ハッピーエンドじゃつまらない。
思考実験って誰得なんです?9
昔話でさえ、「めでたしめでたし」と聞き手に伝えると言うのに
カクヨム3周年企画に便乗中。
お題「おめでとう」
評論もどきのこのシリーズをまたリリースしてしまうとは、なんとおめでたいやつなんだわたし。
いつも通りで恐縮ですが、思考実験らしい思考実験はしていません。
*
平凡な毎日ないし特に代わり映えのしない日々を過ごしていると、生活の中に潜む「おめでとう」を見落としがちである。
わたしが、正にそれだ。
たしかに、感謝の意を示すことばである「ありがとう」は積極的に使っている気がするのだが、しかしこれは「おめでとう」、相手を賞賛あるいは祝福するときに使うことばである。
どちらかというと、「ありがとう」は相手の行為もとい好意を自分が受けて、自分に利があるときに発せられることばである。一方、「おめでとう」は相手の行為により相手に利があるときに発せられることばである。
ことばの性質から、前者が受動的、後者が能動的に(わざわざ)使われる、ようにおもう。
以上より、「おめでとう使いにくい説」、ワンチャンあるとおもう。
どうだろうか。
読者の皆は、おめでとうをうまく利用しているのだろうか?
わたしはというと、あんまりだ。
なんなら、おめでとうという相手もいない。
昔話でさえ、「めでたしめでたし」と聞き手に伝えると言うのに、だ。
本当に、あんまりだ。
*
思い出したついでに。
この「めでたしめでたし」に関してだが、ここで注目されたいのは、昔話は昔話でも、日本の昔話でのみ主に使われている、ように思うということだ。
大抵の日本昔話は、良い人間がハッピーになり、悪い人間が懲らしめられる、といった因果応報に基づいたものになっているものが多いようだ。
一方、グリム童話やイソップ寓話なんかでは、理不尽な展開や衝撃のラストになっていて、必ずしもハッピーではない、ようにおもう。
結びのことばも「めでたしめでたし」ではなく、「おしまい」である。
物語の終わりは、決して、めでたくはないのである。
あっけないものである。
*
最初に少し述べたが、生活の中の「おめでとう」はライフステージに応じてちゃんと存在はしている。
卒業入学おめでとう、とか、
就職おめでとう、とか、
誕生日おめでとう、とか。
あるいは、懐妊したことを、おめでた、なんていったりする。
これらは、無条件にめでたいことなのだろう。
お祝いすることばとしては、あけましておめでとうもその一つだろう。
ただし、おめでとう、という言葉尻に騙されてはならない。
『結婚おめでとう、どうぞお幸せに。』
一般的に、祝福しているようにも見えるが、次の場合はどうだろうか?
『身勝手になることで幸せになるのだとしたら
わたしは不幸のままでいいや
結婚おめでとう
どうぞお幸せに』
(どうぞお幸せに/AKINOTE)
枕詞があるだけで、ことばには皮肉感が出ており、かつ心から祝福しているようには到底思えない。
おめでとうって、むずかしい。
逆にだ。
一度でいいから、「おめでとう、わたしの負けだ。」とか、言ってみたい。
これを言えるってことは、自分が相当の地位に君臨していなければならない。また、(ただ単に相手が勝つことではなく、)わたしを負かすことが賞賛に値しているようにもおもう。
してやられたー、とか、
一本取られたー、とか、
この清々しさを味わいたいのかもしれない。
なーんて。
わたし自身が、いちばんおめでたいやつなのかもしれないな。
おしまい。
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