悪夢への路線

@suzumushi555

1話完結

 歪みをおびた規則的な点滅信号の音が近づくにつれて大きくなり、間延びした音が遠ざかる音をガタゴト揺れる電車内からきいていた。

 かつての活気は失われてはいるものの完全に衰退することもない、ゆるやかに生活を営む、日本中のどこにでもありそうな土地に居をかまえたのが二ヶ月ほど前。シャッターが閉まったままになっている店があちこちに目につく商店街をぬけて、電車に乗り通勤する。仕事がない日もどこかへでかけるのは電車にゆられることになる。乗り継ぎや通勤のしやすさなどの利便性を考えた上で、特に理由もなく、少しさみしいこの土地を選んだ。だんだんと日々に馴染んで、町と電車からの景色もいつもの風景になってきた。

 今日もいつもの風景を歩き、いつもの風景が車窓から流れていく。

 そうなるはずだった。


 タイミングよく快速にのれ、朝とも昼ともつかぬ微妙な時間帯のおかげもあり、人もまばらでゆったりと座れた。不便はあるが、座席にすわりさえできれば特に文句はない。前よりも多少のびた電車通勤の時間はあまり気にならなかった。

 扉が開いて座席に座り、手すりにもたれ、いつものようにスマホでだらだらと時間を溶かすことに勤しんでいた。

 車両には、自分からみて左側の座席にくたびれたスーツ姿のおじさんが隣の車両近くの座席にいて、その向かいにヘッドホンをつけたお兄さん、自分から見て右側には部活に向かうのであろう女子高生3人がはじけるように話していた。

 やり込みすぎて飽きはじめているスマホゲームのミッションをこなす。

 そろそろ次の駅に着くころかなと、体感時間で思った。

次の駅は、路線の乗り換えができるためにいつもそこその人数が乗り込んでくる。

 人が流れ込んでくるのを見るたびに、ちょっと不便でも今の町を引っ越し先に選んだ自分の決断を褒めたくなる。

 かじりついていたスマホから目をあげると、ビクッと身構えるものを見てしまった。予想に反して誰もいないはずの目の前の座席に人の気配があった。見ているスマホの外側に足のシルエットがある。

 視線だけをチラリと上にあげると女が座っていた。

 −−あれ、いつ乗ってきたのだろうか。

 ゲームに夢中になって、停車していたのに気づかなかったのだろうか?不思議におもい、窓からの景色でどのあたりを走行しているのか確認するものの、とりたてて特徴のない景色で判断ができなかった。それなら、車内の人に入れ替わりがあれば、電車が止まった証拠になるだろうとあたりを見回す。くたびれたスーツ姿のおじさん、ヘッドホンをつけたお兄さん、女子高生の3人。なにも変わっていない。

 変わったのはこの女のみ。人の往来が激しいあの駅で乗り込んできたのはこの女性ひとりだけだったんだろうか。珍しい……まあ、こんなこともあるかと、またスマホに視線を落としゲームを再開した。


 違和感に気づいたのは、信号機の音が歪んできこえたから。

 小気味のいいカンカンカンという音が、歪みはじめた。歪みは徐々に酷くなっていく。クワンクワンクワンクワンクワンクワン……いつまでたっても音が途切れない。その音をずっと聞いていると、頭を見えない縄で締め上げられているような感覚がした。

 「何かおかしい」と、顔をあげると目の前の女が目に入った。アイボリーのワンピースを着て、うつむきかげんの顔からは表情がみえず、黒髪は肩にかかっている。まじまじとみてしまう……しかし、ジロジロと見るのは失礼にあたると思い、目線を窓からの景色に注視する……ここはどこだ。

 いつもは、いつもならば……。隣の乗り換えのできる駅は少しの賑わいはあるものの、駅から離れるにつれ田舎な風景が続く。しばらくの緑豊かな山間地帯がつづいてから、ぽつぽつと大きな会社が路線の横に連なり、次第に人の賑わう都会へとゆるやかに切り替り、新幹線が停まる駅に着く。それが僕の日常だ。

 それなのに僕の目には、墨をふくんだような濃い緑が広がっていた。田園風景だ。田んぼには、鳥避けの案山子が立っていた。

 茫然と流れゆく田んぼを眺める。

 この地域では、そんなに鳥が悪さをするのだろうか?田舎に暮らしたことがないために、自分の常識であてはめていいのかの判断がつかないが……電車が路線をすべるに伴い、案山子の数が増えているような気がする。

頭がくらくらしながらも納得のいく答えを思考をめがらせて探ってみると、不可解なことが2つあった。

 1つめの違和感は、案山子。

 じわじわと数を増やしている案山子がこの電車をみつめるような配置になっている。まるで見張っているような……。

 案山子の顔にあたる部分には一様に同じ赤い模様みたいなものが描かれている。

なにが描かれているのかと観察していたら、不意に電車に近い一体が目に飛び込んできた。のっぺらぼうの顔に×の形。これは……この土地特有の鳥よけなのだろうか。

自分の頭の中に生まれた不安の塊が大きくなるのを感じた。

やっぱり、何かがおかしい。

 もしかして、別の電車に乗ってしまったのだろうかと、原因を探ろうとするも単線で乗り間違えようもない。引っ越してきて二ヶ月とはいえども、駅を間違えるのもありえない。毎日のように歩いている道なのだ。

 改めて車両を見渡す。

 スーツ姿のおじさん、ヘッドホンをつけたお兄さん、女子高生3人。女子高生たちは、話す内容がなくなったのか、先ほどまでの元気はどこへやら。スマホをみたり腕組みしておとなしくしている。そして……目の前の女。2つめの違和感はこの女だ。

 なまじ近すぎるため、まじまじと観察することができない。不自然にならないように一瞬だけ盗み見した。特に変わったところはない。街中ですれ違っても特に意識することなく、数秒後には記憶に残らないだろう。


 この女は、いつ電車に乗ってきたのだろう。

 いや、はじめから乗っていたのかもしれない。まだこの電車はどこにも停車しておらず、隣の車両にいたこの女は、この車両にと移ってきただけだろう。

 自分がゲームに夢中になっているうちに座っただけかも。そうか、きっとそうだ。最近は仕事もたてこんでいて疲れがたまっていた。注意力が削がれて気づかなかっただけだ。きっとそうだ。


 ブツッという機械音が車内に響いた。アナウンスのスイッチがオンになった音。その音に気づき、ひどく安堵している自分を滑稽に思いながら、必死に流れるアナウンスを聞いた。

「次は~、シダヂ~シダヂ~に停まります」

「えっ」

 心の声が口からでていた。

 とっさに口に手をあてるが、響いてしまっていたらしい。周りを見回すと、スーツのおじさん、ヘッドホンをしたお兄さん、女子高生たち。そして目の前の女が一斉にこちらをみていた。

 ちいさく、すいません……と、か細い声で言う。いたたまれない気持ちをごまかすためスマホを無意味にとりだして、使う気のないアプリを開けては閉じてをしばらく繰り返し、さっき聞いたアナウンスを反芻する。


––シダヂ。


 おちつけ。きっと線を間違えたんだ。シダヂって言っていたよな。そんな駅あったか?いや、ない。きっと乗る電車を間違えてしまったんだ。本当に僕がのったのはいつもの快速だったか?特別運行の電車じゃないか?僕が知らんなかっただけで、どこかに分岐の線があって、別の路線を走っているのでは?そうだ……きっとそうだ!早いところ戻らないといけない。久々に会う友人と待ち合わせをしているんだ。路線検索して、戻る道を確認しておこう。


 シダヂだったよな……?

 いつも使っている乗換えアプリを起動して入力する。しかし候補の駅が出てこない。

あれ?おかしい。何もヒットしていない。聞き間違えただろうか?と、すこし焦りながらも、あやふやでもワードを拾ってくれるネット検索に切り替えた。何度か試してみてもめぼしいところがヒットしない。Google マップに切り替えて入力しても電波が悪いのか候補すらあげてくれない。現在地だけでも特定しようと矢印マークをタップしても表示をしてくれない。電波はフルではないが二本たってるんだけど、まあいい。仕方ない。

 駅に着いたらとりあえず降りよう。おりて路線図を確認すればいいし、駅員さんにきけば大丈夫だろう。


 そう思いながらも、しつこくネット検索していたらシダヂの音がすこし変化した「しだる」の辞書がヒットした。とっかかりになるとページに飛んでみた。


 【しだ・る】−−下にたれさがる


 関係なさそうな語だったので、スマホをしまった。


 次の駅には、いつつくかとまた窓から外をみると、やっぱり案山子がこちらを見ていた。気味が悪いが、きっとこの地の風習とかなんだろう。


 もともとの目的地には早めにつく予定だった。ちょっとぶらぶらしてから友人と待ち合わせ場所に向かうつもりだったが、この調子だと遅刻しそうなので連絡だけはいれておこう。

[すまん。電車を乗り間違えたようだ。少し遅れる]

[わかった。こっちつく時間わか譁?ュ怜喧縺代′蠢?ヲ]

 ––ん?なんだ。急にスマホの調子悪いな。ま、ここら辺なんもないし電波悪そうだしな。

 時間か……いつになるんだろう。快速に乗ったと思っていたけど新快速だったのかもしれない。はやくどこでもいいから着いてくれ。引き返すのも大変だ……。憂鬱と友を待たすことになる申し訳なさが焦りになってきた。


 焦っても、電車に乗って路線上を移動するのを待つことしかできない。どうしようもない。仕方ないのでいつもの習性でSNSの画面をひらいて愚痴をこぼす。


[まじ、だりい。シダヂってどこだよ。電車乗り間違えた。変なカカシがささったど田舎にきちゃってんだけど〕


 愚痴半分と、もしだれか土地勘のある人がいてレスポンスがあれば、この変な路線の謎が解けるかもという淡い期待も込めて送信した。

 ––はあ……早く、早く停まってくれ。


 焦りからふと、顔をあげると女が目に入った。


 さっき、ちらっと女を見たときと変わらず床をみている。


 にしてもこんな辛気臭い路線、みんなどこにいくんだろう。スーツ姿のおじさんは、何か用事があるのだろうけれど、女子高生はもちろん学校だよな。電車通学だとしてもこんなに遠くの学校にいくことがあるだろうか?この電車に乗ってからどれほどの時間がたっている?そもそも、辺鄙な場所に向かっているように思えるが、学校がこんなところにあるのか?


 そういえば知らない駅名を聞いて、びっくりして声をあげて注目をあびてしまったが、ヘッドホンをしたお兄さんにまで声が聞こえていたのだろうか?


 目の前の女だって、いつの間に座ったのだろう。


 本当に座った気配を察知できなかっただけなんだろうか。


 本当にここは、どこなんだ––……


 ブツッという機械音がした。アナウンスがはじまる。駅まで近いのだろう。不穏な考えが頭をめぐってしまう。早く駅にさえつけば大丈夫。


「この電車には優先席があります。優先席を必要とされるお客様がいらっしゃいましたらお席をお譲りください」


 ––ブツッ。


 え、それだけ?まじで、それだけ?頭がくらくらしてきた。頭を抱えて下をむく。


クァン クァン クァン クァン クァン クァン クァン……


 歪みをおびた規則的な点滅信号の音がちかづくにつれて大きくなる。


クァン クァン クァン クァン クァン クァン クァン……


 しばし音の中に自分が没入した気分を味わっていたが、さほど長い時間もかからずに小さくなっていく音を見送る。


 いやもう、こんだけ空いていて優先座席の案内もいらねえだろ。心の中で悪態をつきながら、自分からみて右奥の優先座席を、ちらりとみやると、うすぼんやりとした赤い何かが蠢いているようにみえた。小学生くらいの大きさのようにみえるが靄がかったようで、向こうがうっすらと透けてみえる。いや、きっと目に変なゴミが入ったのだろう。ぎゅっと強く目を閉じてから、そのまま同じ場所をみるが、やっぱりある……よな?目が悪い方ではないがよく見えずに注視する。


 ––さっきまであんなものあったか?


 靄みたいなものの反対側に座っている女子高生たちは、なにも見ていないのか?


 女子高生たちは、先ほどと変わらずお喋りもせずに無表情でおとなしく座っている。三人ともだ。スマホくらい見ろよ。僕が乗車したときは騒がしかったよね。やっぱり何かおかしい。


 またブツッという機械音がした。アナウンスだ!


「次の駅はシダヂです。右側のドアが開きます……」 近い!おそらく近い!安堵感が広がる。


「……シダルにご注意ください」


 ––––ブツッ。


 電車の速度がゆるやかになる。


 ようやく、ようやくだ。こんな陰気な電車は早く降りてしまおう。


 さて、ここはどこだ。駅員さんに聞くのが早いけど、スマホの地図アプリでも現在地を確認しておこうと、スマホを開くとSNSの画面を閉じていなかったようで、SNSの画面だった。そこに通知がきている。通知を開くと目に入ったのは簡潔な一言。


[絶対におりるな]

 その一文をみて、頭を殴られたような衝撃を受けた。電車から降りて反対車線で元の駅に帰ることしか考えていなかった。でも……

[どういうことだ、もう着く]と、入力してスマホを握りしめる。


 頭がくらくらしてきた。待ちに待った駅。この駅にさえ降りれば、戻れる。待ち合わせをしているんだ。この駅にさえ降りさえすれば、みんなと一緒に……ぶら下がれるんだから。


 わずかなスマホの振動が手に伝った。

 返信がきたようだ。


 [もう着くのか?ダメだ。絶対におりちゃいけない。気をつけろ、下がりなくなければ]


 下がる?下がるって……とまで打ったところで車窓から駅の景観が流れていく。ようやく着いたんだ。やっぱり、思ったとおり、ど田舎。これは無人駅という可能性もあるなと心配になってくる。いやだけど、電波さえつかめたら大丈夫。さすがに繋がらないなんてこともないだろう。SNSのやりとりだって問題なくできているんだから。


 電車の加速はどんどんゆるやかになる。大丈夫。もう大丈夫。これですべては解決できる。


 電車が停まる気配に、どんどんと心が軽やかになってくる。すっと立ち上がりドアに向かおうとしたところで、目の前の女と目が一瞬だけあった。すこし微笑んでいるようにみえた。暗そうとか思ったけど案外かわいいかもしれない……。その時、なんだかシダヂ駅は俺を歓迎していると、ゆるぎない自信が湧いてきた。今か今かと扉が開くのを待っている。その横に座っている女も僕がここに来ることを心待ちにしている。そうだ、そう確信しているはずだ。

 

 扉が開くのがいまかいまかと、扉の前に立ってまっている。手すりを挟んで女の横に並ぶ形になった。


 なぜだかとても晴れやかな気持ちになる。だが、それが自然な流れだと思う。停車までの時間を心をはずませているとまたスマホが震えた。チッ、舌打ちがでてしまう。それでも僕は怒ったりしない。だって今からーー寛容な心で文字を追う。


[詳しく説明している暇はないが、降りちゃいけない。絶対に降りるな!絶対に髯阪j縺。繧�>縺代↑縺�ゅ逕溘″縺ヲ蟶ー繧翫◆縺代l縺ー]


 また煩くわめいているよと、スマホをポケットに収めようしたが、文字化けに目が吸い寄せられた。あれ、会う約束をしている友人も途中でなんかスマホの調子がおかしくなったよな。何かがおかしい……

自分の中に芽ばえた違和感がどんどんと疑惑に育っていく。


 え、なんで僕……


 なんで、こんな駅に降りようとしたのか……


 真昼間だというのに、空はオレンンジを煮詰めたような夕焼け色。


 改札からぽっかり開けた空間から、この地……シダヂが見える。そこからは、田園風景がみえたが、田畑には黒い人のシルエットが並んでいるのが見えた。異様に思える人の形をしたものは、きっと、すべてが案山子なのだろう。


 なんで、こんなに案山子を揃える必要が?その案山子すべての顔の部分に赤いバツ印がされてある妄想が頭から離れない。


 案山子が……案山子と思っていたのは……あれは、本当に案山子か?


 ほんのついさっきまで、待ち望んでいたこの駅は……本当に実在する駅か?


 電車のブレーキが強くなり、電車はなめらかに停車した。


 先ほどまでとは、打って変わってなぜ、今はこんなに禍々しく思えるのか。


 扉が開いた。


 むっとした空気が顔にまとわりつく。


 なぜ、この駅にたどり着くことを心待ちにしていたのか。


 混乱した頭では情報の処理機能が追いつかずに、降りることも席に引き返すこともできなかった。


 このまま扉が閉じればいい。そしたら降りることが叶わずに、なに食わぬ顔で席に戻るしかできない。そしたら、下車をとめた奴に連絡をとろう。そうだ、そうしよう。あいつは何か知っているみたいだったし、どうすればいいか教えてくれるだろう。待ち合わせの時間には大幅に遅れるだろうが、友人には昼飯を奢ってやろう。大丈夫––

 その時、ぬっと、生暖かい感触に左手を掴まれた。


 その感触から想起されたのは、巨大な蛭。ぶよぶよとした何が何だかよくわからない生き物の感触だと思った。しかし、左手を握りつぶそうとする気なのか、徐々に掴む力が強くなるとちいさく固いものが皮膚に刺さるような感触がある。


じっとしてちゃダメだ。動かないと」と、恐る恐る左を向くと、女が手を掴んでいた。ぶよぶよとした感触の中に感じた固いものは爪だった。


 想像していた巨大な蛭では……ない。安堵していいのか余計に状況が悪くなっているのか判断がつかない。血色が悪く、およそ生きた人間とは思えない完食の手が僕の手をくらいついて離さないこの状況の悪さは、なにも変わらない。


 女の顔は相変わらず、床をみたままで手を強く握りしめてくる。


「……あの、離してもらえますか」


 声をかけてもしばしの沈黙がつづく。今もこっちを見る気はないらしい。大丈夫か?ちょっと心配になってきた……。


「気分が悪いのですか……?」


 静かな車内に、掠れた声がして何か言っているのだろうとは分かったが、なにせ声が小さく聞きとれない。


「えっと、あの大丈夫ですか?」


相変わらず掠れはいるものの、はっきりと聞こえた。


「降りないの?」

「……えっ」

 いやだ、降りたくもないし、ここでこの女に掴まれているのも嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。


 離してくれと、喉から絞りだした声も虚しく、状況に変わりはない。ギリギリと女の手に込められた力は強い。


その時、ぐるりと女が顔を僕に向けた。


目があう。


 目があったこの瞬間が、間延びしたように長い時間に思えた。女の顔をみて、女の目をみてようやく状況の異常さを理解した。 


 別に、ホラー映画によくあるような白目が一切ない黒一色の眼球をしているわけでもなく、その目が糸で縫いつけられているわけでもない。血色の悪いかさついた肌に、目だけは爛々としていた。

 視線は僕を捉えてはいるものの、微妙に目の焦点が定まっていないのが、視覚に頼らずに勘だけで獲物を捉えようとしている捕食者のそれに思えて、その目をみた瞬間に、自分の中でうまく押さえ込みができていたパニックの感情が暴走した。


 僕は無様に喚いて、やたらめったらやたらに抵抗した。理性ではなく被食される側の本能のようなものだった。見苦しく掴まれている左手を振り回して暴れた。

 故意ではなかったが、掴まれた左手が強か打たれた衝撃があった。その衝撃は掴まれた女の手ごしからやってきた。かなり……痛い。直にくらった女は、これよりさらに痛いだろう。


 痛さに冷静さを取りもどした。予想外の行動に怯んだのか、女も痛かったのだろう。込められていた力が緩んだ。この機を逃してはいけないと、第二の攻撃を間髪入れずに電車の壁にガツンと叩きつけた。鈍いが派手な音をたてた。痛い……自分もとても痛いよ……。


 女は、さすがに第二の攻撃がくるのから中途半端に逃げようとしたのと、僕が壁に打ちつけるのとが同時進行で行われた結果、逃げ遅れた女の指と、僕の左手の側面が大衝撃を受けることになったようだ……


 ようやく解放され自由にになった左手をかばいつつ、さっきまで座っていた座席から見て女子高生たちがいた右側へ走った。後ろは怖くて見れない。なんとか逃げ切ることだけを考えるんだ。


 走りはじめてすぐに、どうしようと困惑する。女子高生三人が横並びで道を塞ぐように立っていたからだ。逃げられないようにしているのか?ということは、この子たちもあの女と一緒なのか?それにしたって、なんで……。違和感にはすぐに気づいた。顔が、顔が、顔が……車窓からみた案山子のように赤い印がつけられていた。×の形をした赤くて細い虫が顔に覆いかぶさっているように見えた。顔の異変に無頓着なこの人たちは、本当に同じ人間か……?


 こっちにはいけないと悟り、恐怖を押し殺して車内の反対側、女のその後ろをみると、スーツ姿のおじさんと、イヤホンをしたお兄さん、この二人は着席している。二人の間隔が空いているので、女子高生よりガタイはいいが、こっちの方が逃げやすいか……?だが、そこに向かうまでに女を通り抜けなくちゃいけない。でも、やるしかない。駅にも降りたくない。


 とっさに緑色の座席に飛び乗って、逆走するイメージが浮かんだ。


「よし、行こう……!」心の中でつぶやいて、座席に飛び乗った。思いの外、自分の勢いがよすぎて壁が目の前まで迫ってきて焦る。さらに、床と違いふわふわとした感触に足を持っていかれそうになったが、なんとか耐えて走り出せた。


 女からしたら、予想外の行動だったのと、知らぬ間に、詰められていた間合いの狭さが功を奏し、いきなりの方向転換が難しい女と、そこを起点としてすれ違い、離れることができたが、見開いた目をした女を真正面から視線があってしまった。この一瞬の時間が異様に長かった。すぐにでもここから逃げたいのに。


 座席の端っこにある手すりをすり抜けることに成功したものの、ドアを挟んで反対側の手すりに体を軽くぶつけて勢いは削がれてしまったが、床に戻って走る。まずはイヤホンのお兄さん。走るごとに近くイヤホンのお兄さん。


 おそらくそうではないかと予想していたが、やはりそうだ。お兄さんも×の虫みたいなものがへばりついている。そのため、目をあけることすら叶わない。微動だにしなかったお兄さんが少し前傾姿勢になる。立ち上がろうとしている。その横を全力で駆け抜けた。よかった。間に合った。抜けることができた。


 あとは、スーツのおっさん!おっさんは、もう立ち上がってこちらを見ている……きっと見ているはず。赤い×印があるから目は開いていないが、僕のことをロックオンしているのだけは分かる。おっさん、お腹がでて貫禄があって、手強そうだ……。


 通路の真ん中に陣取ったおっさん。正直、なにも考えずに走ってしまって策は一切ない。その場しのぎのとっさの行動である。おっさんをなんとかできる気はしなかったが、もう引き返すこともできない。行くしかないと、それしか考えられずにそのまま、おっさんに向かって突進した。顔の×は気持ち悪いけれど、あの女の目に比べればまだ我慢できる。それほど、あの女の視線が怖かった。


 獣じみた雄叫びをあげながら、おっさんに体当たりした。


 返ってくる反動に気をつけていたら、あっさりとおっさんは倒れた。


 それは予想していなくて、予想外の手ごたえのなさに自分も一緒に地面に叩きつけられそうになったが、なんとか耐えた。いや耐えられていない。壁ドンならぬ床ドンみたいな状況に陥った。体制を崩したせいでおっさんの顔がすごく近くに迫ってきてキス寸前だったんだが!?僕の貞操が……危なかった。赤い×は、近くで見るとさらに気持ち悪いかった。小さな虫の集合体のようで、寄生虫のように微細に蠢いていていた。


動転して「すいません」反射的に謝ったが、謝る必要があるのかどうかもよくわからない。体勢をたてなおしたが、それにしてもおっさんを倒したこの感触は……いや、考えない。逃げないと。


 おっさんのすぐ後ろにあった車両の連結部分のドアに手をかけて、重量のある扉を鈍く動かす。自分が通れるギリギリの幅にまで開けて、体を連結部分に無理やりに滑り込ませた。

 恐ろしさしかない車両から抜け出せて、ほっとした。普段であれば少し不安を感じる連結部分の足元の不確かさと揺れを緩和させるための蛇腹の部分をみて、ほっとするとは。

 果たしてこれが本当に逃げるために必要な道順かなども考える暇もないのだが、駅に、シダヂに降りるのは最終手段にしておきたかった。

 イヤホンをしたお兄さんが通路の真ん中でこっちを見ている。あの女の姿が見えないので、まだそれだけの距離があるのだろうと、ほんの少し安堵したその時、お兄さんの体の横から手が生えてきた。そう見えたのだ。その手が、お兄さんを座席の方へと押しやった。押されたお兄さんは人の重量ではない儚さで、車窓に叩きつけられた。人間ではないみたいに––まるで藁で作られた人型を模したものの ような重量感……。


 突然のことに、呆気にとられたがさっきまでお兄さんがいたはずの場所に、あの女がいた。あの、捕食者の目をして、ほんのつかの間見つめあった。そして、こっちに迫ってくる。やばい。このままじゃ、捕まる。


 怖い怖い怖い怖い怖い。


 次の車両へと向かう扉に手をかけて、ゆるゆるとしか動かない速度に冷や汗をかきながら、開ける。その間にも女はどんどん近づいているのだろう。


 後ろに気配を感じた。後ろを振り返る勇気はなかった。


 ガンと、衝撃音が背後に聞こえる。走ったそのままの勢いで扉にぶつかってきたのか?怖すぎて見られない。見たらきっと挫けてしまう。


 早く、早く、早く、早く。


 次の車両に移りたいが、のろのろとしか動かない扉を両手で全力で押す。


 次の車両に無事にいけたとしても、その後どうなるか考えると気が遠くなる。逃げて、逃げて、逃げた先の最後の車両まで行ってしまったら、結局は駅に降りることになるんじゃないか。シダヂに降り立つ想像をして、なぜだか分からないが「それだけは駄目だ」と強く思った。この女に捕まってもいけないし、駅に降りたら……電車の扉が閉まって走り出すのではないか。そして……駅に僕と女が立っている––

 そんな最悪の妄想が、頭を駆け巡る。


 今できることをするだけだ。今はこの扉を開けることしかできない。ようやく、押し込めば滑るこめる程度に開けた。居ても立っても居られずに右足を突っ込む。その時、なにか不思議な感覚がした。世界ががくんと揺らめくような。

違和感にすこし動揺しながらも、今は進むしかない。足が入れば次に肩。肩さえねじ込めば、自然と閉じようとする扉を背中でブロックして逃げられ––––


 左指先に生ぬるい感触がまとわりついた。


 ひぃっと、声にならない音が口からでた。

 

 この感覚は、きっと女の手……。

 

 嫌だ、嫌だ。捕まりたくない。


 あんな風になりたくない。


 バツ印を顔につけたくなどない……!


 必死で体の半分以上を隣の車両に移せたところで指先の生ぬるい感触は失せた。体の重心を先においた足に移して、残った左足も隣の車両に移すことに成功した。


 ぐらり、また世界が揺らめいた。地震が起こったのかと思った。世界の秩序が千切れてかき回されたような。透明な水に突如、赤いインクを垂らして色が一気に広がるような決定的にさっきとは違うことがわかる感覚があった。


 そして、怖くて見ることができなかった後ろをようやく振り返った。


 女は狭く暗い連結部分に立っていた。こんなに近くに来ていたのかとゾッとした……ほんのついさっきまで、僕の手を掴もうとする距離感だったのだから不思議ではないかもしれない。しかし、先ほどまでの勢いがどこに行ったのか、女は呆けたような気の抜けた表情で立ち尽くしている。


 もう、追ってくる気がないのか?


 ゆっくりと目の前で、扉が閉じた。


 それを合図として、電車がすれ違う時のように、さっきまでの追いかけっこを繰り広げた車両と、今僕がいる車両とで、どんどんと距離が開いていく。こんなことはありえないことは分かっているが、連結部分の空間が間延びして、距離がどんどんと開いていく。小さくなっていく女を見送る。完全に見えなくなるまで、目を離せないでいた。


 女が小さくなっていくのに比例して、日々のざわめきが届いた。


 線路を走る電車のゴトンゴトンと心地い規則的な音。


 クーラーの送風が首にあたる。


 ハンディファンのウィーンという音。


 なにより、人の話し声。


 恐る恐る車両に目を向ける。少し、人がまばらでまだ座れる余地のある車内。窓からは青空。浮かんだ雲がゆったりと去っていく。


「次は~○○駅、○○駅」


○○駅!!いつもの駅!!


 静かにブレーキがかかりはじめた車内で、いつもの風景に安堵する。


 癖でスマホを取り出すと、通知がきている。


 待ち合わせの時刻には遅刻だろうかと、時間をみると当初乗っている電車で間違いないようだった。友人には待ち合わせの時間に間に合うと送っておいた。


 どっと疲労感を感じているし、おもいっきり壁にあの女の手ごとぶつけた痛みは続いていて、あれが幻影だと思うことの方が今は信じがたいが、現実にはなかったことになっているようだ。存在しない駅に行ったというのがあっているのか?


 さっきまでの出来事が白昼夢だったと思う日がやってくるのだろうか。


 次に停車する○○駅は人の乗車人数が多い。扉が開く前に座っておこう。さっきまで、電車の中であんなに走り回ったんだから……。


 さっきまでいたはずの車両は、あの女を乗せて消え去り、その後はいつものありふれた風景に戻っている。穏やかないつもの景色だがさすがに、なんとなくその車両から離れて適当な場所に座った。座ると途端に眠気がまわってきた。


 扉が開いて人が流れ込んでくる。


「車両の中程までお進みください」と、お決まりのアナウンスが聞こえる。


 いつもはうっとおしい混雑具合がとても懐かしく、安心する。眠い。そらそうだ、あれだけ暴れたんだから。目を開けてられない。ちょっと一眠りしても時間は大丈夫だろう。そう思い、まぶたを閉じ、ぼくの世界が黒くなった。


 黒い世界は電車の揺れとあいまって心地いい。誰かが僕を呼ぶ声がする。嫌だ。ほっといてくれ。もう僕は動きたくない。疲れた。もう眠りたい。もう嫌なんだ。うるさい。呼ぶな。黒い世界で僕は耳を塞ぎ、身を縮こませている。子供のように、嫌だ嫌だと駄々をこねるようにしていると、左手を掴まれた。


 はっとして、顔を上げる。息が荒い。冷や汗もかいている。相変わらず混んだ車内の中に、あの女が潜んでいる気がした。辺りを警戒してせわしなく見渡す。左隣にすわったおじさんが怪訝そうなでこっちを見てくる。眠っていた時に力が抜けた左手がだらりとたれて、隣の人の膝の上におかれた鞄にあたっていたのを見て、ちいさく「すいません」と言って、自分のテリトリーに手をひっこめた。


 今も、ぶよぶよのあの女に掴まれた感覚は残っている。


 電車に乗っただけなのに、とんでもなく大変だったが、待ち合わせの時間には余裕で間に合っているし、SNSで警告してくれた人にお礼を打ってから先に用事を済ませておこう。


 友達が遠くから歩いてくるのが見えた。


 呆れられるかもしれないが、さっきまでの出来事を話そう。


「電車乗り間違えたって言ってたのに、早かったな」


「いや、大変だったんだよ!乗り……間違えたのかは分からんが聞いてくれ」


「おう。にしてもなんだその荷物」


「ああ、時間があったから買い物してきた」


「何買ったんだ」


 友人にドンキで買った袋の中身を見せると、友人は怪訝な顔をした。


「ドンキ、なんでも売ってるな」とあたりまえのように話した。


「そんな縄なんて、何に使うんだ」


「下がるんだよ」





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

悪夢への路線 @suzumushi555

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ