第十一話 グレちゃんは眠りの守の目覚まし時計

 寝ても寝なくても、眠る事自体が難儀な事になったのが、二十歳を過ぎてしばらくしてからだ。


 原因の一つは、デザインの専門学校の課題が過酷で、まともに提出しようとすればまず寝ることはできなかったということである。

 更に、画材費・昼食費・通学費を捻出する為のアルバイトをしていたので、増々もって時間がない。結果、必ず取らなければならない単位の課題提出をメインに据え、あとで挽回が効く課題は手を抜くというトリアージをしなければならなかった。おかげで平均睡眠時間は、良くて二~三時間。学友との朝の挨拶は、「昨日、どれくらい寝た?」が普通だった。

 原因の二つ目としては、母方の祖母が体は元気な認知症になり、東京に四年程働きに行ってUターンしたあとは、家を出て行く類いの徘徊の危険があった為、夜間の付き添いをわたしが担当することになったこともある。同席さえしていれば眠っていてもいいのだが、布団の周囲を歩き回っている人がいる状況で、そうそう熟睡は出来ない。ましてや、不穏な物音が聞こえれば、起きて見に行かなければならないのだ。

 更に三つ目、それらの状況で万年睡眠不足状態にも拘らず、予定のない休日にわたしが眠っていると、用もないのに母が早くから起こしに来るのだ。ただ起こすだけならいいのだが───と、ここにもエピソードがあるが、本件には関係ないので割愛しよう。


 長い間そのような生活を送った末路として、安心して眠れない状況というものは、立派な不眠症として羽化したのである。


 ストレス障害の治療を受け始めてもなお、眠りに就くことは困難だった。なにせ、安心出来る状況がない。病故に心身のコントロールが利かず、失業もした。これからどうすればいいのだろうと、睡眠誘導剤で朦朧とする意識の中でも考えてしまう。

 そんなわたしの枕元に天使のように降臨したのが、我がパートナーのグレちゃんだった。

「グレちゃん、ママにはらはら貸して」というと、冷え切った両手を温める為であっても、眠りを妨げる張り詰めた気持ちを和らげる為であっても、すっかり豊満になったモフモフのお腹を快く提供してくれたのである。わたしがどうにか眠りに就こうと努力している時、グレちゃんは新妻席と呼ばれる一つ枕を共有出来る場所に横たわり、惜しげもなくそのお腹を触らせてくれたのだ。

 わたしが眠りに就くまでずっと傍らにいて、低く喉を鳴らし続け、いつもより神経が尖っている様子だったら、宥めるように舐め続けてくれた。

 ずっと後になって知ったのだが、猫科の生き物が鳴らす喉の音には、精神を安定させる効果があるのだそうだ。まあ、そんな効果を知らなくても、グレちゃんがわたしを心配して、優しくしてくれている事が判れば充分だった。

 グレちゃんは間違いなく、わたしだけの眠りの守───ガーディアンだったのである。


 と、まあ、ここでめでたしめでたしといかないのが、グレちゃんがグレちゃんである所以ゆえんだ。

 わたしの眠りの守であり、就寝の守り神であるグレちゃんは、同時に起床の管理者でもあったのだ。


 不眠に伴う寝起きの悪さを持つわたしは、これまでに数々の目覚まし時計を破壊した。無理やり起こされる怒りのせいというより、『オレの眠りを妨げるものは許さん』的勢いで、時に壁に投げつけ、時にはベルの部分を握り潰した(女子にして、利き手の握力40kg以上を誇っていたので)。

 ───が、世界で唯一破壊出来ない目覚まし時計が、愛しのグレちゃんである。

 仕事人───もとい仕事猫としての意識が高いグレちゃんは、わたしを起こすこともまた、自分の任務と心得ていた。ただし、出勤する時と休日の時とでは、起こし方に圧倒的は違いがある。

 携帯のアラームが鳴らない → ママはお休みなので、グレちゃん自身が起こしたい。

 携帯のアラームが鳴る → ママはお仕事なので、起こさなければならない。

 この二つの間には、天地程の差があったのだ。


 前者は、判り易く・想像し易いことと思う。

 「わーい、ママお休みなんだ。起きて。起―きーてー!!」のノリだ。具体的には、5.5kg越えの見事なボディで、完全に眠っており、弛緩しきったわたしの上に勢いをつけてダイブしてくるという荒業。場合に依っては、4.5kg越えのボディも続けて降って来る。これで起きない人間はまずいない。

 後者はおそらく、「ママ、お仕事かぁ。起こしたくないけど、起こしてあげなきゃなぁ」ということだろう。全体にアクションが小さい。

 小さいのだが、そこに絶妙なテクニックが存在する。

 いぎたないわたしは、肉球で軽くぽむぽむしたり、顔をさりさりと舐められたぐらいでは目覚めない。いや、最初のうちはそれでも起きたのだ。けれども、段々慣れて来て、『グレちゃんが触れた』というだけでは起きなくなった。

 すると当然、自分の仕事に拘りがある管理者・グレちゃんは考える。「どうやったら起こすことが出来るのだろう?」と。


 とある朝、顔が歪んで目が覚めた。顔が歪むのだが、痛くも何ともないという不思議さ。

 何事?───と意識を取り戻すと、グレちゃんの爪が軽く唇の端にかかっており、枕元に神妙な顔で座るグレちゃんが、慎重に唇を引っ張っていたのだ。これは、『押してダメなら引いてみな』ということなのだろうか?

 また別の朝には、驚いて目が覚めた。驚いたのだが、起きた瞬間には何に驚いたのか判らなかった。勿論、枕元にはグレちゃん。

 わたしの顔の付近で発生した感触を反芻すると、突然鼻の穴に何かが詰まった。詰まると同時に、鼻の穴を広げるようにパフンと勢いよく引っこ抜かれた。あの感触は───おそらくグレちゃんの肉球だろう。サイズ的にもジャストフィット……。

 判ってはいる。判ってはいるのだが、ここで敢えて云いたい。


 君、猫だよな?

 猫だろう?

 猫じゃないのかっ?!


 おいおいおい、そんな事、どこで覚えて来たんだ?

 いや、自分で考えたんだよな、グレちゃんだもんな。痛くしないところに愛を感じるが、工夫を凝らすにも程があるんじゃないのか?


 わたしに、グレちゃんを非難する権利はない。自力で起きられない自分が悪いのだ。だが、それにしても、猫はこういうことをする生き物だったろうか?───これもまた、グレちゃんに問うべきことではないだろう。


 わたしが決して破壊しない・破壊することが出来ない最強の目覚まし時計は、愛ある起こし方の研究に余念がない眠りの守・グレちゃんだったのである。

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