#2

 ノーラ婆と青年ジョシュアが住む村の名は、ベルディーシュというらしい。アルレクスは机の上に地図を広げ、現在地を確認した。地図上に記載のないベルディーシュの名を、大体この辺りだろうと見当をつけて書き込む。アルレクスの地図には、そのような書き込みがいくつもあった。広域の地図であるため、小さな村は書かれていないことの方が多いのだ。

 ジョシュアが寝ぼけ眼を擦りながら、興味深そうに真横からそれを覗き込む。

「あんた、この国中を旅してるのか?」

「そうだな。用心棒をしたり、傭兵をしたりしながら」

「へえ……」

 昨夜、アルレクスはノーラ婆の家の空き部屋で眠ることになった。ノーラ婆が礼をと言って引き留めたのだ。そして今朝、もう少し滞在してくれと言われたばかりである。朝食を作りにきたジョシュアが、「若いのと話したいんだよ」と苦笑する。

「ここにいる間、仕事がなくて困るってんなら、そうだなあ、色々手伝ってくれると嬉しいが……」

 手をすり合わせるジョシュアを見て、こら、とノーラ婆が鋭く声を飛ばす。

「なんてことを。お前たちの仕事を手伝わせるためにもてなしているわけじゃないんだよ」

「わ、分かってるって。ごめん」

 そもそもしばらくここにいるかどうかの返事をまだしていないのだが、とアルレクスは思ったが、特に不都合がないのでそのままにしておいた。適当な時間にそっと出ていこう、と地図を畳む。と、空いた場所にパンとスープが置かれた。

「こんなもんしか出せなくて、悪いな」

「いや、十分だ」

 確かに宮廷料理と比べると天と地ほどの差があるが、そういうものを求めているわけではない。貴族として舌は肥えている自覚はあるにしても、今の自分には食事があるだけでもありがたいものだ。

 とはいえ、今は端境期。寒村では毎日食べるのがやっとという状況が「恵まれている」と言われる時期である。具がほとんどない薄いスープと硬くなったパンを見て、やはり村の負担にならないうちに出ていこうと、食前の祈りを捧げる——アレストリアで信仰されている、星乙女の祈りの所作だ。

「アルルは、やっぱ訳ありなのか? 本当は偉い人? お忍びとか」

 アルルとは、アルレクスが使っている偽名のひとつだ。フォルドラの人間であると気づかれては面倒なため、アレストリア風の名前や礼儀作法を身につけた。ただ発音だけは矯正が難しく——こうして、「訳ありのお忍びの貴族様」と見られることが多い。無駄だと思いつつも、アルレクスは首を横に振る。

「ただの旅人だ。権力など持っていない」

 嘘はついていない。アルレクスはもはや、フォルドラ公子ではないからだ。ただの槍使いのアルル、である。

「詮索はおやめ」

「わ、わかったって」

 ノーラ婆が釘を刺してくれたおかげで、それ以上深く聞かれることもなく、質素な朝食が終わる。食器をきれいに片付けた後、ジョシュアは針仕事があるからと自分の家に戻っていった。

「ノーラ殿、足は痛みますか」

「ああ……歳をとって怪我の治りもずいぶん遅くなったし、少し長引きそうだねえ」

 しわがれた声でもごもごとノーラ婆は続ける。だからしばらく居てくれないか、と言いたげなのを察して、アルレクスはどうかわしたものかと思案する。その間に、ノーラ婆が口を開いた。

「親切な方。助けていただいた上で図々しいお願いではありますが、老い先短い婆を哀れんで、ひとつ頼まれてくれませんか」

「……なんでしょう?」

 内容によると言えたら良かったのだが、哀れんでくれと言われては強く出られない。自分の甘さを痛感しつつ聞き返すと、ノーラ婆は一切れ残したパンを指さした。

「これを、孫娘に届けてください」

 昨晩のジョシュアの言葉が脳裏を掠めた。ジョシュアは「ボケている」などと言っていたが、やはりそのようには見えない。ノーラ婆の瞳はしっかりとアルレクスを見つめている。

「ノーラ殿、それは昨晩も仰っていましたね。孫娘というのは……」

 その真剣さに、ついアルレクスは疑問を口にしてしまった。ジョシュアの態度が不可解だったのもある。加えて、アルレクスが昨日通された「空き部屋」は、私物がそのままにされていた。姿こそ見えないが孫娘がいるというのは、本当だろう。不思議なのは、なぜ姿が見えないのか、ということだ。

 アルレクスの問いに、ノーラ婆は頷く。

「名はレネット。今年十六になる、娘の忘れ形見です。父親が分からないからと遠巻きにされ、なかなか村に馴染めていませんが……愛しいたった一人の孫なのです。訳あって、今は村を追い出されて、森の奥の小屋にいます」

「……それで、あんな森の中にいらしたのですね」

 点と点がつながる。理由までは分からないが、村を追い出された孫娘のために食糧を届けようと、周囲の人間に気づかれないよう夜中に出かけていたのだろう。無謀なことだ。

「はい。あの子が心配で心配で……森にはよくない人間もおります。ああ……レネット」

 ノーラ婆の声が湿る。確かに、うら若い少女がいるような場所ではない。野盗をそのまま逃したことを、アルレクスは後悔した。捕まえておかなかったことで、少女に累が及ぶかもしれない。あるいはすでに——同じことを考えているのだろう、ノーラ婆は身を震わせた。

「お願いします、レネットの様子を見てきてはくれませんか」

「それは、村人の目につかない方が良いのですね?」

 昨晩のジョシュアたちの言動を思えば、レネットが疎ましく思われていることは確実だ。村の問題を、外からやってきた人間がかき回すわけにもいかない。となれば、密かに向かうのが良いだろう。

(……すっかり乗せられてしまった)

 アルレクスは自分の人の好さに瞑目する。だが自分の失態で少女が危険な目に遭っているかもしれないと思うと、このまま無視しては寝覚めが悪い。アルレクスが引き受けてくれそうだとわかると、ノーラ婆は、ありがとうございますと深々と頭を下げた。

「分かりました。隠れて行くのは得意ですから、ご心配は無用です」

 そういって席を立つ。長らく使って手に馴染んだ長槍を片手に、壁の衣類掛けから外套を取ると手早く羽織る。清潔な布にパンを包み、これだけではひもじかろうと、保存食や水と一緒に鞄に詰める。

「ひとつ、」

 裏口から出ていこうとするアルレクスを、ノーラ婆が引き留めた。

「なんでしょう?」

「レネットの瞳を見てはなりません。それだけは、気をつけて」

「それは……彼女が村から追い出されていることと関係が?」

 ノーラ婆は頷いた。

「レネットは小さい頃から、村の子供たちとではなく、森に棲む妖精とよく遊んでおりました。しかし、レネットは妖精を怒らせてしまい、その瞳に呪いを受けたのです。レネットに見つめられると、男も女も関係なく、強い愛情を覚えてしまう」

「それは、難儀なことですね」

 妖精やまじないに詳しいのは、弟のアルヴィンだった。勉強の成果を日毎に報告してくれていたので、アルレクスも少しは知識がある。

「私は魔術師ではありませんが、魔術や妖術への備え方は知っています。お任せを」

「……では、お頼みします。どうか、お気をつけて」

 ノーラ婆に見送られ、アルレクスは家を出た。鎖帷子くさりかたびらに使われる鉄の輪をひとつ小袋から取り出すと、口に含む。準備はこれだけでいい。飲み込まないよう注意しながら、アルレクスは気配を消して森へと向かった。

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