引きこもり少女
家の中で小学六年生の少女が、オフィスで一人の社長秘書が、公園で若い女性が態度を急変させた頃、東京に住む一人の四十路の女性は力なく据え置き電話の受話器を置いた。
彼女の口からため息がこぼれ、表情に生気はない。
相手の誠意がわかっているだけにつらい。
あれからほどなく十ヶ月が経つ。
その間ずっと、何も変わらなかった。
ツナとトマトとレタスにオニオンスライスを挟んだサンドイッチ、それと牛乳を濃い茶色をしたお盆に乗せ、ドアの前に置いた。
その手際がどんどん良くなって行く事が恨めしかったのは三ヶ月前ぐらいまでで、今ではもう正直どうでも良くなってしまった。
「翔子!」
そう声をかけるのは部屋の主を動かしその生命を保つがためだけである。
主が部屋から出て来るなどと言う次元の話など、裕子は期待していない。
その声に応えるかのようにドアが開き細い腕が伸び、サンドイッチと牛乳が乗ったお盆を引きずり込んだ。それきり、返事は何もない。
「翔子、先生から」
「一体何回目?それぐらい覚えておいてよ、親ならば!」
「ごめん、ごめんね翔子……」
「ったくもう使えないんだから!」
翔子の八つ当たりにも慣れ切ってしまった。正確な回数など覚えていないし、適当に言えばますますエスカレートする。だから平謝りするしかなかった。その無意味な謝罪に、翔子がやり場のない気持ちをぶつけるまでが日常になっていた。
裕子は幾度も、自分も夫の次郎も都会生まれであった事を呪った。どちらかでも地方の人間であれば、そこに娘を移してゼロからのスタートを切らせる事ができるのにと思わずにいられなかった。
「無駄だよ、何もかも無駄なの!お父さんもお母さんも、全然わかってないんだから!」
それでも自分たちなりに伝手を探し、遠く地方の学校に一人だけで送り出そうと思い翔子に迫った事もあった。
でも自分たちなりに精一杯手を伸ばしたはずだったのに、翔子はその手を全力で払いのけた。
「まだ先生は必死に頑張ってる、そしてあそこの店長さんも」
「それなのにな……」
「言いたい事はわかりますけど本を閉じて下さいます」
次郎は英語のテキストを乱暴な音を立てながら閉じて膝に置いた。
「最近じゃもったいないからって昼ご飯を食べなくなっちゃって、その結果か知らないけど体重がだいぶ落ちちゃってて」
痩せると言うよりやつれると言った方が適当な有様であり、その上に最近では入浴さえも四日に一回の上に美容院になど一度も行っておらず、十ヶ月もの間引きこもり状態であったと言う前提を加味しても見るに堪えないほどに弱り切っていた。
「あきらめたら負けだってのはわかってるけどさ裕子、翔子の求める答えって何だ」
「あなたはどう思うのよ」
「現実的なそれか」
現実的な何々と言う物言いは、たいてい非現実的な何々が頭の中にある場合に使われる。
二人とも四十路の大人であり、そんな非現実的な何かに縋るなど普通はしない。しかし裕子も次郎もこの十ヶ月で疲れ果てており、非現実的な何かに縋りたくなっていた。
「それでどうなの、転職活動の方は」
「なかなかないよな、このご時世」
次郎が英語の本を手に取っているのは英語の勉強のためであり、翔子の為である事は裕子もよく知っている。二十年余り仕事を続け、部下数十人を持つ部長にまで出世した次郎だが、その勤め先に海外での働き口などなかった。
娘の気持ちをこの世に取り戻す最後の手段として、家族ごと海外に行ってまるっきりゼロからやり直すと言う事を次郎は考えていた。転職活動ももちろんその為である。
裕子はとりあえず賛同したが、それきり次郎は半ば逃げるように英語の勉強を貪り出している様子で、娘についてはかなりおざなりになっていた。
この調子では転職活動も怠っているのではないかと思いたくなったが、それを責めた所で何も解決しないのがわかっているし、またどんなに貪る様にやった所で、たかだか半年程度の勉強で急に転職に有利なほどのスキルが付く物でもないと言う事もわかっているから口をつぐんだ。
「どうしてあの子は……」
「でもさ、勉強だけはしてるんだろう?」
「一応ね。でもなんていうか、ぶら下がっているていうか、しがみついてるって言うか」
翔子は一年生の一学期期末テストで、学年で一番の成績を取ったほどの優等生だった。その事は次郎と裕子の自慢でもあり、翔子のプライドでもあった。
そのプライドと残して来た結果に負ける事だけはしたくない、それだけが必死に翔子を支えていた。乱暴極まる話だが、一度も登校せずとも中学校を卒業したと認められれば高校受験は可能であり、今のままきちんと勉強を続けて高校に受かればまた元の道に戻れるかもしれないと言う期待もあった。
「しかしなあ……どうしてあんな話が」
「今日はハンバーグよ」
次郎が顎に手を当てて過去の事を考え直そうとするや、やめてと言わんばかりに裕子はキッチンへと駆け込んだ。現実逃避とはわかっているが、そうでもしなければ持たない所まで追い詰められているのを、裕子も次郎もわかっていた。
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