猿の内政官の息子 ~小田原征伐~

橋本洋一

第1話戦の始まり

『……晴太郎。私はあなたを愛しているわ』


 母さまの遺した言葉。

 俺に殺されたときの言葉。


 母さまは死に際でも微笑んでいて。

 俺を優しく抱き締めてくれた。

 それは父さま以上の優しさであり。

 父さま以上の呪縛でもあった――


「――っ!?」


 声にならない悲鳴をあげて、俺は飛び起きた。

 丹波亀山城の私室は、静まり返った闇に覆われていた。

 身体中、寝汗をひどくかいていて、敷いていた布団もびっしょりだった。


「……あなたさま、大丈夫ですか?」


 灯りに光を点されて、眩しさに目を閉じた。

 それからゆっくりと目を開けると、俺の妻のなつが心配そうな顔で俺を見つめていた。

 そういえば、隣で寝ていた――呼吸が荒いと気づき、ゆっくりと深呼吸する。


「……ああ、大丈夫だ」

「大丈夫なようには見えませんよ」


 八の字に眉をひそめるなつにもう一度「大丈夫だ!」と答える。

 少しだけ、語気が荒くなってしまったのは否めなかった。


「……そんな顔で言われても、納得できません」


 なつのほうも厳しい口調になる。

 まあ夫が夜中に飛び起きるのだから、当然だろう。


「また、母君の夢を見たのですか?」


 なつは無感情な声音でずばり言い当てた。

 無遠慮に聞こえる言い方だが、回りくどい言い方より良かった。

 本当に――良かった。


「ああ。あのときの光景に襲われた」

「…………」

「いつになったら、俺は許されるんだろうな」


 しばらく俺を黙って見つめていたなつ。

 そして――ゆっくりと俺にもたれかかった。

 いや、抱き締めたというのが正しい。


「母君のことは、あなたさまから聞いております」

「…………」

「うなされるのも、眠れないのも、分かります」


 なつには正直に打ち明けていた。

 俺が母さまを殺したことを。

 初めて告白したときは、静かに泣いてくれた。


「何度でも言いますよ。あなたさまは悪くありません」

「……なつ」

「悪いのは悪僧です。決して、あなたさまが悪いわけではありません」


 なつの胸に抱かれていると、ほっとする。

 とくんとくんと心音が聞こえる。

 母さまと違って、ちゃんと聞こえる。


「晴太郎くん。泣いていいんですよ」


 昔の呼び方で呼ばれて、顔をあげる俺。

 なつは優しく微笑んでいた。


「なっちゃん……」

「大丈夫ですよ。あなたさまが寝つくまで、一緒にいますから」


 俺はなつの胸に顔を押し付けて――泣き喚く。


「ごめんなさい……! 母さま……! 父さま……!」

「……よしよし」

「うう、うううう……」


 なつのおかげで、幾分か救われた気がしたけど。

 実際のところは救われていないし。

 許されてなんかいないんだろう。


 一生苦しむんだなと俺は覚悟している。

 でもいつか折れてしまいそうな気がして。

 不安が頭の中を占める――




 母さまを殺したのは俺だ。

 悪僧に見つからなければ。

 俺のほうが死んでいれば。

 そう考えなかったと言えば、嘘になるだろう。


 そもそも、俺が父である雨竜雲之介秀昭を超えようと思っているのは、母さまの死が遠因となっている。

 もしも父さまを超えることができるのなら、母さまの死が無駄にならないという証明にならないかと考えていた。

 父さま以上の何者かになれれば、それを守った母さまの死は尊い犠牲になるのではないか――


 無論、そんなわけはないと頭の中では分かっていた。

 だがそう思ってしまったら、その道を進むしかなくなってしまった。


 しかし、契機として母さまの死があったから目指したのだが、それが茨の道だとは思わなかった。

 数々の伝説を作り上げた父さま。

 数々の偉業を成し遂げた父さま。


 燦然と輝く立派な功績を残した父さまを超えるなど、平凡な俺には土台無理な話だ。

 剣術で妹に負けるほど、武の才は無く。

 内政では父の足元すら及ばないのだ。

 外交もおそらくそうだろう。


 何一つ突出したものがない。

 平々凡々な魅力のない二代目。それが俺の本質だ。

 それは俺自身分かっている。

 家臣たちも同様だろう――




 翌朝、寝不足な目をこすりながら家臣たちからの報告を聞いたり、それに応じた主命を割り振っていると、豊臣家からの使者がやってきた。

 書状を仰々しく俺に差し出した使者。それを側近の弥助が受け取り、俺に渡した。

 中を開くと達筆な字で書かれていた――戦の始まりを。


「……北条家が惣無事令を破り、真田家を攻めたらしい」


 経緯は上野国の沼田城城主、猪俣邦憲が同国の名胡桃城を攻めたことからだった。

 上野国は関東と呼ばれる地域の一つで、真田家と北条家の領土だった。

 関東の覇者になりたい北条家にとっては望ましくなかったのだろうと想像できる。


「それで、豊臣家は我らに何をせよと?」


 家老の島清興が目を細めながら訊ねる。

 他の家臣たちも耳を傍立てている。


「……軍勢を率いて、出陣せよとのことだ」


 家臣一同からおお、という声が上がる。

 一世一代の大戦なのだから当然だ。


「いよいよこれで、太平の世が訪れるのですね!」


 父さまの最初の家臣、真柄雪隆が感慨深そうに言う。


「婿殿。油断は禁物だ。相手は北条家なのだぞ」


 元徳川家臣の本多忠勝はそう戒めた。二人は義理の親子だった。


「そうなると、兵糧の調達が急務ですね。ああ、忙しい」


 雨竜家の財政を担っている大久保長安はにやにや笑っていた。


「民に無用な不安が伝わることは無いと思いますが、一応注意しておきます」


 僧侶でありながら雨竜家の内政を担う前田玄以は用心深く言う。


「どのくらいの兵を集めるのか、まだ分かりませんが、準備はします」


 有能な吏僚である元丹羽家家臣、長束政家は額に汗を流している。


「いくさ、はじまるのか。おわりのいくさが……」


 神妙な顔で言ったのは、崑崙奴で側近の弥助だった。


「殿。お言葉をお願いします」


 島の言葉に俺は頷いた。


「いよいよ太平の世へと導く戦が始まる。関東を攻め取れば、みちのくの大名も従うだろう」


 静まり返る評定の間。


「みんな、身命を賭して、戦ってくれ!」


 家臣一同は声を揃えて「応!」と大声で言う。

 その様子を見て、自然と高揚する己が居た――




 戦準備の手はずを終えたその日の夜。

 なつと雷次郎と一緒に、俺は私室で過ごしていた。


「ちちうえ。うれしそうですね」


 すっかり喋れるようになった幼児の雷次郎。

 無邪気な顔で笑うその顔は、どこか父さまに似ていた。


「ああ。もうすぐ太平の世となるんだ。楽しみで仕方ない」

「たいへいのよ、ですか?」

「ああ。もう二度と戦をしなくて済むんだ」


 そう言っても、雷次郎はよく分からないらしい。

 きょとんとした顔で俺を見つめている。


「もっと父上と遊べるということですよ、雷次郎」

「えっ!? ほんとうですか!?」


 なつの言葉にはしゃぐ雷次郎。

 俺も嬉しそうに「ああそうだぞー」と子の頭を撫でた。


「まあ今以上に忙しくはならないだろうしな」

「えへへ。うれしいです」

「……父さまも望んでいた世になるんだ」


 俺がそう言うと雷次郎は「おじいさまのはなし、ききたいです」と言う。


「うん? お前はお祖父さん好きなのか?」

「すきです。だって、ちちうえ、いいかおするから」


 自覚はなかったが、父さまのことを言っているときは、顔がほころんでいるようだった。

 まあ荒唐無稽な伝説ばかりだから、そうなってしまうのかもしれない。


「そうか。では話すか。あれは父さまが豊臣秀吉公と一緒に墨俣に城を築こうとしたときだった――」


 話していると雷次郎はあまりのことに目を丸くしたり、口をぽかんと開けたり、そして笑顔にもなった。


「おじいさま、すごいです!」

「ああ、本当に凄いお人だった」


 俺は雷次郎の頭を撫でながら言う。


「俺は、そんな父さまを超えるために戦うんだ」

「こえるため、ですか?」

「ああそうだ。太平の世となる戦で活躍すれば、今度こそ父さまを超えることができるかもしれない」


 少し真面目な顔になっていたのか、雷次郎も真剣な顔で「きっとこえられますよ!」と言ってくれた。


「ちちうえならこえられます!」

「あははは。そうか。雷次郎、そう言ってくれるか!」


 雷次郎を抱き寄せて高い高いしてやるときゃっきゃっと喜ぶ。

 そのとき、なつが何か言いたそうにしていた。


「どうしたなつ?」


 雷次郎を下ろしてなつに訊ねると「いいえ……なんでもありませんよ」と笑顔で言われた。

 何か言いたいことがあるというのは、幼馴染だから分かっていた。

 しかし追及するのも良くないと思い「そうか」と済ませた。


 いよいよ、父さまを超えるための戦が始まる。

 もし超えることができれば――父さまと母さまに認められる。

 そう信じていた。

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