第2話 火祭りの夜
天まで登るような大きな赤い火が、空をなめるように揺らめいていた。
楽器が激しくかき鳴らされ、それに合わせて人々は楽しそうに踊る。
その祭りを離れたところから見つめる少女がいた。
「私も参加したかったのに……」
ようやく十になったばかりの少女は、祭りに参加をするのはまだ早いと言われてしまい、ふくれっ面でそれを眺めていた。
これは誰でも参加できる祭りではない。普段は草原中に散らばっている遊牧民の夜族が年に一度集い、年頃の青年と娘たちが結婚相手を見つける大切な儀式である。寝物語に何度も聞かせてもらったこの祭りを見たくて夜族出身の母に頼み、ようやく今年連れてきてもらえたのだ。
部外者以外は立ち入りを禁じられるこの祭りを見られただけでも十分だ。そう少女は自身を納得させて、入り乱れる人々の動きをぼんやり見つめていた。
「――そこにいるのは誰だ?」
不意に後ろでがさりという音ととも声が響いた。少女が弾れたように振り向くと、煌めく黒曜石のような瞳を大きく見開いて一人の少年が立っていた。
「おまえ、
夏人とは、遊牧民たちが街に定住する人々をさして言う言葉だ。冷たく言い放つ少年は、このあたりの見張りを任されているのだろう。闇に溶け込むような夜色の髪をした少年とは違う、少女の赤色の髪は異質なものに映ったようだった。
「部外者じゃないんです……母さまが、夜族なの」
震える声でやっとそう絞り出すまで、少年は黙ってじっと少女の方を見つめていた。長い沈黙に、もしかしてここは入ってはいけない場所だったのだろうかと少女が気をもみ始めた頃、少年はうつむいて短く謝罪の言葉を口にした。
「疑って悪かった。どこから来たんだ?」
「東の都市の遼煌からよ」
「遼煌? 馬で三日もかかる場所じゃないか」
「ひとりで馬に乗れるようになったら、お祭りにつれてきてくれるって母さまが約束してくれたの。だから全然平気だったわ」
「ふうん……おまえ、夏人なのに珍しいな」
少年はすこし興味が惹かれたようで、少女の隣へ腰を下ろした。少女も親戚以外の夜族の子供と話すのは初めてだったので、多少緊張しながらも好奇心を抑えられず会話を続けた。
「あなたは普段どこで暮らしているの?」
「今の時期はリア湖の近くにいる。もうすぐしたら羊達を連れて山の方へ行くけど」
「山って?」
「フア……夏人の呼び方だと、
「あんなに遠くまで移動するんだ。すごいね」
目を輝かせて見つめる少女に、少年は誇らしげに胸を張ってみせた。家で読書や刺繍をするより、馬で遠乗りをしたり弓を射ったりするほうが好きな少女は遊牧民の生活にひどく憧れている。今まで母にも遊牧民の暮らしを聞いてはいたものの、少年が語る生活は母の話の何倍も面白そうに聞こえた。
「……せっかくお祭りにつれてきてもらったのに、あなたにはまだ早いって母さまが言うのよ」
「そりゃ祭りに参加できるのは十三歳より大きい子供だけだからな。まだおまえには早いよ」
「そういうあなただってまだ参加できないんでしょう」
「俺はいま十二だから、来年からは参加できる」
つんと唇を尖らせてため息をついた少女をかわいそうに思ったのか、少し考え込んだ少年はおもむろに立ち上がって手を差し出した。首を傾げながら向かい合うようにしてたった少女に、少年はにやりと笑って「火祭りの作法を教えてやる」と言った。
「まずこうやって向かい合って、男が手を差し出す。女がそれを受け入れたら、二人で一曲踊るんだ」
はるか遠くでかき鳴らされる音楽に耳を傾けながら、少女はそっと少年の手に自分の手を重ねた。母の滑らかな手とも、父の骨張った手とも違う、自分より一回り大きい手の感触に胸の鼓動が少しだけ早くなる。
手を引かれてぐっと距離が縮まったところで少女は踊り方など一切知らないことに気が付き、困ったように少年を見上げた。
「踊り方なんて適当でいいんだよ、みんな踊りたいように踊ってるんだし」
不安を吹き飛ばすように笑ってみせた少年に促されて、少女はこわごわ足を踏み出した。音楽に合わせて足を踏み変え、手を振り踊る。はじめは戸惑いがちだった動きも、少年がうまく合わせてくれるおかげで少しずつ楽しくなってきた。
二人で視線を交わし、手のふりを合わせ、体を入れ替えくるくる回る。一曲踊り終わる頃には、すっかり呼吸を合わせて踊れるくらいになっていた。
「踊るのってとっても楽しい!」
息を弾ませてつぶやいた言葉に、同意の言葉が重なる。次はどうするんだろうと見上げた先にあったのは、火祭りの炎がちらちらと映る漆黒の瞳だった。
「次は……もし、違う人のところへ行きたければ手を離してお辞儀する」
「そのままがよかったら……?」
「その時は、こう誘うんだ。――私と歌をうたいませんか?」
少女よりずいぶんと背の高い少年が、目線を合わすようにかがんで覗き込む。その近さに、思わず少女の心臓が飛び跳ねた。手を伸ばせば届く場所に少年の顔がある。どうしたい、と優しく尋ねる声にこくりと頷くと、ふわりと微笑んだ少年は歌うように言葉を紡いだ。
「私はリア湖のほとりに住んでいます。あなたはどこから来たのでしょう?」
「私は……遼煌からやってきました」
たどたどしく歌の旋律にのせて答えた少女に、今度はそっちから聞いてみてと少年がささやいた。何を聞けばいいのだろう、としばし悩んでからそっと口を開く。
「私は今年で十になります。あなたはいくつになりますか?」
「今年の卯月で十二になります」
そうそうその調子、と少年に褒められたあと、しばらく二人は他愛もない質問を繰り返した。何が好きで何が嫌いか、何が得意で何が苦手か――鳥がさえずるように交わされる質問は、やがてこれが最後だという少年の言葉でうちどめになった。
「私の名はツァガーンバトゥ・アルタンスフ。あなたの名前を教えてほしい」
「名は……華々。
「百日後、月と青い瞳が天に輝くときに
さざめく夜の湖を閉じ込めたような紫黒の瞳が華々を射抜く。雰囲気に飲まれた少女がはい、とささやくように答えを返すとその瞳は少し動揺したように揺らめいた。これで終わりだ、とぶっきらぼうに告げられて華々はようやくこれが練習なのだと思い出した。
「本当にお祭りに参加しているみたいだったわ。ありがとう。さっき言っていたハゥってどこなの?」
「リアとフアの間をずっと進んだ先の、大きな岩のある場所だ。夜族は結婚式を上げるとき、そこで月の神様に結婚の許可をもらう」
丁寧に答えてくれる少年の頬がすこし赤いのは、火祭りの炎がさらに大きくなったからだろうか。
遊牧民の結婚式の作法は夏人のものとは全然違っていて、さらに華々のあこがれは強くなった。火祭りの作法も教えてもらえたし、これで準備は完璧なはずだ。早く三年後にならないかなあとつぶやく華々の言葉に、少年はくすりと笑った。
「そういえばあなたのこと、名前で呼んでも良い?」
「長くて呼びにくいからアルタンでいい。おまえは……ファ……うぅん、うまく発音できねぇな」
何度か少女の名を呼ぼうとして舌をもつれさせたアルタンは、しばらく唸ったあと別の名前をひねり出した。怪訝な顔をする華々に、アルタンは少女の髪を指差す。
「ハリファは、この時期に花を咲かせる赤い花だ。その髪と色がそっくりだから」
「火祭りの歌に出てくる花ね。どんな花なの?」
「ここらへんには生えてねぇな。来る途中で、ひとところにかたまって咲く赤い花を見かけなかったか」
アルタンの言葉に、華々は来る道すがらの景色のことを思い出した。言われてみれば、青々と大地を覆う草の中にまじり、真っ赤な絨毯のように赤い花が咲き乱れていたような気がする。帰りに一つ摘んで帰ろう、と心に決めて華々はアルタンヘ素敵な名前をつけてくれたお礼を口にした。
華々の母がもう寝なさいと呼びに来るまで、二人はお互いのことを色々と話した。いつまでも尽きない話題に、夜がもっと長ければいいのに、と思ったことを覚えている。
次の日。母に連れられて帰るとき、どこにもアルタンが居なくて華々はとても落胆した。次に会えるのは早くて一年後だ。最後にもう一度会いたかったのに、と後ろ髪を引かれる思いで華々は帰路についたのだった。
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