた唯一の人が〝あしながおじさん〟だった。他の理事さんたちは、誰一人として助けてくれなかったのに。

 高校入試の時にも、高校に入ってからも、彼は愛美に色々な形で援助をしてくれている。

 そんなふところの深い人が、こんな小さなことで愛美を見放すわけがないのだ。


「まあ、あたしもまた小まめに郵便受け覗いてみるから。あんまり悩みすぎたらまた熱上がっちゃうよ。愛美は早く病気治して、退院することだけ考えなよ。……あんまり長居するのもナンだし、あたしはそろそろ失礼するね」


「うん。さやかちゃん、毎日お見舞いに来てくれてありがとね」


「いいよ、別に。インフルエンザならあたしはもう免疫できてるし、親友だもん。珠莉も一回くらい来りゃあいいのに」


 さやかは口を尖らせた。

 愛美が入院してから、彼女は毎日病室に顔を出しているけれど、珠莉は一度も来ていない。理由は、「インフルエンザのウィルスをもらいたくないから」らしい。


「予防接種くらい受けてるはずじゃん? 友達なのに薄情なヤツ!」


「……ゴメン、さやかちゃん。わたしも予防接種は……。注射が苦手で」


 きっと珠莉も注射が苦手だから、インフルエンザの予防接種から逃げていたんだろう。愛美にはその気持ちが痛いほど分かる。


「えっ、そうだったの? ゴメン、知らなかった」


 自身は注射を打たれてもケロリンパとしていられるさやかが、知らなかったこととはいえ愛美に謝った。


「じゃあ、また明日来るね」


 さやかが病室を出ていくと、愛美は個室に一人ポツンと残された。「インフルエンザは感染症だから、隔離かくりが必要」ということでそうなったのだ。

 同じ一人部屋でも、寮の部屋とはまるで違う。寮なら隣りの部屋にいるさやかと珠莉が、ここにはいない。

 こうしてお見舞いには来てくれるけれど、帰ってしまうと一人ぼっちになってしまうのだ。


「まだ降ってる……」


 窓の外をじっと見つめながら、愛美は呟いた。朝からずっと降り続いている雨は、今の愛美の心によく似ている。


(さやかちゃんはああ言ってくれたけど、ホントにおじさま、わたしに愛想尽かしてないのかな……?)


 こんな天気のせいだろうか? 愛美の心もすっきり晴れない。


 ――と、そこへ一人の看護師さんがやってきた。赤いリボンの掛けられた、やや大きめの真っ白な箱を抱えて。


「――相川さん。コレ、お見舞い。ついさっき届いたんだけど」


「……えっ? ありがとうございます……」


(お見舞い? 誰からだろ?)


 箱を受け取った愛美は、首を傾げながら箱に貼られた配達伝票を確かめる。――と、そこには信じられない名前があった。


「田中……太郎……」


 秘書の〝久留島栄吉〟の名前ではなく、〝あしながおじさん〟の仮の名前がそこには書かれている。しかも、直筆で。 


「送り主は、あなたの保護者の方?」


 先に名前を確かめたらしい看護師さんが、愛美に訊ねた。


「はい。――あの、開けてもいいですか?」


「ええ、もちろん。どうぞ」


 リボンをほどいて箱のフタを開けると、そこにビッシリ入っているのはピンク色のバラの花。


「フラワーボックスね。キレイ」


「はい……。あ、メッセージカード?」


 思わず感動を覚えた看護師さんに頷いた愛美は、バラの花の上に乗っている小ぶりな封筒に気づいた。

 

『相川愛美様    田中太郎』


 表書きの字は、伝票の字と同じで右下がりの変わった筆跡だ。


****


『相川愛美様

 一日も早く、愛美さんの病状がよくなりますように。回復を祈っています。

           田中太郎より  』


****


 二つ折りのメッセージカードには、これまた封筒の表書きと同じ筆跡でそれだけが書かれていた。


(おじさま、わたしの手紙、ちゃんと読んでくれてるんだ……)


 カードの文字を見つめていた愛美の目に、みるみるうちに涙が溢れてきた。


 もちろん、この贈り物が嬉しかったからでもあるけれど。〝あしながおじさん〟のことが信じられなくなって、あんな最低な手紙を書いてしまった自分が情けなくて、腹立たしくて。


(……わたし、バカだ。おじさまはこんなにいい人なのに。返事がもらえないことも分かってたのに、あんなことして、おじさまを困らせて)


 愛想を尽かされても仕方のないことをしたのに、お見舞いのお花に手書きのメッセージカードまで送ってくれた。――愛美は今日ほど、〝あしながおじさん〟の存在をありがたいと思ったことはない。


 愛美はそのまま、看護師さんが困惑するのもお構いなしに、声を上げて泣き出した。

 泣くのなんて、〈わかば園〉を巣立った日以来、約一年ぶりのことだ。あれからの日々は、愛美に涙をもたらさなかった。もう泣くことなんてないと思っていたのに。


「ほらほら、相川さん! あんまり泣くと、また熱が上がっちゃうから」


 オロオロしつつ、看護師さんがボックスティッシュを差し出す。それで涙と鼻水をかむと、数分後には涙も治まった。


「――あの、看護師さん。ペンとレターパッド、取ってもらってもいいですか?」


 気持ちが落ち着くと、愛美は看護師さんにお願いした。


「お礼の手紙、書きたくて。他にも書かないといけないことあるんで」


「……分かった。――はい、どうぞ。じゃあ、私はこれで。お大事に」


「ありがとうございます」


 看護師さんが病室を出ていくと、愛美はテーブルの上のペンをつかみ、レターパッドを広げた。

 〝あしながおじさん〟にお礼を伝えるため、そしてきちんと謝るために。


****


『拝啓、あしながおじさん。


 今日は朝から雨です。

 お見舞いに来てくれたさやかちゃんが帰ってから、ブルーな気持ちで外の雨を眺めてたら、看護師さんが病室に、リボンのかかった大きめの白い箱を持って来てくれました。「届いたばかりのお見舞いだ」って。

 箱を開けたら、キレイなピンク色のバラのフラワーボックスで、そこには伝票と同じ個性的な、それでいて人のさがあらわれてる筆跡で書かれた直筆のメッセージカードが添えてありました。

 わたし、それを読んだ途端、声を上げて泣いちゃいました。このお花が嬉しかったのももちろんありますけど、おじさまを信じられなかった自分をののしりたい気持ちでいっぱいになって。

 おじさまはわたしの手紙、ちゃんと読んで下さってたんですね。返事が頂けなくても、いつもわたしが困った時には助けて下さってるんだもん。

 おじさま、ありがとうございます。そして、ゴメンなさい。もう〝構ってちゃん〟は卒業します。それから、ネガティブになるのもやめます。わたしには似合わないから。

 さやかちゃんが言ってました。おじさまは絶対、わたしの手紙を一通ももれなくファイルしてるはずだって。だからこれからは、ファイルされても恥ずかしくないような手紙を書くつもりです。

 でも、こないだの最低最悪な一通だけは、ファイルしないでシュレッダーにでもかけちゃって下さい。あの手紙は、二度とおじさまの目に触れてほしくないですから。書いてしまったこと自体、わたしの黒歴史になると思うので。

 おじさま、もしかして「女の子は面倒くさい」なんて思ってませんか? では、これで失礼します。


                    三月三日    愛美    』


****


 ――翌日、さやかにこの手紙を投函してもらった愛美は、胸のつかえがおりたおかげでみるみるうちに元気になり、その二日後には退院することができた。

 〝やまいは気から〟とはよくいったものである。


「――さやかちゃん、珠莉ちゃん! ただいま!」


 二週間ぶりに寮に帰ってきた愛美は、自分の部屋に入る前に、隣りの親友二人の部屋にやってきた。

 元気いっぱいの声で、二人に笑いかける。


「おかえり……。愛美、もう大丈夫なの!?」


「うん、もう何ともないよ。さやかちゃん、毎日来てくれてありがとね。心配かけちゃってゴメン」


 ビックリまなこで訊ねたさやかに、愛美は安心させるように答えた。


 あのフラワーボックスが届いた日に流した涙が、愛美の中のわだかまりやネガティブな心を全部洗い流してくれたのかもしれない。


「愛美さん、一度もお見舞いに伺えなくてゴメンなさいね」


「いいんだよ、珠莉ちゃん。わたしも分かるから。注射が苦手だから、予防接種受けてなかったんでしょ?」


「……ええ、まあ」


(やっぱりそうなんだ)


 愛美はこっそり思った。

 つい一年ほど前に初めて会った時には、冷たくてとっつきにくい女の子だと思っていたけれど。こうして自分との共通点を見つけると、ものすごく親近感が湧いてくる。


「――もうすっかり春だねぇ……。そしてもうすぐ、あたしたちも二年生か」


「そうだね。もう一年経つんだ」


 暖かい日が少しずつ増えてきて、校内の桜の木もつぼみを膨らませ始めている。


 一年前、希望と少しの不安を抱いてこの学校の門をくぐった時は、愛美は独りぼっちだった。頼れる相手は、手紙でしか連絡を取れない〝あしながおじさん〟たった一人。もちろん、地元の友達なんて一人もいなかった。


 でも、今はさやかと珠莉という心強い二人の親友に恵まれた。他にもたくさんの友達ができた。

 もう一人でもがく必要はない。何か困ったことがあれば、まずはこの二人に話せばいい。それから〝あしながおじさん〟を頼ればいいのだ。


「――あ、そうだ。四月からあたしたち、三人部屋に入れることになったからね」


「えっ、ホント!? やったー♪」


 愛美はそれを聞いて大はしゃぎ。二学期が始まる前に、愛美とさやかとで話していたことが実現したらしい。


 さやかの話によれば、愛美の入院中にさやかがその話を珠莉にしたところ、「それじゃ私も一緒がいい」と珠莉も言いだしたのだという。

 そして、ちょうど具合のいいことに、同じ学年で三人部屋を希望するグループが他にいなかったため、空きが出たんだそう。


「来月からは、三人一緒だね。わたし、嬉しいよ。一人部屋はやっぱり淋しいもん」


「うん。あたしも珠莉も、愛美とおんなじ部屋の方が安心だよ。もうあんなこと、二度とゴメンだからね」


 愛美が倒れた時、発見したのはさやかと珠莉だった。女の子二人ではどうしようもないので、慌てて晴美さんと男性職員さんを呼んできて、車で付属病院まで連れて行ってもらったのだった。

「一緒の部屋だったら、もっと早く気づけたのに……」と、さやかも落ち込んでいたらしい。


「うぅ…………。その節はありがと。でも、もうわたし、一人で悩んだりしないから。もうネガティブは卒業したの」


「そっか」


 今は心穏やかでいられるから、悩むこともない。愛美は生まれ変わったような気持ちになっていた。


(バイバイ、ネガティブなわたし!)


 愛美は心の中でそう言って、後ろ向きな自分に別れを告げた。


 そして愛美の高校生活は、もうすぐ二年目を迎える――。

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