4.写真家のエゴ 唄え、ハコ


 当然、無名の一般人がただ唄っただけでは閲覧数はつかなかった。



「おはようございます。ハコです。大沼と小沼に、公園名物の睡蓮が咲き始めました。蓴菜沼で収穫される蓴菜じゅんさいは、つるっとした透明なゼリーのようなものが包んでいて、お蕎麦にのせて食べるとおいしいです。今日はZARDの『Good-bye My Loneliness』です」


 淡々とその日、そこで唄い続けた。


 やがて少しずつ閲覧数が増える。

 さまざまな曲を唄っていると、その曲を調べて検索したときに動画がヒットするらしい。そこで視聴したとかで、コメントが残されるようになった。



*北海道ですか!? すごく綺麗なところ。大沼というところなんですね

*唄、へたくそ。恥ずかしくないのかよ

*リクエストしてもいいですか?

*毎日やっているんですか? 今日の山と湖がどんなふうなのかついつい覗いてしまいます。あ、お歌も聞いてますよ

*景色だけでいい。唄、いらない



コメントには敢えて返信はしなかった。

配信コメント欄だけでなく、SNSにもコメントがつくようになった。



「まだ八月ですが盆をすぎると北海道は秋の気配になります。リクエストから。森高千里『さよなら私の恋』です」


 閲覧数がある程度記録されるようになると、リクエストが増えた。

 そこから歌えそうなものから採用する。

 秋にはリクエストが殺到するようになった。


「大沼の紅葉は湖面も美しく秋色に染まります。雪虫が飛んでいたので、もうすぐ初雪でしょうか。今日はThe Nolans、『恋のハッピーデート』です」


*紅葉、綺麗~♪ 湖面に映っていますね!

*駒ヶ岳もほんのり赤く染まって綺麗

*ノーランズ、母ちゃんがよく聞いていた!

*ただ毎日歌って、なにしたいのこの人?

*リクエストお願いします。いきものがかり…


「とうとう雪が積もりました――。湖面も駒ヶ岳も森林も真っ白です。今日はいきものがかり『ラブソングはとまらないよ』です」


*真っ白な大沼も素敵ですね!!

*教えて。どうして毎日、おなじ時間に唄ってるの? 歌手になれなかったから? そんなレベルだなってかんじだよね。諦められなくて足掻いてるの? みっともないとか思わないの?

*やめなよ。いいじゃん。たとえそうでも、彼女がそれで満足しているんだから

*別にそこ責めてないよ。彼女が毎日こんなことをして、なんの得にもならないけど、ここだいぶ閲覧数増えて収入もできてるとおもうんだよね。そういう目的? それともここからもう一度有名になる足場にしたいわけ?

*おまえのほうが余計なお世話。そうなってもいいじゃん。俺は毎日この風景と彼女の唄をたのしみにしてるよ

*うちの母もお祖母ちゃんも毎日楽しみにしてるし、このまえリクエスト唄ってくれて嬉しそうにしていたよ

*ちょっとの小遣い稼ぎで満足なのかよ。こんなところで、少しの人に褒め褒めされていい気になってないで、唄いたいならプロになるため粛々とオーディションを受けていればいいんだよ

*もうそれも通り超して、ここでただ唄いたいだけなのかもしれないよ

*敗者の嘆きなわけねw



『秀星さんは、純粋なんだね。ひたすら写真のために、なんでも写真のためにと思いを傾けて、ここまで来たんだね』


『違うよ、ハコ。そんな綺麗なもんじゃないよ』


これは僕のエゴだ。

エゴはね、そいつの最大の我が儘だから、本人にとってはとっても気持ちがいいんだ。でもね。受け取るほうも、周りでその活動を見ている人々にとってもほとんどは無関係だったり、意味がわからなかったり、滑稽だったり。そして――、人のエゴからつかみ取った精神の塊に惹かれる人もいるんだ。ただそれだけで。最初はかっこいい男になりたかったんだと思うんだけど、いまの僕はもう、エゴの快感に染まりきった欲望にまみれた男なんだよ。エゴを喰って生きている。エゴの旨みを忘れられなくなった。やめられないんだ、もう……。



これは私のエゴだ。


 どのコメントにもそう返信したい。



ハコ、唄うんだ。どうにかして唄っていくんだ。

ハコ――、死ぬほどほしいものがあることは、しあわせなことなんだよ。僕にはそれが写真だったよ。写真がなくちゃ仕事もここまでやれなかった。



 あの人の声が聞こえるよ、唄っていると聞こえるよ。

 唄え、ハコ。自分のエゴのために唄え。


 それはもう誰のためでも、なにのためでもない。


 閲覧数が稼げなかったら才能がないと誰も相手にしてくれないと自信喪失するから怖かった。下手な唄だと後ろ指さされるのが怖かった。朝、おなじ時間に湖畔で唄うなんて、気取っているとか、恥ずかしくないのかなと遠巻きに眺められて、遠くからクスクスと笑う声が聞こえてくるなんて、恥ずかしかった。


 いまはもうそれはない。

 秀星さんとおなじ。ここで、毎日、ほぼおなじ時間に、湖と遠い岳と空へと音を飛ばす。


 新年を過ぎ、雪深い季節になって父が報告してくれた。


「特別縁故者として、秀星の写真データを相続することができたよ」


 数々の手続きと申請などを経て、彼の身の回りの世話をしていた者として認められた父に、相続許可がでたとのことだった。天涯孤独だった秀星の所有物の一部を、こちらで引き取ることができた。


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