ナイフ男が捧げる愛の歌

羽鳥狩

人定質問

 人定質問が終わり、俺は検察官の読み上げる起訴状を聞いていた。

 検察官は地味なスーツを着た、三十前の若い女性だった。まだ慣れていないのか頬を紅潮させて朗読している姿は初々しく、可愛らしい。

 それに比べて、国選弁護人ときたらどうだろう。寝癖のついた髪の毛に、シワの目立つ背広、寝不足気味のうつろな眼、徹夜明けのサラリーマンという風情だ。

 裁判官が俺に尋ねる。

「検察官が朗読した起訴状の中で、間違っているところはないですね?」

 俺は「ありません」と答えた。

 たしかに俺は何も罪がない通行人をナイフで刺した。その事実は認める。とはいえ、庶民にはとうてい理解出来ない崇高な目的があったのだ。

 警察の取り調べで俺が話す犯行動機は理解されなかった。というよりもあいつらは理解しようとはしなかった。

「解剖台の上のミシンと蝙蝠傘」

 俺の言葉に年老いた刑事は「なんだって、ニシンとコーモリガサがどうしたんだ」と聞き返してきた。

 可哀想だからヒントを出してみたが、やはり無駄だった。

 説明するのに疲れて無視をしていたら、いつのまにか員面調書が出来上がっていた。

 起訴されたあとに精神鑑定も受けたが、何も問題は見あたらなかった。俺は頭のネジが吹き飛んだイカれた男とは違う。

 そんなことを考えているうちに、検察官は冒頭陳述を読み始めた。

 ――被告人は、派遣社員の契約を切られた事に腹を立て、自分を受け入れない社会に復讐しようと、誰でもいいから……。

 俺の犯行動機がどうしたらこんなありふれたものになってしまうのか。小学生の作文だってもう少しましだろう。

 検察官の冒頭陳述に出てくる俺の陳腐な人生ストーリーを聞いているうちに、手が震えるほどの怒りを覚えた。

 俺の崇高な動機がこんな手垢のついたものにされるとは、絶対に許せない。

 そんな気持ちなど我関せずと朗読している女性検察官の美しい横顔を見ているうちに、とんでもない考えが浮かんだ。

「違うんだ、本当の動機は……」

 俺は被告席を立ち、大声で叫んだ。

「検事さん、前にあなたを見た時から、好きになって、何か事件を起こせば、あなたに会えるだろうと考えたんだ」

 一気に言い終えると、検察官を見つめた。

 彼女は呆然と立ちつくしていたが、俺と目が合うと、顔を伏せ、それから救いを求めるように、裁判官の方に顔を向けた。

 裁判官は我に返ると「被告人は静かにしなさい!」と大声を上げた。

 自分でもよくもまあこんなバカなことを考えついたものだ。これなら誰にでもわかる一般大衆に受けそうな動機ではないか。俺は奥歯をかみしめて必死に笑いをこらえた。


 接見した弁護人から聞いた話では、この間の出来事がニュースで取り上げられて、話題になっているらしい。

 世の中には裁判の傍聴マニアという人種がいて、そこからネットに広がったという。

 どうりで、弁護人の服装が違うはずだ。くたびれたスーツが新しい物に変わり、寝癖のついたボサボサの髪の毛も、床屋に行ったのかきれいに整えられていた。

 俺は拘置所で文庫本「マルドロールの歌」を読みながら、これからの計画を練り直した。

 計画は予想よりも順調に進んでいる。


 傍聴席には、ぎっしりと人が詰め込まれ、マスコミ関係者らしい姿も見える。

 俺は一躍、時の人になったらしい。

 女性検察官は、俺と目を合わせないように、書類に目をやっているが、どこか落ち着かないようだ。前回と違って、薄く化粧もしている。

 やがて廷史の合図とともに裁判が始まった。

 天下を取ったような気持ちでいたが、退屈な証拠調べが続くうちに、俺の背中がむず痒くなるのを感じた。後にある傍聴席からの視線が、服を通過して皮膚の上を這い回るような、そんな嫌な感覚だ。

 ――ちっとも面白くならない。なんだよ、期待はずれだな。もうちょっと愉しませろよ。

 ――こんなに盛り上がりがないんじゃ、番組の中で使えないな。

 そんな愚民たちの思いが、俺の周りを包み込む。それを跳ね返すように俺は自信たっぷりに笑って見せた。

 裁判官は不快そうに顔をゆがめた。

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