鬼の幸せな一生

木風麦

鬼の幸せな一生

 とある辺境の村では、鬼が山に住み着いていた。

 だがその鬼というのは、童話に出てくるような色彩豊かな生物ではなく、野獣と称した方が当てはまる風貌をしている。

 鋭いツノを二本頭に備え、熊のような手足に、獅子のようなたてがみを持つその生物は、生まれた時から孤独であった。

 そのため生きていくために必要な食料も、寝床も、全て自分で用意しなければならなかったのだが、産まれたばかりの幼子にそのような能力は無いに等しい。魚の種類によっては記憶に生存するための知識が伝達するものもいるが、鬼にはそんなものがない。


 そう。鬼は産み落とされ、そのまま捨てられたのだ。


 鬼はそのまま野垂れ死にするはずだった。だが、なんと生き延びるのだ。

 幼いながらも、鬼だからであろうか。生命力逞しいからか、はたまた毛が厚いからであろうか。おそらく全てが噛み合ったからこそ生き永らえたのだろう。

 鬼は当然、口にしてはならぬものもしらない。つまり毒になる魚も草木も食らったということだ。

 それでも鬼は死ななかった。

 死にたくなる程の苦痛がずっと続くだけで、鬼は死ななかった。

 そんな鬼は、いつしか人をも喰らうようになる。

 人間の親が、わが子を山に捨てに来るのだ。

 その山はいつしか鬼のナワバリと化していき、人間を喰らい続けた鬼は、どういう原理か自然と人間彼らの言葉を覚えた。



 そんな暮らしを、一体何年、何十年積んできた頃であろう。


 いつものように、赤子たべものの泣き声に反応した鬼は声を辿る。

 見つけた赤子は産み落とされて間もないようで、微かに甘い匂いがした。

 そのカゴを掴もうと手を伸ばした時―—。


「ちょっと貴方!!」


 草陰から、人間が飛び出してきた。

 鬼は不意をつかれ、一瞬動きを止めた。

 その隙に人間は赤子と鬼の間に割って入り、キッとまなじりを吊り上げ鬼を睨んだ。

「この子を喰らうことは、わたくしが許しません!」

 鬼は、人間の殺気に怯んだ。

 その赤子を庇う手は震えているのに、鬼を今にも殺さんとするその瞳の迫力に、鬼はどこか憧れた。

 何故かは、分からなかった。

「……それ……」

 鬼が低い唸り声と共に言葉を発すると、「喋った……!?」と人間は目を見開いた。

「……それ、俺の……めし」

「あなたのお膳ではございませんっ!この子は、あなたには食べさせません!」

 人間は必死の形相で、今にも倒れそうな顔色をしているのに鬼から目をそらさずに睨みつけてくる。

 鬼は躊躇うように、

「俺のやま」

 と、首を傾げる。

「……存じております。ですが、この子は……人間は、食べないでほしいのです」

「?なんで」

 鬼はより一層頭を傾ける。

「人間、魚食う。鳥、殺す。俺、人間食う。何が違う?」

 人間は弱々しく微笑んだ。

「違いませんよ」

 と。

 ようやく、人間の震えが治まった。

「人間を、食べて欲しくないのです。私がそう望んでいるだけなのです。どうか聞いていただけませんか」

「……じゃあ、人間、山来るな」

「……それは、難しいです」

 人間はそう苦笑した。

 鬼は低く唸った。

「人間、わがまま」

「えぇ、本当に」

 そうなんですよ。

 人間はそう言って、また困ったように笑う。

 鬼は何故か、そんな人間から目が離せなかった。

「どうか、聞き届けては貰えませんか」

 と、人間は鬼を見上げる。

 真っ直ぐ向けられる視線に、鬼は目を逸らして渋々頷く。

「ありがとうございます」

 人間の柔らかい笑顔に、鬼は胸がくすぐったくなるような、妙な気分になった。

「あの、それでですね…………」

 なかなか言葉を紡がない人間に、鬼は「なん、だ」と促す。

「この子を、ここで育てても良いですか」

「いやだ」

 鬼はダメではなく、嫌だと言った。

 人間は「嫌でも」と縋る。

「私、毎日この山にきてお世話します。夜の間、お願いしたいのです」

 人間は頭を下げた。

「なぜ、俺が」

「あなたにしか頼めないのです」

 人間は切羽詰まったような物言いで、鬼に一歩近づいた。

「お願いします」

 潤む瞳が真っ直ぐに鬼を捉えて、離さなかった。



 鬼は渋々了承し、赤子が山でひっそりと育てられることとなった。

 赤子は伊都いとと名付けられた。

 伊都は逞しかった。

 幼児で、しかも女子にもかかわらず、伊都は山で生き延びた。


 鬼は何度か伊都を食らおうかと思った。

 ただその度に、伊都は可愛らしい笑みを鬼に向けるのだ。

 敵意のない、好意的な笑顔を。


 気づけば、鬼は、すこすこと寝息をたてる赤子に気を許していた。

 赤子は鬼の腹に頭をのせ、気持ちよさそうに指をしゃぶっている。


 赤子が劣悪な環境で生き延びるのは困難だ。また、些細なことで命を落とす。この時代、この山で赤子が生き延びるのは奇跡という他なかった。

 だが伊都はそんな環境をものともせず、すくすくと大きくなっていき、半年が経つ頃には簡単な言葉を発するようにまでなっていた。


 鬼はいつしか、そんな赤子を食べ物と認識しなくなっていた。

 情が湧いたのだ。

 一緒に過ごすうち、食べ物ではなく、人間で言うところの家族のように思えた。「家族」という響きは、どこか鬼の存在を遠ざける。なのに、赤子もこの人間も、どうしてか鬼を拒まない。他の動物は、鬼を見るなり一目散に逃げるのに。

「……人間の成長は、早いものだな」

 鬼も、流暢に言葉を話せるようになっていた。

 先の人間が毎日赤子と鬼に向かって話し続けた賜物だった。

「そうですよね」

 人間は頬を弛めて、嬉しそうに声を弾ませる。

「……もう半年経ちますけど、お名前お伺いしていませんでしたね」

「ない」

 鬼の短い拒絶に、人間は「そうでしたか」と首を軽く竦めた。

「では……おにいちゃん、でいいですかね。『鬼』なわけですし」

「……兄というのは、こんなに屈強で毛むくじゃらではないはずだが」

 鬼の指摘に、人間は「それもそうですね」ところころ笑う。

「では鬼さんかしら……でも名前ではないですし……あ、黒いからクロさんで良くないですか?」

「犬か?」

 鬼の言葉にまた人間は楽しげに笑う。

 その時間が、鬼はとても好きだった。


 だが、その時間は長くは続かなかった。


 いつものように人間が山にやってきた時、鬼は血の匂いをたしかに嗅いだ。

 その匂いの元は、その人間だった。

 擦り傷、打撲だらけの体に、目の周りは青黒く腫れている。

「どうした」

 鬼は目を細めながら人間を仰ぎみる。

 すると人間は、

「どうもしてないです」

 と笑った。

 いつもと同じ、鬼が好きなあの笑顔だった。


 人間というのは、血が出ていても笑うものなのか。


 鬼はじっと人間の背を見つめた。

 人間の背は折れ曲がらず、しゃんとして芯が通ってるかのようだった。


 その傷が癒えぬうちに、人間は新しい傷をつくってくるようになり――。


 ついに、人間は赤子を抱いたまま居なくなった。

 鬼に、何も告げずに。


 鬼は待ち続けた。

 何日も、何ヶ月も。

 だが、人間は山に来なかった。


 何回、すみれの花弁が散っていったであろう。


 鬼はようやく重い腰を上げ、村へと向かった。


 村は活気が溢れてはおらず、いつ総崩れしてもおかしくないような空気が漂っていた。

 物乞いはその辺りにたむろし、衛生など見る影もない。その一方で、紫衣に身を包んだ者は二重顎と錫杖しゃくじょうを揺らしながら、悠々と道の真ん中を歩いている。

 その様子に、鬼は顔をしかめた。


 鬼はあの人間と赤子の匂いを辿っていく。


 辿り着いたのは、大きな屋敷だった。


 そっと塀を越え、屋敷に潜入する。

 大きな建物とは裏腹に、中はとてもボロボロで、床の軋む音が絶えず鳴っている。


 見つけた。


 鬼は、その姿にゆっくりと歩み寄った。

 山に着て来る格好とは違い、とても豪奢ごうしゃで煌びやかな着物を身にまとっている。


 近寄り難かった。

 もし望んで鬼のもとから去ったのなら、声はかけない方がいいに決まっている。

 あの、一瞬の幸せを味わえただけでも満足なのだ。

 あの人間が笑ってくれただけで、なんだか満たされた気分になるのだ。


 やはり帰ろう、と背を向けた時だ。

 バシンと大きな音がした。

 振り返ると、その人間は頬を抑えて床にへばりつくような格好になっていた。

 何が起きたか分からない鬼は、その光景をただ眺めていた。

 人間は、同じ種族の雄に叩かれ、罵声を浴びせられ、髪を引っ張られている。

 痛くはないのか。なぜあの人間は抵抗しない。

 だが、唐突に気がついた。

 かの人間は、その腕の中にあるものを守っているのだと。


 ああ、あれは。


「伊都」


 つい、うっかり。


 そんな言葉でしか説明ができない。

 なにか考えるでもなく、その子を見て、するりと出てきてしまったのだ。


 だが鬼に気づく者はいなかった。当然だ。鬼は山をナワバリとしている。そしてそのナワバリ以外のところでは姿を見ることができない。

 なぜなら、鬼は存在が不確定で、不安定な、生き物ですらない存在だから。

 多くの人間が吐き出した「負の感情の流れ」が、山に捨てられ死んでしまった赤子らの魂と結びつき、「鬼」という存在が誕生してしまった。

 毒を食らっても死なないのはある意味当然だった。

 「食べる」という行為自体が、本来鬼には不必要な行為だったのだから。


 この人間という種族がたくさん暮らす世界で、そんな生き物ですらない鬼という存在は、第六感のある者、勘が鋭い者でない限り、気づかれることがない。


「……おにひゃ」


 否、気づいた者が、一人だけ居た。


 掠れた声に、鬼は全身の毛が奮い立つのを感じた。

 鬼は大きな足を踏ん張り、あの人間と、雄の人間の前に立ちはだかった。

 そして、喰らった。

 鬼は人間の雄を、男を食った。

 意識の残りカスが未だ宿る男の体は、かくんと力を抜きうつ伏せに倒れる。食いちぎられた肉が床に散りばめられ、赤黒い血が飛散し、鬼の頬にも筋を作る。

「……っな、なんだ貴様……っわた、私になにをした……!この、この私に、なにを……!!」

 男の目は血走っていた。

 だが、鬼は不思議と怖くはなかった。

 あの時、赤子を庇ったあの人間の方が、よっぽど恐ろしかった。


 その恐ろしかった人間は、細い指をビクビクと動かしている。

 もう息も絶え絶えだ。


 男を無視し、鬼は人間を仰向けにし、細く柔い腕から赤子を取り出す。

 赤子は赤子ではなくなっていた。

 人間という種は、鬼よりも時間が早く過ぎてしまう。

 この人間と赤子が山から消えてから、もう十年近く経っていたのだ。

 赤子の、丸々としていた小さな体は見るかげもなく、背丈は伸び、やせ細っていた。

「……あに……ひゃん」

 伊都は腫れ上がり、歯の抜けた口を懸命に動かす。

「おにひゃん」

 ただひたすらに、鬼を呼び続けた。

「かあひゃま、たふけれ」


──母様、助けて。


 その言葉を皮切りに、伊都の目から大量の涙が溢れ出た。


 鬼は、その頭をそっと、震える手でそっと撫でた。

 やさしく、傷つけないよう、細心の注意を払って。

「……すまない」

 鬼は、掠れる声で呟いた。


 辛くないわけないのだ。


 傷を作って山に通っていたあの日々が、辛くないわけなかった。

 それなのに、鈍い鬼は気づかなかった。人間は鬼とは違う生き物だから。全て違うものと、勝手に心のどこかで感じていたから。


 もっと早く、この人間の痛みに気づくべきだったのだ。もっと早く、迎えに行くべきだったのだ。


 伊都は、より一層声を上げて泣いた。


 手遅れだった。

 間に合わなかった。

 あと少し、あと一秒、あとほんの一秒早くこの人間に手を伸ばしていれば。背を向けなければ、見ぬ振りをしなければ。


「もし、という言葉は、現実を変えたりしません」


 いつだったか、人間はそう言った。

 それなのに、考えてしまうのだと。人生の中での選択を、後悔してしまうのだと。


 それが、人なのだと。


 後悔、という言葉が、鬼の胸を締め付ける。人と違う存在である自分が、堪らなく恨めしくなる。


「……後悔、しない人生は……ないです」


 鬼は耳を疑った。

 恐る恐る、声のするほうを振り返る。


 人間だ。人間の女の声だ。あの細くて柔らかい声だ。

 彼女は目を少し開いて、あの暖かな笑みを浮かべている。

 なぜ見える。

 鬼の瞳には、彼女の今にも抜けそうな魂が視えた。

 彼女は、死にかけているのだ。その狭間が、鬼を映しているのだろう。


「……来てくださったのですね。ふふ……いつかは、いつかは伊都を連れ去ってくれるのでは、と……期待してました……よかったです。間に合って」

「間に合っていない」

 鬼はその屈強な手の甲で、彼女の頬をすりと撫でた。

「うふふ……私は、あなたを恨んでませんよ?」

「俺が恨む。一生、許せない」


 ああ、今気づいた。

 何故こんなにも、目の前の人間が死んでいくのが許せないのか。


 真っ黒な髪が、煌めく瞳が、優しい微笑みが失われていくのが嫌なのだ。

 伊都と彼女が過ごす穏やかな時間が失われると思うと、死に焦がれる思いになるのだ。


「俺は」


 言おうとした。


 その言葉を、紡ごうとした。


 だが、押し黙った。


「……後悔しない人生は、ない。が、人ではない俺も、後悔はするらしい」

 と言う鬼に、人間の女は可笑しそうにくすくすと笑う。

「私は、誰からも愛されない存在でした。ですけど……今では、伊都が慕ってくれる。あなたが、来てくれるほど私たちを大事に思ってくださってる。私は大好きだと思える人に出逢えたのです。あなたと山で過ごした時、だって、私は、あの時間を……とても」


──愛おしく思った。


 女はふっと目を伏せ、山での日々を思い返す。


 大切な時間だったのだ。

 とても楽に、呼吸ができる居場所だったのだ。

 それを伝えたいのに、声にならない。呼吸が出来ないはずなのに、苦しくない。


――だけど、もう少し、もう少しだけ。あとほんの少しだけ。


「……そなたには、名はあるのか」


――優しいひと。暖かい人。私をずっと愛してくれた人。私は、その気持ちに応えられないのに。

 人間は重い瞼を少しずつ閉じた。

 もう、抗う気力が残っていなかった。


「ひのき」


 と、消え入るように彼女は呟いた。


「ヒノキ……伊都は、私が育てよう」


 鬼の言葉に、彼女は目を少しだけ開いて、満足そうな笑みを残して、心臓を動かすことを止めた。


 鬼は、その亡骸の髪を、まだほんのりと温かいその頬を、愛おしげに撫でた。


 バタバタと廊下を走る音がする。

 鬼はそっと、伊都に言った。

「俺は他の奴らには姿が見えない。俺は、ここでお前のことを守ろう」

 鬼の言葉に、伊都は微かに頷いた。


「伊都様!大きな音が……お、奥様!!え、旦那様も……?どうして……」

 白髪の人間が伊都を抱え起こし、同じく駆け寄ってきた男に命じた。

「医者を連れてきなさい!はやく!」


 二人は死んでいた。

 男の不可解な死因に、屋敷だけでなく村全体で騒ぎになった。加持祈祷がそこいらで行われ、『鬼の呪い』とされた。


 伊都は大怪我を負い、絶対安静を言い渡された。

 やっと包帯が取れるのに、一週間を要した。

 伊都も、ヒノキも、ここの家の大黒柱から暴力をふるわれていた。逆らえる者など居なかった。いや、逆らおうとする者が居なかったのだ。


 ヒノキは、この家に嫁いできた嫁だった。ヒノキの家は金がなかった。そこを、通りすがったあの男が大枚叩いて強引に嫁にした。ヒノキの顔に惚れ、自身のものにしようとした。だがヒノキは表情を映さず、人形のように過ごしていた。そんなヒノキの態度が気に入らなかった男は、暴力に走る。そんな家中で、ヒノキは男との子を身籠ったのだ。


――しかし、そんな男のもとでは赤子を育てきれないだろう。


 そう判断したヒノキは、鬼がいると言われていた山に赤子を捨てた。暴力の晒されることのない場所で生き延びてほしくて、涙ながらに我が子を手放したのだ。

 だが、鬼に出会ってしまった。その出会いが、絶望を希望に変えたのだ。


――そんなヒノキの生い立ちは、伊都も鬼も知らずにいる。



 そんな地位の低い嫁に対し、家の者たちは医者を待機させておく事しかしなかった。

 伊都はそう言った。

 鬼は、全身が震えるのを抑えきれなかった。

「私は嫁ぐ必要があるから、私から治療された」

 伊都は母親を失った悲しみから、涙を流す。

 

「……母様は、私と母様の血が繋がっていることを、鬼さんは知らないはずだって言ってたよ」

「……知ってはいなかったが、親子だろうとは思ったさ」

 伊都は軽く目を見張る。

 鬼は優しい目で、伊都を見つめる。

「お前を見るヒノキの目は、いつだってお前が愛おしいと言っていたからな」

 伊都は、大きな瞳から小さな雫をポロポロと零した。


 部屋に、伊都の嗚咽が響いた。



 伊都は、間もなく男の親戚の養子になった。

 養親はとても優しく、わが子同然に伊都を育てた。

 鬼は、痛む胸を隠しながらその様子を見守った。


 それから数年後、伊都は嫁に出されることになった。

 伊都を溺愛していた養親は、縁談が決まってから毎日のように泣いた。

 伊都は困ったような顔をしながらも、どこか嬉しそうだった。


 伊都の縁談相手は、どこか気の弱そうな青年だった。

 その青年を、伊都は好ましいと言った。

「あの人は、私を大切にしてくれる」

 伊都の、幼き頃の傷は未だ癒えていない。

 悪夢にうなされることは珍しくなく、初対面の男に対してはよく震えあがる。

 そんな伊都が、「好ましい」と言った。

 鬼は、壊れ物を触るように優しく頭を撫でた。


 伊都の婚約式の前に、伊都は青年の両親に呼ばれた。

 青年の両親と三人きりで話をするのは、初めてのことだった。


 緊張を隠しきれない伊都の後を、鬼はこっそりと尾けた。


 伊都が部屋に入り座布団に落ち着くなり、青年の両親は顔を見合せ、伊都に鋭い目を向けてきた。

「おまえ、物の怪が憑いておる」

「婚前に、払っておかねばならぬ」

 青年の両親は、札の貼られた棒切れを鬼に叩きつけた。

「ぎゃあああああああ」

 鬼の悲痛な叫び声に、伊都は悲鳴をあげた。

「でたな物の怪」

「退治してくれる」


 青年の家は、代々続く退魔の一族だった。

 たった一突きで、鬼の体はボロボロになった。

「いや、やめて」

 伊都は目に涙を溜めて叫ぶ。

「伊都」

 鬼は伊都の名を呼んだ。


「さようならだ、伊都」


 鬼の優しい声に、青年の両親は怯んだ。


 鬼はその瞬間に部屋をとび出た。


 あの一突きで、鬼の核は潰された。


 鬼は、自分が祓われてしまうことには怯えなかった。


 ようやく、ヒノキの元へいけるのか。


 そう思うと、自然と口角が上がった。


 伊都は、泣いていた。それだけが少々心残りだった。

 だが、悪くない。


 自分のために泣いてくれる誰かがいるとは、こんなにも幸せなものなのか。


 山に辿り着くなり、鬼はその場に倒れ込み、浅い息を繰り返す。


 良い、生を送れた。


 ヒノキ、伊都。

 お前たちのおかげだ。


 二人に告げられなかった言葉を、鬼はそっと口にした。


 ありがとう、と。


 鬼は、声にならない言葉を残して、目を閉じた。


 

 

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