ケース4・5

◇ケース4


 六月一日。この日もまた、揉め事が起きていた。


「ちょっとコーチ、どういうことですか!」

「まあまあ、一体何が起こったって言うんですか」

「どうしてもだ、どうしても私自ら謝りに行かなきゃいけない用件ができてしまってな……本当に済まない」


 信州のとある高校の野球部の部員たちが、コーチの男性を激しく責め立てていた。


 まあ明日が試合だと言うのに急にどうしても抜けられない用件が入ってなどと言われれば、不満を訴えたくなるのもお説ごもっともではある。


「コーチじゃなきゃダメなんですか?ってか一体誰に……!」

「オレも行きます」

「おいこらちょっと待て!」


 そんな中、背番号1を付けた野球部のエースが同行を願い出た。明日の試合で先発を勤める事が確定的なエースの裏切り行為に、他の部員たちはますます憤りを強くした。


「実はオレ、十日前にボールを一つなくしちゃってさ……」

「何を急に言い出すんだよ!」

「そうだよ、それは僕が……その件で謝るのならば僕が」

「自分がやってない事で責め立てられたら嫌だろ、そういう事だ。ですよねコーチ」

「ああそうだ」


 その時、部員の一人が何かを思い出したと言う顔になった。


「そう言えば先月、今度の対戦が決まった日俺体調崩して休んでたんですけど、その時何かあったんですか」

「ああ確かあの日、コーチが顧問と一緒に……」


 と、ここで部員たちの顔色が急に真っ白になった。

 あの時、コーチは選手たちに対し一流の野球選手になる前に一流の人間たれと言ってたっぷりミーティングを行ったのである。


「すいませんコーチ、俺たちが勝手でした」

「そうだよ、悪い事をしたらきちんと謝らなけりゃいけないんだよな」


 そしてその時の風景が一挙に頭によみがえったのか、昨日の三人家族の娘・社長秘書・恋人と揉めた女性と同じように、彼らも突然手のひらを返すかの如く同調した。


 あのひと月前に何があったと言うのか、その時病欠していた一人の部員は困惑に包まれた表情で周りの仲間たちに聞くが、皆ちゃんと謝らなけりゃいけないだの相手のチームに連絡を入れなきゃいけないだの大騒ぎで誰も答えようとしない。


「あのさ、エースが言った事覚えてる?してない事をやったって言われたら気分最悪だろ?だからさ」

「お前たち、そんな事をやったってのか!」

「ああそうだ、だからこれから謝りに行かなきゃいけないんだよ。ああ、お前はやってないからいいよ」

「そうそう、悪い事をしたのは僕たちだからな、お前は何にも悪くない」


 チーム一同がすっかり謝罪と言う二文字に取り付かれていた中、一人残された部員はそんな訳の分からない流れに同調する気にもなれず、かと言ってチームの和を乱したくもなく、だってため息を吐くしかなかった。

 謝罪に向かう予定の日時をコーチから告げられて解散した後、救いを求めるかのように顧問であり担任である教師に電話をかけてみたが、結果は同じだった。


「…………俺も行くよ」


 結局、彼にそれ以外の選択肢はなかった。




◇ケース5


「講演は中止します、昨日もそう述べたではありませんか」

「そんな事を言われましても」

「もう時間がありません、これで失礼いたします!」


 プツリと言う音と共に電話は切れた。


 かけ直してもおかけになった電話はと言う定型句が流れて来ただけでそれ以上の反応はない。




『三十幾年教職にあり続け数多の高校生を指導して来た先生が、何故此度の講演を楽しみにしていた数百人の方々を見捨てるような真似をなさるのでしょうか。先生は今回の事案に対し自分は講談を行うに値しない罪を犯した旨申し上げておりますが、一体どんな罪を犯したと言うのでしょうか。そしてその罪を悔い改め謝らねばならないと申し上げておりましたが、大変失礼ながらそのように急いて為すべき事なのでしょうか、私どもにはたいへん疑問でございます。当方といたしましては是非とも先生が犯したとおっしゃられる罪について告白していただき、その罪をほんのわずかでも当方がお引き受けできる事を願っております。』




 三十幾年教職にあり続けて来た一人の男性を招いての講演を開催前日になって本人から突如中止する旨言い渡された担当者の怒りは深く、質問と言うより尋問、尋問と言うよりけん責めいたメールを講演の主へと送り付けた。




『誠に申し訳ないお話ですが、私はかつて罪を犯していない生徒を晒し者にして弄んでしまいました。その罪を悔いない限り私には教育について口を開く資格などございません。ゆえに私は此度の講演をお引き受けする事はできないと判断いたしました。自惚れによりこのような安請け合いをしてしまった事については悔やんでも悔やみきれない失態であり、私の軽はずみによりそちら様にも多大な迷惑をおかけしてしまった事については深く深くお詫びいたします。』




「居留守かよ!」


 自分からドタキャンの電話をしておいて半ば一方的に電話を切り、それに対するけん責のメールを送り付けられてから一時間ほどでこんな長文メールを送り返して来た事を憤ってみたが、かと言ってどうなる物でもない。


 潔白と言うより潔癖ではないかとも思う。確かに無実の人間を責め立てたのは問題だとは思うが、三十幾年の教師生活、と言うか今までの人生でそんな過ちを犯した事がない人間が本当にいる物だろうか。


「はぁ……こちとらの苦労も考えて欲しいもんだよな。謝罪とか格好のいい事ほざいてくれちゃってもうあちちち」

「すいません、コーヒー熱くしすぎましたか?」

「ほら、そういう事だよ、なあ」


 公演中止を知らせるメールをパソコンで参加者に送っていた三十路の男性は、コーヒーの熱さに悶えながらコーヒーを入れて来た社会人二年生の女性の方へと向き直った。


「最近あのポット調子が悪いんだよ、まあ俺が言うのを忘れたのがいけないんだけどさ。要するにだ。自分の失態でもないのに責められる事なんてのはままある事なんだよ」

「ええ、すいません」

「お前は悪くないんだよ、あのポットとその事を説明してなかった俺が悪いんだっての。そりゃあの先生だっていっぺんぐらい間違いは犯してるだろ」

「どんな間違いを犯したのかうかがいたくもありましたが」


 どんなに優秀な人間でも、間違いを起こす事はある。その間違いに対しいかなる対応を取りどうやって来たのか、その話を聞きたい人間もいるだろうに。どうしてその事がわからないのだろうか、何が教師歴三十幾年だと憤りが隠せなかった。


「こちとら土日返上で仕事だってのによ…!」

「ほんと困りましたよね……あっすみません私の携帯です。


 何々、あっお母さん。ったくもう土曜日とは言えこんな時に……もしもし母さんこっちは仕事中で、えっ何電車を教えてくれ?ふざけないでよ帰ってからにして、えっどうしても明日中に謝りに行かなきゃいけないから!?」

「何だって!」

「ああごめんなさい先輩!」



 明日中に謝りに行かなければいけない、そのセリフを聞かされた男性の髪の毛が逆立った。

 あの先生様だけでなく、他にも罪悪感に取り付かれ全てを放棄して謝罪と言うもっともらしい道理に身を任せる人間がいると言うのか。どいつもこいつも自分勝手だと言わんばかりの男性の反応に女性は脅え、なおさら早口になった。



「それで母さん謝りに行かなきゃいけないっていったいどこの誰に、何言ってんの母さん顔は知ってるし場所もわかってるけど名前は知らないだなんて、まさか母さんまだ五十前半でしょ私がお嫁に行く前にボケちゃったんじゃないでしょうね!ってか明日の何時ごろ着くつもり?えっ朝十時!?それじゃ朝一番に出て電車であそこの駅まで出て、それからね、ちゃんとメモ取ってる!?」

「何だよお前のお袋さんどうしちゃったんだよ……!」

「ああすみません先輩、うちの母がどうしても行き方を教えて欲しいって」

「どこにだよ!」

「それが……」



 後輩である女性の母親の行き先を知らされた男性は、いよいよ堪忍袋の緒が切れたと言わんばかりに手のひらを机に叩き付けた。

 あのちょっと待ってねと言いながら女性がスマホを取り出して先ほどドタキャンして来た元高校教師の行き先と同じであった旨述べると、男は呼吸を荒くしながら女性が懐に抱え込んでいるスマホをその視線だけで破壊できそうなほどの眼力で睨み付けた。

「どうせ明日このホールが使われるのはあの講演だけだったから、この調子じゃ明日世間様と同じように俺も休みになるだろうからな、行ってやるよお前のお袋さんと一緒に!」

「先輩……」

「あの先生とやらがどうしてそんなとこに行かなきゃいけなかったのか、聞かせてもらいたいんだよ!」

「おい静かにしろ!」

「………………すみませんでした」

「………………まあ少し落ち着け」




 上司からの叱責で男は口を閉じたものの、目からは殺気が全く消えていなかった。その殺気たるや叱責した上司の方が却って怯んでしまうほどであり、今回の一件が彼にどれだけの打撃を与えたかは推して知るべしと言うべき物であろう。


 結局彼の言葉通り翌日の日曜日は休みとなり、他の予定がなかった事もあり彼もまた後輩の母親と共に例の駅へと向かう事になったのである。

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