第十七話 グレちゃんとだからLet`s cross The Rubicon

 わたしの移動先と移動形式が正式に要請されたのは、二〇〇九年・平成二十一年の十一月だった。

 まずタクシードライバーとしての席が、市内の別の区にある営業所への転勤となる。そして、介護タクシーのドライバーとしては、寝台車(ストレッチャー車ともいう)の専任で、自社の介護事務所の専属ドライバーということになった。

 非常に判り辛い構図ではあるが、一つ、タクシー会社として曲げられない掟があっての転勤なのだ。すなわち、『営業所に所属する車両は、その営業所に所属する乗務員が乗務しなければならない』と。わたしが所属していた営業所には、福祉車両がなかったのである。

 そして、実質的には介護事務所の専属ドライバーとなる。これは、会社としても初の試みで、他の営業所の介護タクシーの先輩と共に最初の二人に選ばれたのは光栄であり、大抜擢だった。この件もまた、当時の介護事務所の大先輩が、わたしを高く買ってくださったからだ。何故なら、寝台車の仕事の助手には入っていたが、わたしが寝台車を運転したことは、一度もなかったのだから。

 故に、同じ専属ドライバーになる先輩に随行して学ぶ、二ヶ月の研修期間が認められた。新人研修ですら十日しかないというのに。この点もまた、売上重視のタクシー会社では考えられない、異例の好待遇だったのである。


 正直にいえば、チャンスだと思った。是非やってみたいと。寝台車の研修をしている間に、介護福祉士の試験を受けることも勧められた。

 だけど───それでも迷いはある。

 最初に入社した営業所が、わたしは大好きなのだ。男性がほとんどの職場故に、女性であるという一点で能力や技能に対する偏見も向けられたが、それでも当時の上司たちは良くしてくださった。年長者がほとんどだが良き同僚も得られたし、何よりも最長老である三人の大先輩がとても・とても良くしてくださった。感謝しきれないほどに。───だから、離れ難かったのである。

 そんな時、その三長老の御一人で、最も尊敬する大先輩が云ってくださったのだ。

「やりたいなら、やった方がいい。こっちの事は何も心配しなくていいから、自分のやりたい事をやりなさい。おまえは大丈夫、おまえならちゃんとやれるから」

 何故、その時に涙が出なかったのか判らない。心の中では、大声を上げて泣いていた。辛うじて、「はい、頑張ります」と答えるので精一杯だった。

 云ってもらって初めて、自分がそんな言葉を貰ったことが一度もないことに気付いたのだ。そして、その言葉に、自分自身でも知らない場所で飢えていたことにも。

 かつてわたしが愛したかった両親に、信じて欲しかった両親に、否定の言葉しか与えてくれない両親に、一度だけでも云って欲しかったのだということに、初めて気付いた瞬間だった。


 やっと、ここまで来た。

 ようやく、ここまで来ることが出来た。

 ストレス障害になり、働けなくなって、自分が何者かを認識するのも難しくて、リストカッター仲間になりたくない・このまま立ち上がれなくなるのは嫌だ───と、それだけの思いで何とか這いずり回り、遅々たる歩みで進んで来た。


 それもこれも、みんな───。


「家族とは色々あっても、わたしは他人に恵まれているんです」

 精神科の先生とカウンセリングの先生に、何度云ったか知れない。

 旧来の友人に、新しい友人に、従姉に、通りすがりの人に、ハナちゃんに、温かな毛並みでずっと寄り添ってくれたたろうさんとグレちゃんに───わたしは支えられ、救われ、恵まれて来たんです。


 ───だから、今でも生きようとすることが出来るのです。


 誰かに理解される必要はない。わたしが判っていればいいことだ。

 そしてわたしは、転勤&転属の要請に、承諾の返事をした。


 猫の為の同居&変則疑似家族の解体が、少しずつ始まる。

 ハナちゃんは、同棲ではなく結婚ということになったので、各関係者への挨拶回りや新居の準備で忙しくなった。心配していたぷーも、旦那になる彼氏に徐々に慣れ始めていたので、少し安心した。

 わたしは、寝台車の研修や資格取得の為の勉強で更に忙しくなった。加えて、一人と一匹で暮らすには広い部屋からの転居先を、いい加減に考えなければならない時が来ていた。問題は、転勤先の営業所が、個人的に鬼門といえる実家から物凄く近いことである。わたしが卒業した中学校など、目と鼻の先なのだ。


 実家に戻った方が、経済効率が良いのは確かだ。けれども、ここには二つの問題がある。

 一つ目は、両親は猫が嫌いであるということ。当然、わたしはグレちゃんと離れる気は微塵もない。

 二つ目は、グレちゃんと出会う前に実家を出た時、わたしには実家に戻る気がほとんど・全く無かったということである。

 『あんたら、甘えるのも大概にせーよ。わたしはもう知らん。あんたらが溺愛する息子二人に、老後の面倒を看てもらえばいいじゃんか。本当に出来るかどうかは知らんけどな。わたしは勝手にわたしなりの幸せを掴んで、あんたらの墓に後ろ足で砂をかけてやる』と、本気で思っていたことを、わたしの近しい人間の中で知らないのは、実の家族だけだ。

 ほんの少し前までは、本当にそう思っていた。あるいは、今でもそう思っているのかもしれない。


 だが、寝台車の研修に入り、単独でも仕事をするようになって、あまりにも多くの過酷な現場を見る事となったのだ。寝台車を必要とする利用者は、かなり悪い状態の方が多いからかもしれない。

 そして、冷たいようだが、子供たち一家が寄り付かなくなった高齢者には、過去にそれなりの問題があったことが垣間見られた。これまでの人生の中でその人が、ご自身の家族に対して、もしくは社会的に、人が離れて行って当然の行動をしていたのだと推測せざるを得ない事が多かったのだ。

 

 病院、もしくは施設での生活を余儀なくされた高齢者が、他の病院での治療が必要となった時、病院、もしくは介護事務所から、近親者の同行が求められる。その折に言い合いが始まり、「来てやっただけありがたく思えよ。あんたがどれだけのことを家族にしたと思ってるんだ。オレは長男だから、仕方なく来たんだ」との台詞を聞いたこともある。その男性は普通の会社員で、わたしと話している分には、穏やかな普通の人だった。

 とある現場では、連絡が付く親族すべてから、「病院に任せますから、好きなようにしてください」と云われ、その後一切の連絡が取れず、寝たきりで認知症の本人に、治療の同意書のサインをさせるという現場も見た。

 またある利用者宅では、同居の家族が居るにも拘らず、どのスタッフも家族と顔を合わせることがなかった。挙句、同僚が通院のお迎えに行った時に、亡くなっている利用者ご本人の第一発見者になり、半日、警察の事情聴取を受けることになったこともある。


 それは、余りにも非人間的な、目を背けたくなるような現実だった。

 それぞれの家庭に、それぞれの事情がある───それはわたしの所も同じだ。『出来ればもう二度と関わりたくない』・『顔も見たくない。話しなんてとんでもない』という気持ちも痛いほど判っている。最も近しい筈の家族に───親に対して、そこまで思ってしまう自分に嫌悪感すら抱く。けれども、幾度も幾度も、繰り返し辛い想いをして来たからこその結論なのだ。まさに、孤独な高齢者になった人々の自業自得なのだから……。

 けれども、まだ『人』として生きたいと思うのであれば、自分が捨てた家族の行く末もまた、目を背けてはならないもう一方の現実だとも思った。

 心の国境はあまりにも高く、何十年も掘り続けた溝はあまりにも深く、峡谷の底には生命の危険があるほどの急流が流れている。だが───それでも、もしも『人でありたい』と願うのであれば───例えそこに愛がなくとも、人間らしくありたいと思うのであれば……。


「グレちゃん、苦労させるとは思うけど、ママの馬鹿な我が儘に付き合ってくれるかい?」

 グレちゃんはいつものように、「うにゃ」と答えてくれた。

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