プロローグ 帰還

#1

 大陸暦八四三年二月末——春の訪れをかすかに感じさせる甘い風が吹き抜けていく。雪を被った樹木の枝先にちらほらと小花が咲いているのが見え、アルレクスは故国に戻ってきたことを実感した。幼い頃、弟と共に庭先に出てその蕾を数えたことがある。アルヴィンはこの花が咲いたことを知っているだろうか。そう思って、崖の上から国府ラベリアを見下ろす。

「グランツ城はあそこだ。一番高い建物」

 アルレクスが指さした先を、レネットが追う。

「お城って、初めて見た。あんな感じなんだ……アルルはあそこで生まれたの?」

「そうだ」

 アルレクスは前公王アルファルドの第一子、フォルドラ公国の公子であった。今は流離さすらいの旅人としてアルルと名乗っているが、正体を明かせば現公王アルヴィンの王兄おうけいである。

 もっとも、アルレクスは今、歴史からその存在を抹消されている。なぜなら、〈星の予言〉によってアルレクスは悪と断罪されたからだ。星の意思を汲む星読みドルイドのもたらす予言が絶対視されているこの国では、予言に否定されては生きてはいけない。国府ラベリアに至るその道すがら、公子アルレクスの存在は「禁じられた名」として扱われていた。

 ゆえにアルレクスは公王の血筋の証明となるその赤い髪を黒く染めて、正体を隠している。レネットも、髪を編み込んでひとつに括り、男ものの服を着て、「放浪騎士とその従者」という設定でここまでやってきた。女子供を連れているというだけで目立ってしまうからだ。幸いレネットは女とばれることなく——本人はやや納得がいかない様子だが——二人はその日の夕方に国府ラベリアへと到着する。

「それで、誰に会いに行くって話だったっけ。ええと……イ……なんとかさんと、ベル……ベルカ?」

 城門をくぐりながら、二人は声を潜める。人の流れに呑み込まれないようすぐさま端に寄って、中流層が住まう第三区へと歩いていく。

「イスルとベルナだ。二人とも私によく仕えてくれていた。……アルヴィンは即位してから彼らを解任したというが、捕縛して処刑したという話は聞かない。噂通りなら、このラベリアにとどまって暮らしているはずだ。彼らに協力を仰ごうと思う……巻き込むようで、申し訳ないが」

 アルレクスは弟アルヴィンが成したことの真実を知るために危険を承知でフォルドラに戻ってきた。灯台下暗しとは言うものの、公王の膝下であるラベリアに留まるには、やはり協力者が必要不可欠である。

「イスルは私の槍の師で、ベルナは護衛兼使用人だった。二人は祖父とその孫で、イスルは第三区に屋敷を構えている。確かこの通りの先だ。……念のため、裏から入ろう。ゾラに我々の姿を隠してくれるよう、頼めるか?」

「わかった。ゾラ、いい?」

 レネットのフードから、うさぎの耳と栗鼠の尻尾を持った小さな生き物が顔を出し、ふるりと震えた。二人は裏路地に入り、そしてその姿を消す。魔術師や同じく妖精が見えるような人間には通用しないが、普通の人間に対する目眩めくらましとしては有効だ。

「……ねえ、アルル。私、あなたのしたいことに反対するつもりはないけど、やっぱり弟さんのこと、心配?」

 アルレクスは少し間を置いてから小さく頷いた。

 アルヴィンはあの夜、自分も代償を払うことになると言っていた。続くアルヴィンの言からして、それは彼の命に関わることだろうと、アルレクスは見当をつけていた。アルレクスに課せられていたという死の運命を覆すためにさまざまなものを引き換えにしたという弟は、自分の命も賭けてしまった。父と母を殺めたというアルヴィンの所業は許されるものではないが、このまま彼がアルレクスの知らないところで命を落とすことになるというのは、兄として黙って見てはいられない。

「アルルの死の運命……それは、もう変わった未来で、弟さんを救うことでが起こったりは、しないのかな。私、あなたを失いたくないよ」

 レネットがアルレクスの手を握る。微かに震える手を、アルレクスは握り返した。

「それも、調べなくてはならないな。だが約束しよう、レネット。君を置いて逝ったりはしない。私はこれから先も君と過ごしたいからな」

「約束ね。魔女との約束を破ったらダメなんだよ」

「もちろん、承知している」

 アルレクスがレネットの手を引いて軽く抱き寄せると、レネットはぱっと顔を赤くして、周囲に誰もいないことを確認する。

「私たちが見えている人間はいないぞ」

「いるかもしれないじゃない! もう!」

 レネットは照れ隠しに頬を膨らませつつ、アルレクスとともに歩き出した。裏口らしい鉄製の門——ではなく、敷地の角の茂みに隠された穴を通る。

(塞がれていなくてよかった)

 アルレクスが子供の頃出入りに使っていたため、この通り道を知っているのはアルレクスとイスルとベルナだけだ。屋敷の廊下に、二人を出迎えるように淡い蝋燭の光が灯った。

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