【思い出】マンションの廊下を這う男

 「すみません、ベランダから隣の部屋の様子を確認させて下さい。」


 当時、私は社会人一年生。製薬会社に入社した私は、新入社員研修を受けるため本社近くのマンスリーマンションに住んでいた。そのマンスリーマンションは高田馬場にあり、色々な会社の同じ境遇の同年代が多く住んでいて、今思えば外国人も多く住んでいた気がする。飲み屋も近くに多くあり騒がしいしゴミがたまに散乱していて汚かったが楽しい町だった。


 「こちらの部屋の隣に入居しているのが私の同僚なのですが、反応がありません。ベランダから隣の部屋の様子を見せて貰えませんか。」


 この非常識なお願いをしてきた男も私と同年代くらいだった。恐らく私と同じく、入社した会社の新入社員研修の真っ只中なのだろう。朝の7時半である。出勤の支度で忙しい時間帯のためイラっとしたが、その男の眼差しはあまりにも真剣だ。よく見るとその男の背後には同僚らしき人物が複数人いた。なんかトラブルかな。


 「まぁいいですよ。見てみて下さい。」


 私はとりあえず了承した。まぁ別に私は困らないしな。その男は申し訳なさそうに部屋に入ってきて、ベランダから隣の部屋の様子を覗いていたが、カーテンが閉まっていて見えなかったらしい。私に一言お礼を言って去っていった。


 一体なんだったのだろうか。非常に気になるがそろそろマンションを出ないと研修に間に合わない。モヤモヤとした気持ちを抱えつつも玄関のドアを開き廊下に出ると、そこは壁や床などのいたる所に血の跡が付いた凄惨な状況になっていた。


 「なんだこれ。」


 少し鼻血をこぼしたとかそういうレベルではない。まさしく出血である。とくに床の血の跡がくっきりしていて、私の部屋の周辺からマンションのエントランス付近まで出血しながら這ったように血の跡が続いていた。エントランスを出ると、救急車とパトカーが停車していて、警察が何人かマンションに出たり入ったりしていた。


 殺人か?誰か刺されたのかな?非常に気になるが会社に遅刻するわけにはいかない。気持ちを切り替え高田馬場駅に向かった。


 その日の夕方。会社から帰るとマンションの床や廊下の血の跡は綺麗に無くなっていて、もちろん救急車やパトカーも去っていた。


 明日は説明会(ドクターに自社医薬品の説明、データとかエビデンスとか)のテストだ。テストに落ちると人事部からダメな新人の評価を受けてしまう。入社してそうそう目をつけられるわけにはいかないので部屋で1人説明会をしていると来客のチャイムが鳴った。


 「朝はお忙しいところ申し訳ございませんでした。」


 朝の男とその同僚達である。お詫びの手土産を頂いた。そしてコトの経緯を教えてくれた。


 昨夜、男と同僚達(隣の部屋の住人含む)は朝方まで居酒屋を梯子してベロベロになるまで飲んだらしい。男達は同じ会社の新入社員。新入社員研修を受けるため、全員このマンスリーマンションに入居している。マンションのエントランスで解散となったそうだ。解散となったので同僚の1人が私と同じ3階の部屋に戻った。その部屋はベランダはなく代わりに申し訳程度の柵がついた出窓があった。


 ここまで書けば何となく想像できた方もいるかもしれないけれど、その男は酔った状態で出窓の柵に腰掛けそのまま1階の地面に落ちたらしい。死にはしなかった。ただ脚の開放骨折である。まだ酔いから覚めていなかったせいか、それとも落ちた時に頭を打って正常な判断が出来なかったせいかはわからない。その男は落下した後、1階の住人に助けを求めるのではなく、這ってエレベーターに乗って3階に戻り、3階の住人に助けを求めた。床の血の跡はその男が這って移動した跡。壁の血の跡は3階の住人に助けを求める際にチャイムを押そうと血のついた手で壁を触った際に付いたらしい。


 それが今朝の救急車、パトカー騒ぎの真相である。


 ちなみに私の部屋の隣の住人はそんな騒ぎがある中、最後まで連絡が取れなかった。結局酔って寝ていただけらしいけれど。まだ今朝の段階では骨が出て這った男が出窓から落下したということがわかっておらず、状況が不明だったため連絡が取れない隣の住人も何か大変なことになってるのではないかと考え、早朝に非常識なお願いをしに来たということであった。


 

 

 それから時間が経ち、3ヶ月の新入社員研修が終わり、私の群馬県への配属が決まった。残り少ないマンスリーマンション生活を満喫していると手土産を持ってきた男とその同僚達、そして松葉杖をついた男を見かけたことがあった。彼が廊下を這った男か。意外に大人しそうな気の弱そうな感じの人だった。


 

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