第一章 負けヒロインは普通に家にいる その1

「起きぃ!」


 テーブルクロスを引き抜くようにズバッと掛け布団が剥がされた。

 シャッシャッとカーテンレールを滑る音が耳を突き、差し込んだ朝の光が眠りの膜を溶かす。

「起きぃ、ゆーてるやろー。こら~~」

 無遠慮な夢の乱入者はそれでもまだ手を緩めず、ガタガタとベッドを揺らし始めた。聴覚と視覚と触覚と関西弁、四方面から効率よく起こしにくる。

 目を開けなくてもわかる、がただ。

 揺らすのに飽きたはきっと腰に手を当てたお姉ちゃんポーズで僕を見下ろしているんだろう。男であればロングヘアー、女であればショートヘアーに分類される長さの髪の毛を艶めかせ、小さな唇を大きな眼鏡の下でキュッと結んでいることだろう。僕より頭一つ低い身長を少しでも大きく見せるため、精一杯胸を張っているに違いない。

「あ、やっと起きたし」

 瞼を開くと想像と寸分違わぬ幼馴染みの姿が見えた。

「もー、小学生ちゃうねんから。一回くらい自分で起きーや。ご飯できてるから早く降りてくんねんで」

 うっかり新妻と見紛うようなエプロン姿で人差し指を突き立てると、は制服のプリーツスカートをヒラつかせて部屋から出ていった。

 ややあって、軽やかな足音がトントンと階段を下って行き、

 

「あー! お味噌汁噴いてるー! あっつー!」 

 

 入れ替わりに元気な悲鳴が上がってきた。

 朝から声出てんなぁ。

 生まれた時からお隣さん。きようだい同然で育ったが親の仕事の都合でうちの家で暮らし始めてそろそろ一年になるだろうか。毎日のように繰り返されるこのドタバタも、もはや朝の恒例行事だ。

 

 ………って、あれ? これって繰り返されていいんだっけ?

 

「はい、お味噌汁。今、マグマやから気ぃつけるんやよ」

「ああ、うん……いただきます」

 リビングルームに降りて行くと、いつも通り父さんも母さんもとっくに仕事に出かけた後だったので、僕達はいつも通り二人きりで食卓につき、いつも通りの作った朝食に手を合わせた。

 料理が得意なは、『普段お世話になってるんやから』と、誰に言われるでもなく朝食と弁当を作るようになった。メニューはいつも和食。シェフ曰く簡単に作れるものということらしいけれど、それまで食パンを焼きもせずに齧っていた僕からすると革命的な食生活の変化だった。洋から和への転換に戸惑いを感じたのは最初だけ、一週間もすれば食卓に漂う味噌の香りがすっかり日常の一部になっていた。

 そう、今日という日は何もかもいつも通りなのだ。

「今日の出汁巻きはヤバいよ。みちろくさぶろう百人は降臨してるから。言うなればひやくさぶろうやから。お弁当にも入れてるし、楽しみにしてるんやよ」

「ああ…………うん」

 の大げさな自画自賛もいつも通りなら、両親譲りの関西弁もいつも通り。ご飯が少しやわらかいのも、和食に牛乳を合わせてくるところもいつも通りで、

「なっちゃん、ほっぺにご飯ついてるよ。ほんま子供やねんから。はい、ジッとして」

 二か月早く生まれただけでお姉ちゃん面するところも完璧にいつも通りの日常風景なので———。


「ちょちょ、ちょ、ちょっと待って。一回待って!」

 

 僕は堪らずに悲鳴を上げて立ち上がった。

「びっくりしたぁ。どしたん、なっちゃん?」

 あいおいなつという僕の名前をなっちゃんと呼ぶのはだけだ。何の屈託もなくその愛称を使うを見ていると記憶が混乱しそうになる。おかしいだろう。こんないつも通りの日常が、いつも通りに続行していいはずがない。だって僕らは一昨日———。

「どしたん、なっちゃん。ボーッとして」

「……いや、あのさあ、。ちょっと確認したいことがあるんだけども」

「ご飯の後にしいさ」

「……いやあの、ってさあ」

「ほら、お味噌汁冷めるよ。食べて食べて」


「…………一昨日、僕にフラれたよな?」


「それは言わんとってえええええええええええええええ」

 見えない何かに引っ叩かれたかのように、が椅子から転げ落ちた。そのまま勢いでゴロゴロと床を転げ回る。

「あああああ、言われたー! 早速言われてもうーたー! せっかくなかったことにしてたのにー! せっかく記憶を封じ込めてたのにー!」 

「そ、そんなことしてたのか………」

 なんか、ごめん。

 でもまあとりあえず、僕の記憶に誤りはなかったらしい。そりゃそうだろう。なにせつい二日前の出来事だ。忘れようとしても忘れようがない。僕は修学旅行先で同居人の幼馴染みに愛を告白され、


「地獄やああああああああああ!」


 即レスでお断りを入れたのだった。



 伝説の告白スポットなんてフィクションだけの存在だと思っていた。

 だから行きしなの新幹線で、宿泊先のホテルの裏に片想いの男女御用達の告白パワースポットがあると聞かされた時正直笑った。その笑いはホテルに向かうバスの中で告白スポットが木彫りの阿修羅像だと知らされて困惑に変わり、二日目の夜に他でもない阿修羅像の前に呼び出す手紙を見つけて驚愕へと移行し、阿修羅像の前に複数の女子達が待ち構えているのを見つけるに至って頭蓋骨が破裂した。

 いや、嘘だよ、こんなの。

 正直、悪友達のイタズラだと思っていた。「はーい、だーまさーれたー。今の気持ちをどうぞー」なんつって動画を撮られるものだと覚悟していた。しかし、予想に反して阿修羅像の前に立っていたのは、恋する乙女の表情を浮かべた複数の女子達。

 そして———。

「なっちゃん。ちゃんと手紙に書いた通り誰にも内緒で来てくれた?」

 妙に深刻な面持ちの幼馴染み。

 手紙の主はだった。

 どうやら僕のあずかり知らないところで僕に思いを寄せる女子達が学年やクラスを跨いでかなりギスギスとやりあっていたらしく、その空気を案じたクラス委員兼生徒会書記のが解決に乗り出したという流れらしい。誰が選ばれても恨みっこなし、後腐れなしという条件で密かにみんなを集め、こうして告白大会を設定してくれたのだという。

 いや、嘘だって、ほんとに。

 あり得ないだろ。まさか女っ気のほとんどなかった僕の人生にこんなイベントが起きるなんて。

 しかもそのメンバーがまたあり得ない。

 確かに一人だけ仲が良いと呼べる子はいたけれど、居並ぶ女子の中には会う度いつも怒られる怖い女子や、隙あらばからかってくるウザい後輩、さらに男子なら誰もが憧れる高嶺の花のモデルの卵の先輩まで混じっていたのだから。

 二年生はまだしも、先輩と一年生はどうやって旅行先までやってきたんだよ。


「じゃあ、あんまり時間もないから。そろそろ始めよっか」

 に促され、女子達は順番に胸の内を明かしてくれた。怖かっただろう。恥ずかしかっただろう。それでも彼女達は懸命に僕への気持ちを伝えてくれた。何度も言葉に詰まりながら、時に涙を浮かべながら。

 あの時の僕の気持ちは二晩越えた今でもよく定まっていない。ただ逃げてはいけないと、それだけを思いながら彼女達の言葉を受け止めていた。

 そして、全員の告白が終わった後、僕が答えを発しようとしたその瞬間、

「ごめん………わたしにも時間をくれないかな」

 が一歩前に出た。

 他の女子達の反応から察するにのこの言葉は当初の予定になかったものなのだろう。何より、本人の表情が強くそれを物語っていた。

 幼馴染みでもお姉ちゃんでもお隣さんでもない、初めて見る女性としてのの顔。

「みんな本当にごめんね、勝手なことして。でも、わたしももう自分の気持ちに嘘がつけないの。なっちゃん、待たせてごめん。うちもなっちゃんが好き。ずっとずっと大好きやった。だから…………結婚しよ?」

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